#64

 丸いティーポットに湯を注ぎ、ダージリン茶葉を投入しようとするエイイチの頭へタライがガツンと落ちた。


「痛ってえ! なんでだよ!?」


 理不尽な仕打ちに、天井へと吠えるエイイチ。しかし当然そこにはなんの仕掛けもなく、タライを落とす黒子もいない。


 場所はバーカウンターの備わったラウンジ。

 そう――猟幽會が命を賭した戦いへと挑む前、心身共に休息をとる一室である。ナワバリ関係なく集える場所ということで、エイイチ以下三名はティータイムのために移動してきたのだ。


「だいたい、なんでこんなギャグみたいな罰なんだ。エロゲーらしく服の一枚でも破れるならまだしもさあ!」


 だがその場合、ここで素っ裸の憂き目に遭うのはエイイチ自身のはずだ。エロゲーだとて、いったいどこの層に需要が見込めるというのだろう。


「エーイチくん代わって。やっぱりここは、わたしみたいなハイセンスじゃないとね」

「バカ言ってんじゃねー。料理のセンスある奴が鯛を丸ごと鍋に放り込むかよ。ここはあたしが――」


 マリとセンジュがティーポットの奪い合いを始めて間もなく、ラウンジの扉がガチャリと開いた。


「……ほう。よもや勢揃いとは」


 突然にあらわれた絶苦を前に三人共が硬直する。いち早く臨戦態勢に移行したセンジュが声を荒げる。


「な、なんでまたおまえが……! 何度来たって、もうあたしは負けないッ!」


 絶苦の冷徹な目を、真正面から睨み返すセンジュ。

 息巻くセンジュの肩へ手を触れると、エイイチが前へ出る。


「あんた、たしか猟友会の。ほんと懲りないな。センジュちゃんはここで暮らすって決めたんだ、連れていこうたって無駄だぜ?」


 あのとき気絶していたエイイチの視点では絶苦の死亡も知りようがなく、未だセンジュを留学させようと企てるはた迷惑なあしながおじさんなのである。


「まさかここでやり合うつもりですかな。狼戻館には流儀があるのでは?」


 緊張した面持ちの三人を一瞥すると、目に留まったのか絶苦はティーポットへと近づいた。

 じりじりと後退しつつマリが叫ぶ。


「や、やめて。へたに手を出すと爆発するかも!」

「ふむ、オータムナルですな。まともな給仕もいないとは嘆かわしい」


 息を吐いた絶苦は、慣れた手つきでティーポットとカップそれぞれに熱湯を注ぐ。器が温まったところで湯を捨て、ポットへ茶葉を投入。高い位置から再び熱湯を注ぎ入れた。

 熱対流によりポット内では茶葉が舞い踊り、香り立つ。


 以後数分。警戒して天井など見上げるエイイチ達だったが、タライの襲撃はなかった。

 安堵するエイイチとセンジュをよそに、マリだけは悔しそうに歯噛みする。見せ場を取られたとでも思っているのだろう。


「どうぞ」


 三つのティーカップに紅茶を注いだ絶苦が、白手袋を差し出して促す。提供された紅茶に毒を盛る機会がなかったことは、間近で見ていた三人なら言わずとも知れている。


「……う……うまい……っ」


 エイイチが素直に感嘆の言葉を漏らすと、センジュも続いてカップを口へ運んだ。エイイチほど驚いてはいないようだったが、どこか懐かしむかの如くセンジュは目を細める。

 二人の反応を腹立たしく見ていたマリも、やはり紅茶は飲みたい。悪態を吐くつもりでカップに唇を寄せたのだが。


「……ま……まぁまぁ……かな? うん。昔カフェでこういうの、飲んだことあるし」


 散々にディスるつもりで出てきた言葉がこれである。まろやかなコクと深みはアヤメが淹れるダージリンと遜色ないどころか、下手をすればそれを上回る――。


 ピシ……と。そのとき館が家鳴りのような音を出した。


 視線のみでラウンジを見渡している絶苦に、エイイチがあらためて問いかける。


「で、あんた結局センジュちゃんを連れ戻しに来たんだろ? 紅茶はごちそうさまだけど、それとこれとは話が別だからな」

「私はX10――“センジュ”に用があって来たのではない」

「じゃあ何しに来たんだよ」

「用があるのはあなたに、だ。エーイチ」


 口をぽかんと開け、間の抜けた顔でエイイチは絶苦の鋭い目を見返す。ふと何を思ったのか慌てて尻を隠した。


「え、獲物を狙う目……!」


 エロゲーならばあり得る。もちろん【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】にも複数人でのプレイで微量の百合成分が混ざる程度はあるが、がっつりと同性で致すアダルトシーンは存在しない。

 だがすでに原作エロゲーとの差異はエイイチも把握しきれないほど大きくなっている。望まぬ方向へと進む可能性が無きにしもあらず。


 いっそう気を引き締めるエイイチは“簡単にバージンはあげないぜ”と、絶苦へ不敵に笑んでみせた。

 一方、へっぴり腰で尻を押さえたまま後ずさるエイイチを、マリとセンジュは怪訝に眺めていた。どうせろくなことは考えていまいと確信があった。


「……しかし、どうも今はその時ではないようだ」


 紅茶の件といい、いかにもテクニシャンな風体の老紳士から距離をとるエイイチを尻目に、絶苦はソファへ腰をおろした。

 敵地で悠々と足を組む態度に、たまらずマリが声をあげる。


「さっきからどういうつもり? この状況で余裕ぶっていられるのも――」

「何か問題でも? それよりこの館の心配をしてはいかがか。大きなうねりの渦中にでもあるようですが」


 黒髪を火のように揺らめかせるマリを、センジュが制した。


「よせ。あいつの言う通りだ。なに考えてるかわかんないけど……ナワバリに入るようなら、今度だってあたしが、必ず」


 狼戻館はルールが支配する。誰のナワバリでもないラウンジにおいて、いかなる理由があろうと戦闘行為は許されない。


 センジュだけでなくエイイチにまでなだめられ、渋々とマリは首を縦に振る。

 ラウンジを後にしようとする三人へ、絶苦が言葉を投げかける。


「時が来るまで、ここで待たせてもらうとしましょうか。また紅茶が飲みたくなった際はいつでもお越しを。滞在費代わりに極上を振る舞って差し上げますよ」


 チリ、チリ、と家鳴りがひどくなっていく。

 実のところ、この場で最も怒りをあらわにしている人物はマリではなかった。


 室内へ視線を巡らすエイイチが、ぽつりと呟く。


「なんか、舌打ちみたいな音だな」

「……舌打ちって、誰の?」


 ただなんとなくそう感じただけのエイイチが、マリの問いに答えられるはずもなかった。



◇◇◇



 翌日、狼戻館滞在二十三日目の朝。

 アヤメの私室へ向かったエイイチは、昨日のアラ汁とクラムチャウダーの皿が無くなっていることを確認した。せっかくの二人の料理、アヤメにも食べてもらおうと部屋の前へ置いておいたのだ。


 食べてくれたのなら、まあよし。とエイイチが部屋から立ち去ろうとしたところ、扉が前触れもなくギィと開く。

 いつものメイド服姿のアヤメが、いつもより生気の失せた青白い顔で佇んでいた。


「アヤメさん!? やっぱり部屋にいたんですね! もう心配したじゃ――」

「おいしかったですか?」

「……へ?」

「紅茶は、おいしかったですか?」


 黒髪で隠れたアヤメの片目が、まるで責めるかのように冷たい光を放っている。

 エイイチは若干たじろぎつつも正直に肯定する。


「紅茶って昨日の? そりゃおいしかったですけど……てか見てたんですか!? ぜんぜん気づかなかったですよ!」

「……チ。そうですか」


 それだけ言い残し、唐突にエイイチへ背を向けるとアヤメは廊下を歩んでいく。


「ちょ、どこ行くんですかアヤメさん!? いま舌打ちしました!?」

「お二人には、十五点と二十点。そうお伝えください」


 マリとセンジュの料理に対しての評価だろう。はたしてどちらが五点上回っているのか。低レベルな争いだが、その五点を巡って醜い喧嘩が勃発するのは目に見えている。


「ま、待ってくださいって!」


 追いすがるエイイチを無視してアヤメは進む。歩法はゆっくりしたものなのに、なぜか離されないよう小走りについていくしかないほど速い。


 やがてアヤメは、一階正面の玄関口でようやく足を止めた。


「買い出しに行くだけです。食材の補充が必要かと」


 アヤメはエイイチを振り返らない。やはり怒っているらしいとエイイチも察する。


「はぁ、はぁ、外に行くんですか? 俺もお供しますよ、荷物持ちでもなんでも」

「結構です」

「そう言わずに! それにほら、よく考えたら長いこと館から出てないし。気分転換がてら一緒に行かせてください!」


 エイイチは食い下がった。好感度が落ちた原因は定かではないが、ハーレムを目指すならばアヤメの攻略は避けられない。ここで引くわけにはいかない。


「エーイチ様。行けば、あなたはきっと後悔する。向かう先にろくな真実は待っていません」


 アヤメはほんの少し首を捻ると、薄めた目で刺すように視線を突き立てる。


「それとも――。やり合いますか? いますぐ私と。外で」

「アヤメさんと、そ、外で……?」


 ついにこの日を迎えたのだ。

 これまでのエイイチならば、誘われても萎縮するだけだった。圧倒的な性の上位者であるアヤメに、自分なんかが敵うわけがないと。鼻で笑われるのがオチだと。


 だがマリにセンジュ、ツキハともいい関係を築くに至ったエイイチは自信を深めていた。まるで記憶にはないものの、たしかに三人とベッドインしたのだ。一晩でああも軟化した態度を引き出せるのだから、己の性知識や技量も捨てたものではないくらいに高まっているはずなのだ。


「望む、ところです!」


 自分は胸を借りる挑戦者。ぶつかるのだ、全力で。ぶつのだ、全力でメイドの大きな尻を。

 エイイチのふつふつと燃え上がる瞳の熱を、アヤメも敏感に感じ取った。


「……それほどの覚悟がおありなのでしたら、私も止めることはいたしません。では、後ろをついてきてください」

「後ろを、突く……っ。はい!」


 刺激を絶えず供給する、扇情的な台詞の数々にエイイチはうち震えた。ここ最近のぬるま湯に浸りきった姿を叱責されてるようでもあった。

 このメイドはひと味もふた味も違う。アヤメにここまでお膳立てされて応えないようでは男じゃない。


 アヤメに続いて正面玄関の扉を出たエイイチは、光で白む世界に目を細める。

 木々を吹き抜ける青臭い風を肺いっぱいに吸い込むと、信奉するエロゲーの屋外アダルトシーンを何度も脳内でシミュレートするのだった。

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