#65

 狼戻館を訪れたヒツジがその後、生きて館の外へ出た例は一例もない。

 これはゲーム【豺狼の宴】においても、また現実の狼戻館の過去をさらっても例外のない事実である。


 唯一、ゲーム【豺狼の宴】のエンディングにのみ、激しく炎上する狼戻館を背景に森へたたずむ主人公の姿が描かれる。

 館に生きた異形達の記録や想いの一切が焼失するGOOD END。明確に狼戻館の外が描かれるのは、かつてのツキハが願った最後の希望そのものといえるゲーム内の一枚絵だけなのだ。


 鉄錆びた正門。ゲームのオープニングでくぐる門扉を、満身創痍の主人公は足を引きずり、振り返ることなく通り抜ける。

 すべての始まりであり、終わりの場所。物語を締めくくる最終地点――。




 ……さて。そんな由緒正しき正門前で、エイイチはガンピールに押し倒されていた。


「だから今日は駄目なんだって! 今度またあらためて連れてってやるから!」

「ガウアウア!!」


 本日のパウンドはいっそう激しい。どうやらガンピールは自らも外へ連れ出してほしいようだ。

 しかしながら外出の目的が買い出しである以上、この巨体を誇る黒狼をなんの対策もせず人前へさらすわけにいかない。


「ア、アヤメさぁん!」


 仰向けに寝転がされたエイイチはガードもままならず、肉球で顔面をボッコボコにされながら、すぐそばに立つアヤメへ情けなく助けを求めた。

 アヤメは微動だにせず、しばらくの間エイイチの醜態を見下ろしていたのだが。


 エイイチは見逃していたのだ。なまじっかアヤメを仰ぐような体勢だったために、スカートの中の暗黒空間へ目を凝らすのに必死だった。


 アヤメの顔や腕には電気回路のような“線”が走り、発光して浮かび上がっていた。

 発光する回路はアヤメの足元から館へ向かって這い伸び、狼戻館が無機物とは思えない唸りのごとき音を立てる。


 異変を察したガンピールはすぐにエイイチから離れると、今にも飛びかからんとする低い姿勢でグルグルとアヤメを威嚇する。


「お。わかってくれたかガンピール! お土産買ってくるからな!」


 黒狼に解放されたエイイチは土汚れを叩き落としながら、笑顔で手など振っていた。


「では、まいりましょう」


 アヤメに発現した“回路”はすでに鳴りを潜めていたが、正門からその背が遠ざかるまでガンピールの警戒が解けることはなかった。




 ここからは正真正銘、狼戻館の外である。【豺狼の宴】主人公が敷地の外へ出るためにどれほどの犠牲を払い、奇跡を成し遂げたのか。数多のBAD ENDと苦渋の決断を乗り越えた先に、ようやくたどり着いた“自由”という名のエンディング。


 実にあっけなく森へと足を踏み出したエイイチの姿を見れば、ゲーム主人公は血涙が流れてしまうほどの衝撃を受けてもおかしくない。“俺とこいつで何が違ったのだ”と疑問が尽きないに違いない。


 あえて答えるなら、すべてが違った。

 これまでのエイイチを見てきた者ならば自明だろう。


 初見で館に抱いた感じ方も、住人へのアプローチも。ゲーム主人公と同じく何度も命の危機に瀕しながら、エイイチは異常事態に染まることなく常にあっけらかんとやり過ごした。


 萌えエロゲーとは、日常なのだ。

 穏やかな日々を忘れてはならない。ヒロインとのたわいない生活を何より大事にしたからこそ、ゲーム主人公との明暗が分かれた。


 とはいえゲーム【豺狼の宴】の主人公が無能だなどということは決してない。ただの人間・・・・・が習得可能な最大限の洞察力や身体能力、そして運という加護。ツキハが己の願望希望をてんこ盛りに搭載したスパダリ属性主人公にしてなお、現実的な落としどころがあのエンディングだったのだ。


 狼戻館住人の全員をことごとく生存させ、あまつさえ猟幽會の脅威をも排除する。想定を遥かに超える結果はエイイチ以外の誰にも残せなかったはずである。


「へぇ、いろんな花が咲いてますね。あの青紫のやつとか何ていうんだろ」

「あれは……アケビですね」


 ゲーム【豺狼の宴】になぞらえた物語も佳境。しかしまだ終わりではない。

 最後の住人たるアヤメは狼戻館でただ一人の人間・・・・・・・だ。そもそも上位者ともいえる異形は人の過ちにもある意味寛容だったが、人間は人間の醜悪さに敏感である。アヤメは本来、エイイチともっとも噛み合わない。


 今後エイイチが余裕を失くし“エロゲー主人公”の立ち居振舞いまで忘れてしまうときが来るならば――。


 アヤメの凶刃は冷酷に、あっさりとエイイチの命を奪うだろう。

 無感情で、作業的に。狼戻館をエイイチが訪れた冒頭のように。




 深い森は道なき山道となっていたが、アヤメが先導して枝葉を切り開き、踏むべき足場を事前にエイイチへと指示してくれる。

 おかげでエイイチは散策気分で山を満喫していた。


「やっぱり外は空気がうまいなぁ! 晴れてるし気持ちがいい! お、あの群生してる植物は何ですかね?」

「あれはアマクサギです。……エーイチ様、ずいぶんと楽しそうですね」


 目につく植物を片っ端からアヤメへたずね、たとえ専門でなくとも“地質学者見習い”の名折れもいいところだ。


「そりゃ楽しいですよ! アヤメさん物知りだし、なんでも教えてくれるし。前に教えてくれたこととかも、ぜんぶ覚えてますもん俺」

「教え……とは。あまり記憶にございませんが」

「いーや。アヤメさんは色々教えてくれましたよ。俺にとっては先生です」


 屈託ない笑顔で言い切るエイイチは無邪気なものだった。

 アヤメに言わせれば“家庭教師”として狼戻館を訪れているエイイチこそ“先生”そのものなのだが、いちいち突っ込むのは野暮というものだろう。


「私の話をすべて覚えていらっしゃるのならば、屋根の修繕をすっぽかしたのは故意というわけですね」

「あのときは本当にすみませんでした!! 忘れてました!!」


 木々が途切れ、見晴らしのいい開けた場所へ出る。腰を下ろすのにちょうどいい倒木があり、アヤメは目でエイイチを促す。


「少し休んでいかれますか」

「いいですね! じつは、ちょっと息あがっちゃって」


 アヤメが先導しているとはいえ、体力の差は顕著にあらわれている。

 倒木に座って汗を拭うエイイチを見て、アヤメは目を細めた。


「館へ来た当初からあなたは、私に信頼を寄せてくださいましたね。……はじめは、わずらわしく感じたものです」

「え。マジですか。そんなハッキリ、できれば聞きたくなかったんですけど……」


 いつの頃からだろうか。アヤメが好意的にエイイチを捉えるようになったのは。いくら殺気を放っても無防備に、無遠慮に距離を詰めてくるエイイチを、いつしかアヤメはこうして気遣うまでになっていた。


「今は少し、違います。そう、例えるなら――」

「例えるなら?」

「……弟。……の、ような」


 このときアヤメの脳裏には、従順で素朴な笑顔が印象的な、エイイチとは違う少年の顔がたしかに浮かんでいた。アヤメを“姉さん”と呼ぶ、幼子の声と共に。


「なるほど……おねショタ。……ありかも。けど、はたして俺がショタを名乗って許されるのだろうか……」


 許されるはずがない。

 しかしエイイチは視線を足もとに落とし、真剣な面持ちで悩んでいる。


 山間に注ぐ陽の光は心地よいもので、アヤメもまだ腰を浮かせようとはしなかった。


「ですが、度を過ぎた馴れ合いはご遠慮ください。私との約束は覚えておいででしょうか」

「それは、もちろん。言ったでしょう? アヤメさんと交わした言葉は忘れませんから」


 自信満々に胸を叩き、エイイチは辺りを見渡しはじめる。アヤメが両手をつくのに良さげな大木を探すためだ。このメイドはバックがお好きらしい。


「ならばいいのです。私を信用してはなりません。エーイチ様のことも平気で謀ります」

「アヤメさんが? はは。まさか」

「でしたらなぜ、私が季節の合致・・・・・しない花・・・・を答えたのだと思われますか?」

「ちょっと……意味が、よく」

アケビは春・・・・・アマクサギは夏・・・・・・・に咲く花です」


 エイイチはしばし固まり、顔をアヤメへと向けた。嘘をついたのだろうか。なんのために。いや、エイイチはアヤメを信じきっている。


「それなら、異常気象とかですかね。そういえば暑いのか寒いのかよくわかんないし。ほら、冬に桜が開花する――みたいな」


 アヤメは何も返事をしない。目線をただ遠景に置いて物憂げな表情だ。

 気まずさからか、エイイチも同じように遠くを見つめた。眼下の森は果てもなく広がり、いっそめまいを覚える。


「前に浴室からも見渡しましたけど、ほんと絶景ですね。というか、町までまだまだ時間かかりそう」

「いくら歩いたところで、町になど永遠にたどり着きませんよ」

「え?」


 再びアヤメを見やるエイイチ。

 アヤメはやはり、視線を合わさぬまま語る。


「かつてはこの辺りに霊道がありました。ですが破壊されてしまった今、日常を暮らす方々と交わる術はありません」

「れいどう……?」


 町へおりる近道のようなものがあったのだろうか。だがそれも壊されてしまったとアヤメは言う。


「ひどい話ですね。誰がそんなことを?」


 アヤメは目線を少し上げ、青空に薄く浮かんでいる月を見ながら口を開いた。


「すべては奴ら――猟幽會がやったことです」


 エイイチは、月の手前で漂う未確認飛行物体をぼんやり眺めつつ答えを聞いていた。


「猟友会……」


 事実だとすれば、本当にひどい話だ。館の住人にいったい何の恨みがあって、そこまでの行為に踏み切れるのか。


「エーイチ様。あなたは、まだ……私の話に疑いを持ちませんか? 私のことを信頼しているのでしょうか?」


 倒木から立ち上がり、アヤメは肩越しにエイイチを振り返る。陽光に照らし出された蒼白い顔色は病的だが、エイイチの背すじがゾクッと震えるほど美しかった。


「ここまでの道のり、覚えておいでですか? たとえば……この場にエーイチ様を置いて帰ったとしたら、お一人で館まで戻ってこられるのでしょうか」

「いや、え!? ちょっとやめてくださいよ! 冗談きついですって! ア、アヤメさん……? あの、冗談……ですよね……?」


 アヤメは一言も発さず、それでいてクスリとも笑わない。つい今しがた美しいと感じた横顔が、さながら悪意に満ちた能面へと変化したようにエイイチは思えた。


 緊張感のある静寂をたっぷりくれて、ようやくアヤメは緩やかに歩き始める。


「行きましょう。この先に、くくり罠を仕掛けてあります。鹿や猪でもかかっていないか確認して、館へ戻ります」

「帰るんですか!? あ、青姦は!?」


 たしかにエイイチの目的はそれだったが、アヤメの非情な一面を垣間見てよくぞその台詞を口にできたものだ。

 けれどこのぶしつけな言葉も、アヤメはいつものように耳障りよく解釈してしまうのだろう。


「…………おっぱい」


 立ち止まったアヤメの口から漏れ出た単語は、しかし耳を疑うものだった。エイイチですらリアクションを返せず十数秒も硬直するほどに。


「ア、アヤメさん。いま“おっぱい”って――」

「いえ。胸。……胸くらい、触られますか。楽しめるとは思えませんが。買い出しに行くなどと騙ったことの、せめてもの償いです」


 そう言ってエイイチを振り向くと、アヤメは立ち尽くす。エイイチがそろりと近づいても、人形のごとく微動だにしない。勘違いしているようでいて、アヤメはエイイチという男の本質を見抜いている。これはそういうことだ。


 自己主張控えめな小丘におそるおそる伸ばす手を、膨らむ煩悩をエイイチは途中で思いとどめた。


「やっぱりここ最近おかしいですって! 悩みとかあるなら俺、聞きますから!」

「……狼戻館で生きるには、あなたは優しすぎるのです。まるで――」

「“弟”みたいって? あーはいはい弟でいいよもう! そもそも俺はそんな優しくねえったら! ていうか俺のことはどうでもよくて、ほんとどうしちゃったんですかアヤメさん!?」

「すでにお伝えしたはず。もう以前の私ではありません」


 エイイチが両肩を掴んだ途端、アヤメの身体は発光した。顔や手の甲に例の回路が走り、エイイチは驚いて離した両手を挙げる。


「エーイチ様、私が館でメイドを続ける理由を知っていますか?」

「い、いえ。聞いたことなかったですし。あの……体、めちゃくちゃ光ってますよ?」

「復讐のためです。今も抑えきれないくらい、館がこの憎悪を燃え上がらせるべく駆り立ててくるのです」

「復讐って猟友会に? そりゃ許せないことしたかもしれないけど、だからって」

「猟幽會ではありません。私が復讐したいのは――」


 長いまつ毛に縁取られたアヤメの瞳は、暗い眼球にエイイチの顔を大きく映し出す。


狼戻館の住人・・・・・・全員に・・・

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