第一章 コドクノドクガ【待雪マリ】

#14

 狼戻館、滞在四日目。エイイチは早くも苦境に立たされる。


 この日も朝食にお呼ばれしなかったため、自らブレックファストルームへ向かうエイイチ。連日寝ぼけ眼で訪室するエイイチを、昨日同様に優雅なティータイム中のツキハが迎える。

 テーブルには、やはりエイイチの朝食は準備されていないようだ。


「ツキハさん、おふぁようございまぁす……」


 大きな掃き出し窓と曇り空を背景にツキハは、悠然と足を組んでエイイチを見据えた。

 高襟にスリットの入った中華風ドレスから伸びるツキハの脚線は美しく、かつ重なった足の重みでむちっと潰れた太ももがいやらしく。

 寝起きだったエイイチの瞳を見開かせるには十分だった。


「わたくしは、あなたの豪胆さが嫌いではありませんよ」

「はぁ……豪胆」


 家庭教師の身でありながら日中は何やら裏庭をこそこそ嗅ぎ回り、あまつさえ猟幽會の封印を破ると次女と結託してナワバリ確保に励む。三者共有のナワバリにするという約束も反故にしてバスルームを独占する。

 エイイチが来てまだ三日間での出来事である。朝食を食べたいだなどと、よく顔を出せるものだとツキハは呆れを通り越して感心すら覚える。


 だが少々派手に動き過ぎた。ツキハも真意が掴めるまではエイイチを泳がせておきたかったが、ここらで釘を刺しておく必要性を感じていた。


「でもねエーイチさん。残念だけどお伝えしなければならないことがあるの」


 深く暗い蒼みがかった黒髪は、今日はお団子状に後ろでまとめられている。そのためツキハの眼光がいつにも増して鋭くエイイチへ突き刺さる。


「俺に伝えること、ですか?」


 勿体ぶって左右に足を組み替えるツキハ。エイイチが視線で追うのを楽しんでいるかのようだ。一見隙のない女性があっさり赤い下着を晒す大胆さにエイイチは滅法効かされて、いずれ来たるツキハ攻略の情景を想像するだけで空腹も吹き飛ぶ。


 エロゲーヒロイン最高、と。ツキハの次の言葉を聞くまでは、内心でエイイチは狂喜乱舞していた。


「今日中にゲストルームを出ていただいてよろしいかしら」

「……え」




 三階西側の廊下を、アヤメの後に続いてエイイチは歩む。めずらしく落ち込んだ様子のエイイチを気にかけて、アヤメは歩きながら声をかける。


「申し訳ありません、エーイチ様。ツキハ様のご判断は、私には覆せません」

「いえ、アヤメさんが謝らなくても。それに部屋を改修するためなんだから仕方ないですよ」


 エイイチとて、改修だなんて理由を鵜呑みにしているわけではない。マリのお願いを優先して、ツキハやセンジュの私物を処分したときから覚悟はしていた。

 すなわち好感度の下降。これは避けられないと。あちらを立てればこちらが立たず。ルートを固定するとはそういうものなのだ。


 それに、意地悪に徹したいツキハの気持ちもわかる。先に説明した通り、長女とのアダルトシーンは基本的にマウントの取り合いとなる。自らがわからせられる際、相手が格下であればあるほどツキハの倒錯した性欲は絶頂へと高まるのだろう。

 エイイチはツキハの性癖を深く理解しているつもりだった。


「エーイチ様、こちらです」


 新しい寝座ねぐらに到着したようなので、エイイチは扉を開けた。

 そこは部屋と呼ぶにはあまりに細長く、そもそもインテリアの類がない。四方は冷たい石壁に囲まれて、囚人気分を満喫したい時分に重宝しそうな部屋だった。

 なんのことはない。初日に逃げるセンジュを追って入った最奥の部屋だ。奥の扉から抜ければ浴室方面へ出ることもエイイチは確認済みである。


「……俺、ここで寝泊まりするんですか?」

「はい」

「電気とか通ってます?」

「蝋燭をお持ちしました」


 アヤメから手渡された蝋燭に、エイイチは同じく受け取ったマッチを擦って火を灯してみる。薄ぼんやりとした明かりがチラチラ揺れ、石室を尚更不気味な様相へと染め上げた。


「火を消し忘れて眠ってしまわれても、滅多なことでは火事になりません。よかったですね」

「…………」


 狼戻館は各々のナワバリによって細分化されているが、住人が絶対に羊へ手出し不可能なセーフティゾーンともいうべき部屋が存在する。今朝までエイイチが過ごしたゲストルームや、そしてこの石室もそれにあたるのだ。つまり対怪異の安全面は保証されていると言える。

 が、エイイチにとって知らぬ事実なのでなんの慰めにもならない。


「私は仕事がありますので、これで失礼いたします」


 一人石室に捨て置かれたエイイチは、立ち去ろうとするアヤメを呼び止める。


「アヤメさん、その首怪我したんですか?」


 エイイチの視線から隠すように首元へ手をあてるアヤメ。気づかれぬほど小さな動きで、中指の爪をカリカリと首の包帯へ食い込ませた。


「……いえ。少しかぶれてまして」

「虫刺されですか? 山奥ですもんね! あ、虫除けスプレーとかあったら俺にも――」

「失礼します」


 エイイチの話を最後まで聞くことなく、アヤメは規則正しい歩幅で廊下の奥へ遠ざかっていった。


 もしやキスマークでも隠しているのでは。そうエイイチは訝しむも、すぐに頭を振って否定する。純愛ハーレムエロゲーに間男など挟まる余地はない。そんなユーザーへの裏切り行為をしでかして萌ゲーアワードは受賞できまい。

 だとすれば虫刺されなのだろう。納得したエイイチは、ともかく部屋を快適にしたいと頭を悩ませるのだった。




 エイイチが石室へと追いやられて数十分後――。

 苦難はエイイチのみに降りかかるわけではなかった。もはやエイイチと運命を共同するに至った者。マリもまた苦境に立たされ、絶望の淵で身悶えすることになる。


「え? アヤメさん、今なんて……?」

「マーキング用の私物を私には動かすことが出来ません。お忘れですかマリ様。ご自身かヒツジでなければ不可能です」


 自室前にて、アヤメから洗濯カゴを突き返されたマリは途方に暮れた。呆然と立ち尽くし、やがて吹っ切れたような表情になると室内に取って返す。

 マリが手にしたのは備え付けのコードレス受話器だった。




 同時間帯、エイイチはゲストルームに戻っていた。諸々のあきらめはついたのだが、硬い床に寝そべるのだけは耐えられないと思いベッドマットを取りに来たのだ。

 そのタイミングでコードレスフォンが鳴り始めたので、受話器を手に応答する。


「もしもし? あのツキハさんですか!? 違うんですちょっと荷物取りに戻っただけで! すぐ出ますんで見逃してください!」

『――ヒツジヨ、ヒサシイナ』

「なんだ、マリちゃんか。びっくりさせないでよ」

『マリデハナイ。……トコロデヒツジヨ、ナンノハナシヲシテイル?』

「いやそれがさ! 聞いてくれよ大変なんだ! 実は――」

『マテマテ。マリトイウムスメモ、キサマニハナシガアルヨウダゾ。イマカラヘヤニイクガヨイ』

「あ、そうなの? わかった、じゃあすぐ行く」


 受話器を置いて、エイイチは急ぎ三階へ向かった。マリの私室へ到着すると、ノックをする前にドアが開く。


「……わ。びっくりした。エーイチくん、奇遇だね。よかったら上がってく?」

「なんの意味があるの? このやりとり。マリちゃんの声で内線すればいいのに」

「内線? わからない。用事があるならさっさと入って」


 マリはあくまでクールな態度を貫く。いくら言及したところで無駄だと悟り、エイイチは素直に部屋へお邪魔した。

 かわいらしいキャミソールワンピース姿でベッドに座り、腕を組むマリ。とても裸の付き合いをした仲とは思えない、投げやりな口調をエイイチへ投げる。


「で。何があったの」

「実は――……かくかくしかじかで」


 マリは無言でエイイチを見上げると、目を細めて薄ら笑いを浮かべた。瞳からは殺意が波動となってエイイチへと放たれている。


「……ね。わたしのこと舐めてる?」

「ご、ごめん」


 物理的に舐めたいとはとても口にできる雰囲気ではなかった。もし愚かにもそんな台詞を吐いていたら【豺狼の宴】にも存在しないBAD END行きになるところだ。こう見えてマリは短気である。


 ともかく本当にかくかくしかじかと口走っていたエイイチはそのことを再度謝罪し、あらためて経緯をマリに説明した。




「……ふぅん。そんなことが。……なるほど、なるほど」


 マリは顎に手をあて、俯きながら室内をぐるぐる歩き回る。しばらくしてハッと立ち止まったので、正座をさせられていたエイイチは何か妙案があるのかとマリを見上げる。


「それなら、この部屋に住めばいいよ」


 マリの提案に驚き、エイイチは声も出なかった。マリの匂いで満たされた部屋を落ち着きなく見渡すなど、あからさまな挙動不審をみせる。


「……い……いいの?」

「え、うー……ん。まぁ……指示とかそっちのほうが楽だし。でも、ほら、そういうのは期待しないで絶対」

「それは、うん! もちろん!」


 エイイチは諸手を突き上げてガッツポーズする。困難を予想された一日が、マリの一言で幸福の頂点へと転化した。エイイチの三点目を決めたエースストライカー並の興奮っぷりにたじろぐマリだったが、こちらにも通すべき用件があったことを思い出す。


「で、ね? 泊めてあげる代わりというか、条件があるんだけど」

「なになに? 何でも言ってよマリちゃん!」

「エーイチくん。その……わたしのパンツ、洗ってくれない?」

「…………」


 別に断る理由はないのだが、そういうのを期待するなと言ったそばからこれである。マリのあまりにあけすけな物言いに、エイイチは無言で眉をひそめるのだった。

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