#15
「最近のマリちゃん、なんかパンツパンツ言い過ぎな気がする」
「は……? 馬鹿にしないで。そんなわけない」
エイイチも事情を一応は理解した。ナワバリを確保するために必要なマーキング。そのマーキングに使用したマリの私物は、まだ未使用の物も含めて本人ないしエイイチにしか持ち運びできないとのこと。
ただの遊びにこんな複雑なルールを設ける必要があるのだろうか。だが病弱でろくな遊びもしてこなかったであろうマリが、家族で楽しめるゲームに夢中となる気持ちは尊重したい。エイイチはマリの意向にとことん付き合う所存だ。
「とにかく、エントランスから庭に出る途中のサンルームに行って。そこがユーティリティルームも兼ねてるから、お洗濯してきて」
「サンルーム……ゆーてぃりてぃ……」
「……ガラス張りの部屋が家事室になってるの。洗濯機に入れてボタン押すだけだから」
英語に怪しそうなエイイチの反応を見て、マリは大丈夫だろうかと不安になった。と、エイイチがマリの不安とはまた異なる角度から意見する。
「ん? パンツを洗濯機で洗うの?」
「あたりまえでしょ」
「いやいや! だってマリちゃんのパンツってさ、ドット柄のやつはリボンがレーヨンだったし、脱衣所に置いたやつもシルクだし……上質な素材のやつばっかじゃん!」
「……あんまり柄とか言わないで。それが?」
「パンツは手洗いが基本だろ!」
エイイチは白熱した。興奮しているのは、パンツをいやらしいものとして捉えているからではない。小さく薄く心許なくとも、女の子の大事な一点を守り続ける最後の砦。そんなガーディアンにエイイチは敬意を表していたからだ。マリにも敬意を表してほしかったのだ。もっとパンツを大事にしてもらいたい一心だった。
エイイチの熱量にドン引きしながらも、マリは口をとがらせて反論を試みる。
「……洗濯ネット、使うし」
「駄目だ! ちゃんと洗剤に漬け込んで、やさしく押し洗いするのが礼儀ってもんだ!」
「じゃあもう、それでやってよ」
短気なマリはイライラし始めた。エイイチは残念そうに俯きながら、やれやれと首を振る。その様がよけいマリを苛立たせることにエイイチは気づかない。
「マリちゃん、パンツを洗うのに洗濯機は必要ないんだ。つまり、風呂場で自分で洗えるはずだろ?」
ぐっと言葉を詰まらせるマリ。エイイチの言に従うのなら、たしかにその通りなのだ。わざわざこんな変態に頼む必要はない。
しかし元来の引きこもりが原因か、マリは極度の面倒くさがり屋だった。下着を漬け洗いするなんて想像しただけで反吐が出る。なぜ狼戻館の支配者となるべき王である自分が、風呂場で小一時間もパンツを洗わなければならないのか。
「……エーイチくんは、洗いたくないの? わたしのパンツ」
マリは、伝家の宝刀である上目遣いを抜いた。すでにエイイチには複数の下着の柄も把握され、挙げ句は生パンツにまで触れられているのだ。今さらな恥よりも、マリは作業負担の軽減を選んだ。
今度はエイイチがうろたえる番となる。わかりやすく視線を泳がせたのち、ぼそりと呟く。
「……洗いたい……です」
「はい決まりね。これ、よろしく」
洗濯カゴを押しつけられ、エイイチは中を覗き込む。カゴの中にはクシュッとしわの寄った白いパンツがメタリックな輝きを放っている。
「サテン生地か。洗い甲斐があるな」
「……あんまり見ないで。わたしだって、ほんとはイヤなんだから」
「頼んどいてその言いようはなくない?」
エイイチの非難をさらりと受け流し、マリは「あ、そうだ」と手を打った。唐突に後ろを向くよう指示されたエイイチが渋々従うと、耳にシュルっと衣擦れの音が届く。
「なるべく少ない回数で済ませたいし……これもお願い」
そう言ってマリは、握り拳をカゴへと何やら投げ落とす。先ほどのサテンパンツの上に、透けたレースで縁取られたオーシャンブルーのパンツが重なっていた。
「わたしはお風呂、済ませてくるね。エーイチくんはお洗濯」
マリの台詞から推察するならば、つまりこのオーシャンブルーは脱ぎたてということになる。マリ自身もノーパンということになるのだが、エイイチはカゴの中のまだ体温が残っているだろうパンツにほかほかの湯気を幻視した。
「これだけは言っておくけど。……その。どうせ洗うからって、汚していいとはならないから」
「汚すって、何を――……あれ?」
カゴの中身からエイイチが顔を上げると、マリの姿はもうなかった。扉の開閉音も聞こえなかったため、不思議そうに首をひねるエイイチ。ひとまず洗濯カゴを脇に置いて、マリのベッドを背もたれに座り込む。
「マリちゃんって、絶対むっつりだよなぁ……」
そもそも汚すようなことをすると思われていることがエイイチは不服だった。
そんなことする気さらさらありませんよの体で部屋を見渡し、本棚の漫画などに目を向ける。何気なく振り返ってみれば、ベッドシーツからはより強くマリの残り香が立ち昇っている気がする。深呼吸をすると満ち足りた気分になった。
ふいにエイイチの体温が上昇し、それに伴い心臓が脈打ちはじめた。傍らの洗濯カゴを再び覗き込むと、倒錯の酔いが回り頭がぼうっとしてくる。
「…………どうせ洗うんだよな」
エイイチはカゴの中へ手を伸ばしながら、天井を仰いだ。そしてそのままの姿勢でフリーズする。
部屋の天井に、羽を広げた大きな蛾が一匹張りついていたからだ。顔面蒼白になりつつ、エイイチは洗濯カゴを手にそそくさと部屋から退室する。
「あ、あとでマリちゃんに退治してもらわなきゃ」
言うまでもなく、マリが監視代わりに置いていった蛾である。今頃は安堵して入浴を満喫しているに違いなかった。
◇◇◇
サンルームにやってきたエイイチは、当然ながら洗濯機は使わず、洗剤入りの洗面器へと浸した二枚のパンツを丁寧に洗っていた。
クロッチ部分を親指で擦る顔は真剣そのもので、下心を捨てたエイイチは絶妙な力加減で汚れを落とすことに集中している。
何事も嵌まればマメな男なのだ。
「……ふぅ。こんなもんかな!」
三度のすすぎを終え、満足気に額の汗を拭うエイイチ。良い仕事ができたと喜びの笑みを浮かべる。
裏庭に出ると曇り空だったが、雨は降りそうにない。陰干ししたかったエイイチには都合がよく、サンルームで見つけた物干し竿を手頃な木に引っ掛ける。型崩れしないよう、広げたパンツの両端を洗濯バサミで留めれば任務は完了だった。
「これでよし、と。……ついでに庭いじりも少しやっておくか。仕事だし」
地質調査をついに“庭いじり”と形容しだしたエイイチは、誰かの気配を感じて裏庭の奥へ目を凝らす。塀の手前に見知らぬ男が一人いた。
見るからに恰幅のいい男は麦わら帽子を目深くかぶり、野暮ったい長靴を履いている。片手を腹巻きに突っ込んだまま、男がのそのそ近づいてくる。
男のもう片方の手には猟銃の銃床が乗り、長い銃身を肩へ立てかけていた。
「あ。もしかして猟友会の人ですか?」
「おめぇは?」
血色のいい丸い頬をさすり、男はエイイチをじろりと値踏みする。やはり先日マリが言っていた猟友会の人間なのだとエイイチは確信を抱く。
「俺は、地質調査でここに宿泊させてもらってるエイイチって言います。熊でも出たんですか?」
「何も知らねぇヒツジか。はん、憐れなもんだ」
それきり男は口をつぐみ、エイイチを無視して通り過ぎると裏庭の扉から館の中へ入ってしまった。我が物顔で上がり込むあたり、誰かの知り合いなのだろう。夕食で出た鹿肉など分けてもらっているのかもしれない。
そこまで思考して、エイイチはハッと男が入っていった扉を振り返る。あの体格。ふてぶてしく脂の乗った中年顔。そして、キスマーク隠しと勘違いしたアヤメの首の包帯――。
もしや、竿役なのでは? と。
「いや……そんな、まさか」
頭を振るエイイチ。なぜなら【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】は誰もが知る純愛萌えエロゲーとして勇名を馳せたのだ。主人公以外の竿役など登場しないし、寝取りや寝取られとは無縁のはずだった。
しかしこれまでの事象を振り返るに、現実世界へ落とし込むにあたっての差異が生じていることもまた明白である。原作と同じ過程を歩まないのならば、今の男がエイイチのハーレムを阻むべく現れた寝取りおじさんである可能性も十分あり得る。
「おいおい、ジャンル変わっちまうだろ……!」
増大する不安を胸に、エイイチは庭いじりを放棄して走り出した。
一目散にマリの部屋へと駆け戻り、ノックもせずドアを開け放つ。
「大変だマリちゃん! 小太りのおっさんが今――……マリちゃん?」
マリはシーツを体に巻きつけて、ベッド上で膝を抱え込んで震えていた。顔色も悪く、紫色の唇でがちがち歯を噛み鳴らすマリ。何事かを訴えている様子だが聞き取れず、エイイチは慌てて傍に寄る。
「マリちゃん!? い、いったい何が――」
「……エーイチくん。今すぐ準備して」
「え? 準備って?」
エイイチに顔は向けず、忌々しげに部屋のドアを睨みつけながらマリは宣言する。
「わたし、ナワバリ広げるから。次はボイラー室を落とす……っ」
シーツからはみ出た毛糸ソックス履きの足指が、悔しそうにぎゅっと握り込まれる。
エイイチが察するに、マリの入浴中にどうやらお湯の供給を止められたらしかった。
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