#16

 間もなく夕闇が迫る頃、マリの私室にてナワバリ拡大作戦会議は続いていた。エイイチがやるべき事は難しくないのだが、いまいち不安が拭えないマリはもう一度頭から説明する。


「いい? エーイチくん。ボイラー室に入ったら、まずバレッタ。もしくは不自然な染み・・・・・・。あるいはその両方を探す」

「マリちゃん、鼻水」


 エイイチが差し出したティッシュ箱から、ソルビット含有の保湿ティッシュを数枚抜くとマリは鼻をかんだ。赤くなった鼻をすすり、何事もなかったかのように話を続けるマリ。


「見つけたら前と同じ。ボイラー室から取り除いて」

「まあ、やるけどさ……」

「不満げだね。なに?」

「バレッタはともかく、不自然な染みとかそこら中にありそうなんだけど」


 センジュがマーキングに血液を使用している都合上、これを取り除くことがもっとも厄介だった。怪しそうな箇所を手当たり次第に掃除していく他ない。しかもボイラー室をナワバリとしているのがツキハなのかセンジュなのか、もしくは両名で共有しているのかマリも知らないのだ。


「エーイチくんならきっとできるよ。わたし、信じてる」


 たとえやる気を奮い起こさせるための笑顔だったとしても、マリが両手を握ってお願いすればエイイチに断る術はない。


「わかったよ。マリちゃんのためにとりあえず行ってくる!」

「うれしい。エーイチくん好き」

「もう一回、感情込めて言ってくれない?」

「ちゃんとお願い聞いてくれたらね。ほら、早く行かないと」


 破天荒なヒロインの無理難題に応えるのもエロゲーのお約束。エイイチは息を吐いてマリの私室を後にした。


 まずは昼間マリのパンツを洗った家事室――サンルームに寄り、デッキブラシやクレンザーなどを物色してバケツに突っ込む。全面ガラス張りのサンルームは日中こそ温かな陽光が気持ちよかったが、日が落ちれば淋しげな裏庭も相まって寒々しい。物干し竿から乾いたマリのパンツを二枚ポケットに押し込むと、エイイチは庭の離れにあるボイラー室へ向かった。


「ここかぁ……」


 高窓を見上げ、一人呟くエイイチ。両開きの戸口は錆が目立つものの施錠はされておらず、何度かガタガタ扉を揺らしながら引き開けた。


 中はかなり広い。壁際に貯湯タンクとバルブ付きの太い配管が三本並び、どれも錆が浮いて老朽化が目立つ。ひとまず室内をうろうろと歩き回ったエイイチは、箱型の配電盤らしきものの上に置かれたバレッタを発見する。


 割とあっさり見つかってホッとするも、問題はこのあとだ。配管パイプや配電盤の錆、汚れた床なども染みと捉えるなら掃除にどれほどの時間がかかるだろう。途方に暮れる。

 しかし動かなければ綺麗にならないし、やらなければ決して終わりはしないのだ。


「よし……やるか!」


 何事も、嵌まれば周りが見えなくなる性質たちのエイイチである。たっぷり三時間が経過する頃には、ボイラー室の錆びた配管や配電盤、床に至るまでぴかぴかの輝きを取り戻していた。地質調査でも家庭教師でもなく、エイイチはおそらく清掃に適性がある。


 アフター後のボイラー室で気持ちよく伸びをすると、エイイチは給湯管のバルブを開放した。そして悩んだ末にレースの青いパンツを床へ置く。無骨なボイラー室に佇むパンツは、まるでマリと密会の情事があった現場のようでエイイチは興奮した。




 ともあれ仕事も終わり、すっかり暗くなった裏庭から本館へ戻る。すると一階のとある部屋から、廊下へと明かりが漏れていた。そこは主に来客をもてなすラウンジなのだが、エイイチはまだ入室したことがなかった。ただの興味本位から中を覗いてみる。


「……そろそろお決まりになられましたか?」

「いんや~まだ。おらぁ意外と優柔不断でなぁ」


 豪華な革張りのソファでくつろぐ男と、その傍らに立つアヤメ。昼に出会った猟友会の男だとエイイチはすぐに気づいた。ラウンジにはバーカウンターもあり、アヤメが提供したらしいスコッチウイスキーを男は一息にあおる。


「差し出がましいとは思いますが、たとえばボイラー室などはいかがでしょう。母屋で騒動を起こされるより、私もいささか気が楽なのですが」

「ほんとに身分を弁えてねぇなぁ、メイド。ヒツジしかヤれねぇ雑魚狩りのくせによぉ? 出しゃばんじゃねぇべ」


 会話内容は届かなかったが、二人のただならぬ雰囲気にエイイチは固唾を呑んで見守っていた。次の瞬間、男はソファに立てかけていた猟銃を手にする。そしてあろうことか、長い銃身を活かしアヤメの胸へと銃口を突き当てたのだ。


「おめぇ、罠のつもりだべ。ボイラー室に潜んでんのは【骨断ち】か? はたまた【フルード・ロア】か? へへへ。だがなぁ、おめぇは勘違いしてんだよ」


 男が銃口で挑発的に下乳を押し上げても、アヤメの姿勢は不動だった。覗き見しているエイイチだけがハラハラしていた。持ち上げられるだけの胸がアヤメにあったのかと驚いてもいた。


「おらぁハナから大物狙いだべ。散っていった猟幽會の無念、今日で晴らしてやる」


 長靴で力強く床を踏みつけ男が立ち上がる。エイイチは慌ててラウンジから身を遠ざけた。


 男のいやらしい笑み。一物に見立てた銃身を巧みに使用したプレイング。やっぱり竿役だったじゃないかと叫び出しそうな気持ちを抑えて、マリの部屋へ飛び込んだ。


「マリちゃん大変! 変態だ!」

「自己紹介の回文? それより首尾は?」

「あ、ああ。ボイラー室はバッチリ……だと思うけど」


 マリはオフショルダーの肩出しニットと、膝上のミニスカートで不自然なターンなど決める。引きこもりの唯一の楽しみ、本日のアフタヌーンファッションである。


「……? そ、それよりマリちゃん、いま一階で――」

「もういい。わたし、お風呂入り直してくる」


 実はこのミニスカ、エイイチが首尾よく働くことを見越したマリなりの褒美のつもりなのだ。しかしエイイチが意図を読み取れずリアクションを返さなかったため、マリはたいそう不服だった。


 ほんの一瞬目を離した隙にマリは入浴へ行ってしまったらしく、残されたエイイチはマリのベッドへダイブする。あとで怒られるとしても、脳が破壊されるかもしれない恐怖に打ち勝つには煩悩へすがる他なかった。

 肺いっぱいに吸い込むマリの残り香は精神安定の効果を生み、そもそも長時間の清掃で疲れ果てていたエイイチをやさしく入眠に誘う。




 狼戻館は猟幽會の入館を拒むことが出来ない。

 ゆっくりと疲れを癒やし、入念に準備を終えた猟幽會がナワバリへ侵入した際、ナワバリの主は応じる義務がある。

 ゆえに狼戻館の住民は、いついかなる時も戦いの準備を怠ってはならないのだ。それが絶対強者に課せられたルール。呪縛。


 ところでマリは、脱衣するときに下着から脱ぐという癖を持つ。スカートを脱ぐ前に早々とパンツを足から抜き放ち、ブラジャーを器用にトップスの袖口から抜き取った刹那――。


「……え?」


 脱衣所ではなく、薄暗い室内にマリは立っていた。機械音を発する貯湯槽や配管、配電盤の類が視界に入り、ここがボイラー室であることに気づいたマリ。

 突如、銃声が鳴り響く。

 マリが片手に掴んでいた、抜き取ったばかりのブラジャーが粉々に弾け飛んだ。


「……んだよぉ、へっへ。ストリップでも見せてくれるんけ? めんこい嬢ちゃん」


 肩越しに狙いをつけながら、男が下卑た笑みを浮かべる。マリの顔から未だ困惑は消えず。


「……え?」


 こうしてマリは、否応なく猟幽會との死闘へ身を投じる羽目になってしまったのだ。

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