#4
「エーイチ様、バスタオルは姿見横のチェストに収納しております」
「チェスト……ああ、チェスト。それよりアヤメさーん! 知ってますか? 古代ローマで風呂は男女混浴が当たり前で――」
「ここは日本の山奥です。それでは失礼いたします」
引き戸一枚を隔てた脱衣所からアヤメの気配が消える。ご奉仕と称して背中くらい流してくれるかもしれないと期待していたエイイチは、バスチェアに腰かけたままがっくりうなだれた。シャワーヘッドから降り落ちる温水が雨のごとく、むなしくエイイチの頭を打ちつける。
あせることはない。マリを除く攻略対象とはすでに顔合わせも済み、アヤメの手料理までご馳走になったのだ。初日にしては上出来。そう自身に言い聞かせてエイイチは手早く体を洗う。
シャンプーはメーカーの違う二本のボトルが設置されている。すれ違う際に嗅いだツキハの髪の香りを思い出しながら物色したものの、どうやら同じ物は置いていなかった。
ゲスト向けのアメニティ用品としてわざわざアヤメが準備したのだが、この不満げに眉をひそめるエイイチをもし目の当たりにすれば再び殺意が芽生えてもおかしくない。
「……ふぃ〜」
少し熱めの湯が張られたバスタブに深く身を沈める。森を右往左往したエイイチの疲れがじんわりと抜けていく。
狼戻館はオーソドックスな西洋建築だ。日本とは浴室に求める機能も根本から異なる。だが館主である待雪家をはじめ、アヤメも他の使用人も全員が日本人である。そのためか随所にこだわりの見られるバスルームだった。
風呂は汚れを落とすためだけにあらず。バスタブはエイイチのような成人男性でも最大限足を伸ばせる広さがあり、顔を斜め下へ向ければ横長の地窓が緑の景観を堪能させてくれる。高い位置から見下ろす森は、宙に浮くような楽しさまでも与えてくれるだろう。
加えて。たとえ不届き者が馬鹿みたいな長さのハシゴを用意し、覗きを敢行しようともバスタブに遮られて簡単に裸は拝めない設計となっている。よく工夫されたバスルームだ。しかし覗き云々を脳内シミュレートしていたエイイチは、行きつく結果にまた不満げな顔で舌を鳴らす。
エロゲー脳に救いはなく、やはりアヤメの殺意からは決して逃れられないのかもしれない。
ともあれ今は夜、かつ外は霧。森は見えないので思いきり背を倒してくつろぐエイイチ。天窓の彼方は満天の星空だった。最高の入浴体験にエイイチが愉悦の息を吐いた、その直後。
ひねってもいない蛇口が“ごぼ”と詰まったような異音を発し、バスタブに湯が垂れ流された。
いや、湯ではない。どろりとした粘液がまたたく間に湯船を真っ赤に染めていく。熱気が湯気と共に鉄錆の臭いを立ち昇らせる。
「お。含鉄泉かな……山奥だもんな」
【豺狼の宴】では主人公が悲鳴をあげて湯船を飛び出すシーンである。エイイチのように、むしろ喜んで頭ごと血の池地獄に沈むことがいかに異常か。
「――……ぷはっ。鉄臭せえ〜!」
全身血みどろで一人はしゃぎ、笑うエイイチ。まさに地獄絵図だった。
その後も駄目押しとばかりに排水口からごぼごぼ尋常ではない量の毛髪が溢れてくるも、平然と手ですくい取り住人の誰の毛なのか考察し始める始末。挙げ句エイイチは、バスタブの縁に毛を並べて髪以外のものが混じっていないか真剣な面持ちで検分していた。
もはや語ることはない。
風呂場での怪異に対するエイイチの反応は、ある意味見るに堪えないものだった。
バスタオルを鉄泉で汚すわけにはいかない。などと、わけのわからないところで良識を発揮するエイイチは、シャワーで綺麗に体を流して浴室を出る。
「……チェスト、チェスト……と。ああ、この木箱のことか」
アヤメに言われた通りチェストからバスタオルを取り出し、鼻歌交じりに体を拭く。ふとエイイチはきょろきょろ辺りを見渡した。
服がなかった。シャツもパーカーもジーンズも、どころか下着もなかった。脱衣所内に物を隠せる場所はなく、途方に暮れてスタンドミラーの前に立つ。
様々な角度で裸を眺めるエイイチだったが、至って普通という感想しか出てこない。中肉中背。モノも平均だと思っている。しかし大きさではない。大事なのは噛み合わせだ。鍵穴にぴったり嵌まらなければ扉は開かないのだ。狼戻館の面々、その心の扉を開いてみせると固く決意する。
「アヤメさーん! アヤメさーーん!!」
さておき裸では心許なかったので、エイイチは声を張りあげた。けれどアヤメの返事も気配もない。十数分待ったものの誰もこないので、仕方なく脱衣所の外へ出る。
狼戻館の三階奥に位置する浴室から、まっすぐエントランスへと進んでいく。状況から考えて衣服を持ち去ったのはアヤメである可能性が高いとエイイチは踏んでいる。
件のエロゲーのメイドも“洗濯機から主人公の服を夜な夜な持ち去っては一人の寂しさを紛らわせる”という特殊性癖を持っていたからだ。
覗きシチュエーションの絶頂シーンで有線接続のイヤホンケーブルが抜けてしまい、深夜にメイドの大絶叫を轟かせたことも今やいい思い出。
「やれやれ、言ってくれれば服くらい貸してやるのに」
それはそれとして立派な洋館の廊下を素っ裸で歩く解放感はなかなかに得難いものだった。エイイチはスリルと興奮の高まりを感じつつ、中央の吹き抜けまでやってくる。手すりから身を乗り出すもエントランスホールに人影は見当たらない。
二階か一階に下りるべきか。いや、例のエロゲーならば住人の私室は全員三階のはずである。自慰にふけるアヤメを発見するもよし。他の住人に偶然遭遇するもよし。より良い結果を期待して、二つの階段の合流地点を左に折れて扉を開けた。
中はまた長い廊下になっている。アヤメの部屋を探して記憶の糸を手繰っていると、前方でカチャとドアの開く音がする。進行方向の奥にサイドアップテールの金髪美少女“センジュ”が立っていた。
見た目で判断するなら初年度のJK辺りと同じ年頃だろう。センジュが着用しているのはサテン生地のベビードール。エイイチ好みのワインレッド色が歳に見合わない艷やかな色気を醸し出している。
気だるげな半目で片足立ちになると、センジュはスリッパから抜いた素足の爪先を使い、ふくらはぎを掻く。デフォルメされた巨大な羊のぬいぐるみを脇に抱え、ずり落ちた肩紐もそのままにエイイチの方へと向き直る。
あきらかにエイイチと目が合ったにも関わらず、センジュは構わず向かってきた。口元には微笑すら浮かべている。
さて。服を失い、裸で洋館を彷徨う羽目になるのは【豺狼の宴】の主人公も同じだった。年頃の少女にバッタリ出くわして慌てふためき、近くの扉へまるで誘導されるかのように身を隠す。そこは数ヶ月前に狼戻館から失踪した使用人の部屋であり、館で起きる様々な怪異や住人の秘密が走り書きされたメモを見つけるのだ。
選択肢は存在せず、必須の重要イベントである。
エイイチはその扉を素通りした。
向かってくるセンジュと同じように、エイイチも歩みを進めた。一瞬怯んだかに見えたセンジュだったが、さすがに余裕の表情は崩さず歩行を再開する。
エイイチも前は隠さなかった。堂々と揺らしながらセンジュへと迫っていく。センジュの視線が下から上、上から下へとせわしなく切り替わる。
二人の距離が五メートルを切り、やがて三メートルにまで接近した頃。羊のぬいぐるみに細腕をぎゅうっと食い込ませ、センジュが呻くような声をあげる。
「ぐ――っなに考えてんのおまえ!? 死ねッ!」
突如涙目で牙を剥いたセンジュが、反転して全速力で駆けていく。これにはエイイチも驚いて目を丸くしたが、遠ざかる背中に今さら手を伸ばしても到底届きはしない。
「え? “服を貸してあげる”って部屋に誘われる流れでは――!?」
原作のエロゲーには無いシチュエーションだった。ただ、これまでも原作に存在しないイベントが起きてきたではないかとエイイチは悔しそうに歯噛みする。攻略対象に嫌われてしまうことが何より怖い男である。
落とした好感度は挽回すればいい。エイイチは顎に手をあて“考える人”のポーズを取ると、彫像よろしく固まったまましばらくフルチンで廊下に立ち尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます