#28

 ベッドからべちゃっと落ちて、エイイチは目が覚めた。


「…………べちゃ?」


 窓の外はほんのり明るい程度で、部屋はまだ薄暗い。床のカーペットへ大の字に転がりながら、ふと違和感を覚えてエイイチは自身の体をまさぐった。


「……んむ……おはよ、エーイチくん。もう起きたの?」


 ベッドの端より半身をさらしたマリは寝ぼけ眼でエイイチを覗き込み、にへらと笑う。再び半回転してベッド中央へ戻ったマリは、むにゃむにゃと朝の微睡みへ堕ちていく。


「ふぁ……わたしね、夢を見たんだ……久しぶりに。夢の中でわたしは大きな繭を作ってさ、そこにエーイチくんと二人で入るの。なんだか温かくって、一緒に溶け合うような……そんな感じで……」


 エイイチはボクサーパンツ一枚の半裸であり、全身がぬるぬると濡れていた。髪や胸に触れた手が、ねっとりと透明な糸を引いている。


 マリはいつの間にか寝息を立てていた。起き上がりチェストから取り出したタオルで体を拭くと、エイイチは床に落ちていたいつものパーカーとジーンズへ着替えた。


「……マリちゃん。俺、洗濯してくるよ」

「んぅ……そぉ……? じゃ……これお願い……」


 シーツに包まったままゴソゴソ身じろぎしたマリは、やがて白い素足を片方だけベッドから下ろす。足首に引っかかった薄ピンクのシルクパンツが床へ落ちると、すぐさまシーツの中に足は引っ込んだ。


 パンツを拾い上げるエイイチ。つやつやと血色の良いマリの顔を見下ろして、どことなく憔悴した表情で踵を返す。


「……ぃて……らっしゃぃ……」


 寝言のような見送りの言葉にも返事をせず、エイイチは暗い影を引きずって部屋を出ていった。




 エイイチがサンルームでパンツを手洗いしていると、ようやく朝日が昇ってくる。太陽に手をかざして目を細めるエイイチは、晴れ渡る空にさえ虚しさを覚えてしまう。


 ため息を一つ吐き、裏庭へ出てみるとアヤメが洗濯物を干している。いつもなら嬉々として声をかけるエイイチも、今朝は黙って働く背中を眺めていた。


「……おはようございます。どうされましたエーイチ様、私の背後の隙でもうかがっているのですか?」


 毎度おなじみ互いの性的興奮を高め合うような刺激的な軽口も、どうしてか叩く気になれず首を振るエイイチ。アヤメは仕事の手を止めてまでエイイチへと向き直った。早朝にも関わらずメイド服の乱れなどはなく、片目隠れの黒髪も流麗な曲線を描いている。


「ふむ……何やら気落ちしていらっしゃる様子ですね。昨夜の一件が尾を引いているのでしょうか」

「……敵わないな、アヤメさんには。たしかに俺は、昨夜の件で失望したんですよ」

「失望?」

「ええ。他でもない、俺自身にね」


 昨夜といえば、マリとセンジュが三階廊下のナワバリを賭けて争ったことは周知の事実。人知を超えた二人の争いに、まるで介入出来なかった己の未熟さを痛感したのだろう。アヤメはそう解釈して深く頷いた。


「それは無理もありません」

「……こんな体たらくで、俺は本当に望みを叶えられるのかなって」

「エーイチ様はよくやっていらっしゃると思います。狼戻館で八日も過ごされたことが何よりの証」

「でも、仕事もまともにこなせてないんですよ?」


 謙遜か、あるいは自己肯定感が低過ぎるのか。猟幽會の封印を二度も破り、現在行動を共にするマリのナワバリ拡張に多大な貢献をした。誰にとって有益をもたらし、誰の障害になったのかはともかく。


「これまでこの館に招いた客人で、あなた以上の働きを成した者はおりません」


 まさかそんな風にお褒めの言葉をもらえるとは思わず、エイイチは恥ずかしそうに鼻頭を掻く。誰よりも、館の雑務をほぼ一手に引き受けるアヤメから言われたことが嬉しかった。働きぶりを評価してくれるのなら、今後はもっと積極的に庭へ手を加えていってもいいかもしれない。などとズレた意欲を燃やす。


 アヤメはふいに懐へ手を差し入れ、子供用の玩具にしか見えない手のひらサイズの拳銃を取り出した。カチカチと引き金を引けば、プラスチック製の丸っこい銃口から虹色のシャボン玉が吐き出される。


「なんか……意外ですね。アヤメさんがシャボン玉遊びなんて」


 風にあおられ不規則に揺れながら上昇するシャボン玉を、何気に目で追いかけるエイイチ。太陽と重なる前にあっけなく虹の玉は割れてしまう。


「……挫折を味わうのは、熱を持って物事に取り組んでいた証左です。これはメイドのただの戯れ言と聞き流していただいて構いませんが――」


 上空から視線をアヤメに移したエイイチは、青白い血色のその横顔に注視した。


「立ち行かない挫折は誰にでも訪れます。もちろん私にも。もっとも大事なことは失敗しないことではなく、その後どう立ち直るかだと私は思っています」


 まるで自分自身にも言い聞かせるようなアヤメの台詞に、エイイチはいたく感服する。朝日を見上げる長いまつ毛の瞳に魅入られ、その視界に自分もいつか入りたいと心が奮い立つ。


「……そうですね。俺、ちょっと弱気になってました」


 アヤメの言う通り、大事なのはリカバリー。失敗したのなら何度でもやり直せばいい。


「アヤメさん、あとでキッチンを少し借りてもいいですか?」

「……私が昼食の準備に取りかかる前でしたら、許可しましょう」

「ありがとうございます! それじゃ洗濯物、速攻で片づけちゃいますね!」


 アヤメに礼を述べると、エイイチは洗濯済みのマリの下着を手に館の中へ駆け込んでいった。


 エイイチが立ち去ったあとも、アヤメはしばらくシャボン玉遊びに興じる。昼食の準備を少しでも遅らせようとしているわけでは決してないのだ。そんな言い訳を心中で呟く自分が可笑しくて、つい口もとが緩んでしまうのだった。




 もはや運命か。一手ミスをすれば死が待ち受けるアヤメとの邂逅を奇跡のシンクロで回避したエイイチは、下着を干すために狼戻館三階の石室へやってきた。


 石室には先客がいた。狼戻館住人との立て続けの遭遇、石室で会うのは二度目となるセンジュである。

 センジュは石壁の隅に膝を抱えて座り込み、俯いていた。どうやら泣いていたのか、エイイチに見えないよう必死に萌え袖で目元をごしごし拭っている。


「……何しに来たんだよ、エーイチ」

「いや……洗濯物を干しに」

「……ここ使うなって、あたし言っただろ」


 やはりセンジュにいつもの勢いはない。それきり無言になったが、エイイチがマリのパンツを干している間ずっと鼻をすする音が聞こえていた。


「……おまえのせいだ。おまえが“ガンピール”にちょっかいかけるから」

「ガンピール?」

「狼だよ、地下の。知ってんだろ」


 あの黒狼、名前はすでにあったのだ。考えてみれば当然の話で、候補に考えていた三つの名前が霧散したことをエイイチは少し残念に思った。


「おまえがガンピールに余計なことするから、あたしは……なんであたしが……失禁、なんて……」

「しっき――!?」

「うっさいうっさいなんでもない!! うぅ〜!」


 センジュはまた深く沈み込んでしまう。

 興味深い単語が聞こえたものの、とても追求できる雰囲気でないことはエイイチにも察しがつく。ここは慰めるべきところ。何かしら失敗をしたのだろうが、それこそ今しがたアヤメに教えを受けたのだ。


 エイイチは靴底を鳴らしてセンジュへ近づくと、隣へよっこいしょと腰を下ろした。


「あっちいけよ!」

「……センジュちゃん。俺もね、恥ずかしい話、失敗しちゃったんだよ」


 聞くのではなく、失敗談を語って聞かせる。そうして立ち直る姿を見せることで、元気づけようとエイイチはしている。

 試みはあながち間違いでもなく、センジュの無言はあきらかにエイイチに話を促していた。


「実はさ、昨夜。念願の一つがついに叶ったんだ」

「……念願? んだよそれ」

「うん。マリちゃんとの初エッチ」

「…………――は? ……え、な……えっ……」

「昨夜マリちゃんと初エッチしたらしいんだ」


 目を白黒させて思わず二度見するセンジュに、エイイチも二回応じた。


「エッチしたのに“らしい”って、おかしいだろ? はは」

「いや、そん……待雪、マリと、ちょ、えっ……!?」

「初めてのこんな大事なエッチをさ、情けないことに覚えてないんだよね、俺。悔しくて悔しくて、自分を許せなくってさ」


 虚空へ遠い目を向けるエイイチから目をそらし、センジュは熱くなる顔を必死に手であおぐ。予想外の話に若干パニックに陥りつつ、努めて平静を装う。


「そそそそ、そんなの……ぇ――ち、してないからでしょ! だだ、だって、待雪マリが、そんな、想像、できな……し」

「夢っぽい微かな記憶はあるんだよ。ベッドで寝てたのにさ、なんか狭っ苦しいものに二人で包まれる感覚っていうか」

「しょ、証拠になってないだろそんなの! ああ!?」

「いや。起きた時に体がぬるぬる糸引いてて、俺は確信したんだ」

「なな、なにを……?」


 エイイチは物悲しそうに頬を緩めると、自嘲気味に呟く。


「つまりマリちゃんとの初エッチは“ローションぬるぬるえっち”だったってこと」


【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】において六つ存在する次女とのアダルトシーン。よもやその五つ目が最初に来るとはエイイチも想像の外だった。婚姻関係の重いワードが多い次女ルートにあって、純粋な快楽を目的としたこのローションプレイはいち早く賢者モードに入りたい場合にうってつけのイチオシ。

 記憶に残ってないなど、エイイチからすると切腹しても死にきれない。


「一応聞くけど……センジュちゃん、ペペローションとか持ってない?」

「ぺぺぺ――!?」

「あ、知らない? 界隈で一番有名なやつだと思うんだけど」


 強烈な用語を立て続けに浴び、平常心を失ったセンジュへとエイイチは締めの台詞を畳みかける。


「まあ、要はミスしても俺達はやり直せばいいんだよ。だから俺も、もう一度マリちゃんとローションぬるぬるえっちを――」

「もう……もう、もう、言うから……!」

「え?」

「おまえら待雪ツキハに告げ口してやるからなッ!」


 真っ赤に沸騰した顔で叫ぶと、センジュは逃げるように石室を飛び出していく。


「あっちょ!? センジュちゃん――!?」


 ツキハに告げ口をされるとさすがにまずいのでは? と、一人残されたエイイチは片手を伸ばした姿勢で固まった。

 しかしこうなってしまっては腹を括るしかない。失敗は何度でも挽回する。当初の予定通り、マリの部屋へ戻る前にキッチンへ向かった。




 鍋で片栗粉を溶かした液体をカップに入れ、エイイチが持ち運んでいると三階のエントランスでマリが待ち構えていた。

 昨日のナワバリ争いに勝利した特権――エイイチはそういう口実なのだと思っているが、こうして引きこもりが改善されて廊下で見るマリの姿は嬉しいものがある。


 だがマリのもたらした報せはあまり嬉しいものではない。


「さっきアヤメさんが来て、お姉ちゃんがエーイチくんを呼んでるって。……ね、何かやらかした?」

「えと……あの……もしかすると、マリちゃんの部屋を追い出されるかも、俺」


 館に招かれた客が、当主の妹と手順を踏まず関係を持ってしまったのだ。ツキハの逆鱗に触れて引き離されてもおかしくない。いずれは当然ツキハも含めたハーレムを目指していても、今はまだその時ではないのだから。


「何したの? 手に持ってるの、何それ?」

「昨夜のやつ、もう一回マリちゃんとしたくて。ローションぬるぬるえっち……」


 立ち尽くすマリの瞳から、完全に虹彩が失せた。


「わたしとの……神聖な……あれを」


 うっかり“神聖”などと普段ならば口が裂けても出ない単語をこぼすくらいには、マリの感情はかき乱されていた。

 時間停止したかの如くたっぷり三十秒ほどエイイチを睨みつけ、マリはおもむろにつかつかと距離を詰めていく。


 はっきりとマリの全身から立ち昇る殺気を感じ取り、めずらしく狼狽しつつエイイチは言い逃れに終始する。


「わ、忘れてたわけじゃなくって! あまりに幸せな時間だったから脳に負荷とか凄かったんだよたぶん! だから――」


 マリのスリッパ履きの踵が持ち上がる。淡く開いたマリの口が、エイイチの唇に覆いかぶさって続きの言い訳を封じた。これも時間停止したかのようにたっぷり三十秒、けれどエイイチにとってはほんの一瞬で過ぎ去った。


 離れていく温もりと粘膜が名残惜しく、綺麗な黒髪を何度も耳へかけ直しながら瞳を泳がせるマリをエイイチは茫然と見つめる。


「……今はこれでいいでしょ。……ローション、ぬる――……とかは……また今度で」


 子供に言い含めるように、エイイチの顔を下からじっとり睨め上げるマリは耳まで朱に染まっていた。笑みもないふくれっ面だが、かわいいを凝縮したこんな所作がエイイチに刺さらないはずがない。


「も……もちろん!」


 かように可憐なエロゲーヒロイン力を見せつけられては、激しい首肯を返すくらいしかエイイチに出来ることなどないのだ。


 浮かれた心境のままエイイチはさらなる飛躍を遂げるのだろうか、はたまた――……。

 しかしエイイチがたどり着いた現状は、たしかに【豺狼の宴】ではプレイヤーの誰もが成し得なかった待雪マリ生存の未来である。




 これより物語は第二章へ突入する。

【洋館住んで和姦しよ♪和洋セックちゅ♡】では三女ルートに当たり、留学を主軸として展開が描かれる。主人公は一時の別離まで覚悟する。


 奇しくも【豺狼の宴】第二章のテーマも喪失。

 過去と記憶、生命。苛烈を極める猟幽會との因縁も多くが明かされる。

 すべてを失い絶望に打ちひしがれるのはセンジュか、エイイチか。すでに正道を外れた物語の行く末は、たとえ古参プレイヤーとて誰も知り得ない。

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