#31

 室内へ入ると低かった頭上にも空間が生まれ、圧迫感から解放されたエイイチは背を伸ばした。しかし部屋は暗く、足元もよく見えない。異様な埃っぽさに少し咳き込むエイイチ。


「おーい。いい景色とか、なんも見えないんだけど!」


 振り返ったエイイチは扉越しに、部屋の中までついてこなかったビーチへと呼びかけた。返事がないのでレバーハンドルをガチャガチャやるも開かず。


「ちょっとビーチくん!? 変なイタズラやめてくれよ!」

『おちついて。僕はここにいるよ、エーイチ君。まずは左手の壁沿いに歩いていくといい』

「なんで入ってこないんだよ……」


 ビーチの嫌がらせだとエイイチは思っているが、封印された部屋に入室したが最後、封印を解かない限り外へ出ることは許されない。文句を垂れつつも仕方なく、エイイチは言われた通り手探り状態で奥へと進む。途中、何かにつまずいて足をもつれさせた。


「危ねえ転ぶとこだった。……なんだこれ、ロープかな」

『壁にスイッチのようなものがないかい? エーイチ君』

「スイッチ? えーと……これかな。ていうか、俺はエーイチじゃなくてエイイ――」

『いいや君は“エーイチ”さ、間違いなくね。さ、スイッチを入れるんだ』

「……勝手なことばっか言いやがって。なんなんだ、あいつ」


 段々とイラついてきたエイイチは、怒りに任せてスイッチを入れる。部屋全体からギギギと軋むような音が響き、前方上部に巨大な光の輪が差し込む。

 丸型に揃えられた複数枚の長方形の壁板が、どうやらブラインドカーテンの如く一斉に開いたらしい。高い位置に空いた穴から月を見上げ、閉塞感が払拭されたことにエイイチは安堵の息をもらした。


「おおすげえ……なにこれ、時計……?」


 円形にくり貫かれた壁穴には、長針と短針が0時方向で固定されている。月明かりのおかげで確保された光源を頼りに部屋を見渡すと、複雑に噛み合わさる歯車を収めた台座もある。ただし、動作はしていないようだ。


『ご明答。ここは時計塔の機械室になっている。ずいぶん長いこと動いていないけどね。簡素な造りだから壊れやすいんじゃないかな』

「ふぅん。詳しいんだな、ビーチくん」


 やはり住人の身体目当てで頻繁に館へ出入りしているのだろう。だから館の細部にまで詳しいのだ。いやらしい視線で彼女らを物色していたのだと思えばエイイチも腹が立つ。けれど想像ほどではなかったにせよ、約束通り“いい景色”は見させてもらった。


「時計塔を内から眺めることなんてなかったし、まあ貴重な体験になったよ。……だから、そろそろドア開けてくんない?」

『まだまだここからさ。梯子があるだろ? もっと上へ昇ってごらんよ』


 時計をメンテナンスするためのものだろうか。たしかに梯子がかかっているが、見た感じ外と室内を隔てる壁や窓はない。


「えーけっこう危なそうだけど……」

『大丈夫。君は物怖じしない人間のようだから。本当のいい景色、見たくはないかい』


 さすがのエイイチだって、命綱もなしに高い所へ上るには心許ない。気休め程度に落ちていたロープを拾い、端を歯車の台座へくくりつける。梯子に手をかけ慎重に上っていくと、外からの風が吹き込んで目を細めた。


「う、わぁ……」


 狼戻館の建つ森をエイイチが見下ろすのは、初日に続いて二度目である。初日のように霧は無く、月明かりに照らされた森に果てはなく、遥か彼方まで鬱蒼と生い茂っている。

 その光景を例えるなら秘境。周辺に動物以外の人など住んでいるのだろうか。


『どうだい?』

「どうって……すごいなこれ。アマゾンの奥地みたいな」

『じゃあ、話を戻すけどエーイチ君。業者とやらはいつ頃来れそうかな』

「え? それは……」


 巨大な時計の背部には足場があり、エイイチはそこへ飛び移るとあらためて眼下を見やる。舗装された道などは確認できず、この陸の孤島を前にビーチが何を言いたいのかおぼろげに理解する。


「……今日日、アマゾンにだってAmazonが届くんだ。多少時間はかかるかもしれないけど、業者だっていずれ来るさ」

『この広大な森はね、かつて神皮かんぴと呼ばれた化物が支配していたんだ』

「いきなりなんだよ? まんが日本昔ばなしか?」

『――君が無敵でいられるのは、何も知らないから』

「あのさ、さっきから話があっちこっち飛びすぎて意味が――うっ……ごほっごほっ」


 エイイチをただのヒツジではなく、猟幽會の脅威になり得る存在だとビーチは認めていた。理を無視した不条理を押しつける傲慢も、すべては無知であるからだと。ならば知らしめてやればいい。


『大丈夫かいエーイチ君。もしかして“怖い”のかい?』


 つまり恐怖を。この世界の本当の姿を。

 ひとたび恐怖を感じてしまえば瞬く間に増幅し、エイイチが持つ万能感は失われてしまう。理不尽に対抗するための理不尽。この奇跡のバランスが崩れ去ったなら、もうエイイチに死を回避する術はない。


「ガハっ! ゴホッ、あぇ……ッ!」


 エイイチは狭い足場に片膝をついて、咳き込む口を押さえる。えずくように何度か肩を震わせると、手のひらへビチャッと喀血した。エイイチの瞳が大きく見開かれる。


 ちなみに歯車の収まる台座にはこんな文字が記されている。

【病毒は恐怖により増殖する】と。

 エイイチは見落としていたが、見ていたとしてもどうしようもない。先に説明した通りこれまでの封印と違い、この部屋の封印は解除する方法がないのだ。


 封印を解けなければ部屋からも出られないので、入室した時点で詰みが確定してしまう狼戻館の中でも最悪の部類のトラップ。

【豺狼の宴】主人公は平常心を保ちつつ丸一日ほど耐えたものの、やがて毒に蝕まれる恐怖と苦しみに発狂して時計塔から身を投げる。

 ENDナンバーを埋めるためとはいえ、この隠しBAD ENDに到達したプレイヤーは皆やるせない憤りを感じたものだ。


 そしてエイイチは、どうやら【豺狼の宴】主人公ほどにも耐えられそうになかった。


「はあッ! はあッ! うぐッ――」


 口からボタボタと血を垂れ落としながら、今にも時計塔から飛び降りようとする構えのエイイチ。まるでエイイチの一挙手一投足が見えてるかのように、背後でビーチの声がする。


『さようなら。エーイチ君』


 足を踏み切って、エイイチは飛んだ。飛び降りてすぐ死を覚悟したし、後悔した。この瞬間にエイイチはただの人間・・・・・へと成り下がり、狼戻館の住人とハーレムを築くなどという偉業とは無縁のか弱き存在に成り果てた。

 怖い、怖い、怖いと。それだけを胸の内で繰り返し、狼戻館を逆さまに落ちていく。しかし瞳のみは決して閉じなかった。


 だからこそエイイチの目は捉えたのだ。高速で流れる景色の一瞬を。

 鳥の頭を模した、トーテムポールを。前面と背面に顔があり、背面の顔をエイイチは窓ガラス越しにたしかに見た。二つの顔を見た者が抱く、もっとも強い感情を奪い取るという呪物をエイイチは見てしまった。


 刹那――ロープを巻いていたエイイチの足首にガクンと衝撃が走り、落下が止まる。宙吊り状態でぷらぷらと揺れるエイイチは、ふいに笑いはじめる。


「わはははは! うおー楽しいい! バンジー最高ぅ!」


 一人楽しそうにゲラゲラとあまりにいつまでも笑っていると、エイイチの隣の部屋の窓が勢いよく開けられた。


「うるせー!! 何時だと思って――つか何やってんだおまえ!?」

「おーいセンジュちゃーん! センジュちゃんもやる!? バンジー!」

「やるかバカ! 死ぬぞ!? 近所迷惑だろ! いいからはやく上がれ!」

「ぷふ! 近所ってこんな辺鄙なところで――はいはい上がりますよ〜」


 一本のロープを器用にするすると、消防士顔負けの速度で登っていくエイイチ。恐怖を克服した男はまさしく無敵だった。


「……今のがセンジュが言ってたぁ、頭のおかしい隣人?」

「そうだよ。言った通りだったろ」

「…………うん」




 かくして無事に生還したエイイチは、時計塔の室内に戻るとロープを外した。辺りに漂っていた妙な埃っぽさも不思議と感じない。

 扉もすんなりと開き、笑み一つ浮かべずにビーチがエイイチを迎える。にこにこ顔のエイイチとは実に対照的だった。


「いやー楽しかった。いいもん見せてもらったよビーチくん」


 ビーチの尻をぺしんと叩き、エイイチは先に通路を進む。ビーチは振り向き様に決意する。


「……そうかい。それはよかった」


 ――“この場で殺そう”と。

 エイイチを生かしておくのはあまりに危険だと。狼戻館において一部の住人以外にヒツジを直接害する行為は認められないが、そのような古臭いしきたりなどどうでもいい。

 懐に手を差し入れたビーチは、しかしそのままの姿勢で固まってしまう。


「狼戻館にルール無用を挑むとは、愚か極まりない」


 ビーチの腕はいつの間にか、無数の髪の毛が絡まり縛られていた。狼狽しつつ、背後に立つ気配をビーチは察する。


「待雪、ツキハ……!」

「誰が為のルールとお思い? 狼戻館がこうしてルールを設けているのは――」


 ビーチの腕も半身も、首もとにもギリギリと巻きついた黒髪は鋼線の如く対象を絞め上げる。


「そうでもしないと勝負にならないから」


 ビーチの断末魔はほとんど漏れず、エイイチの耳にも届かなかった。




 屋根裏の梯子を降りながら、ビーチがついてきていないことを気にするエイイチ。何をもたもたしているのかと、上へ戻ろうとするエイイチを可憐な声が呼び止める。


「エーイチくん。ほら、こっちこっち」

「あ、マリちゃん」


 梯子の下でマリが手招きして待っている。悩むエイイチだったが、やはりビーチのことが少し気になった。ビーチが本当に寝取り野郎なのか、本人の口からまだ真意を聞き出せていない。


「何やってんの! こっちだってば」

「いや、でも――」

「はぁ……しょうがないな。……ほらエーイチくん? あんよはじょうず♪ あんよはじょうず♪」

「マ、マリちゃん……それって……」


 エイイチは震えた。エイイチに対する解像度が他の住人より高いマリならではの高等技術。単に好きそうな言葉を投げかけてみただけなのだが、エイイチがビーチへの未練を断ち切るには効果十分だった。


「ばぶー!!」


 梯子を降りきったエイイチは、差し伸べられたマリの両手を赤子さながら喜び勇んではっしと掴む。


「想像以上に、きっしょ」

「なんだよそれ……」


 プレイを提案されたから乗ったというのに、あまりにひどい仕打ちだ。エイイチは落胆した。

 そして手を繋いだままエイイチを部屋へ送り届けると、なんだかよくわからないままマリは帰っていった。




 程なくして、センジュの部屋へ遊びに来ていたアイナが帰るとのことで、エイイチも玄関までお見送りに向かう。玄関扉で佇むアイナの前にはツキハやセンジュ、アヤメの姿もある。つまりマリ以外、全員でのお見送りというわけだ。


 アイナの顔を初めて拝んだエイイチはかわいらしい容姿だと思ったものの、どこか引き攣った表情をしているのが気になる。


「……嘘だ、そんな……ビーチが、ヒツジなんかに遅れを取るわけが……」


 歩み出たツキハが、アイナに重みのありそうな包みを手渡した。中身は何かわからないが、ぱっと見ではスイカでも入っているかのような丸みの大きさ。

 何かに気づいたのか、包みを抱えたアイナが「ひ」と小さく悲鳴をあげる。


「猟幽會の皆さんにお伝えくださいね。狼戻館は、いつでも全霊をもってお相手致しますと。心より、またのご来館お待ちしております」


 ツキハが頭を下げると、アイナは踏み潰したままのスニーカーの踵も気にせず慌てて扉から外へと退散した。


 なるほど、賄賂だろうかとエイイチは考え込む。ガンピールのためにもやはり猟友会とは今後も付き合っていかなければならないし、アイナに関してはおそらくセンジュの留学話も絡んでくる。

 平和なハーレムはまだ遠い。世の不合理を嘆かずにいられなかった。


 各々が玄関を去り、残るはエイイチとセンジュの二人。ふとセンジュがエイイチに問いかける。


「おまえさ……その、たとえば手からビームとか出せるか?」

「え?」


 かわいそうに、マリの影響だろうか。エイイチはいたたまれない気持ちで曖昧に微笑む。


「やめろその顔! ち、もういいよ。……A1……やっぱ……んなわけないよね……」

「なになに? よく聞こえないんだけど」

「……いや。過去のしがらみだとか、そういうの」


 センジュはこの時、はじめて年相応な少女の笑顔をエイイチへ向けたのだ。


「なんかちょっとだけスッキリしたよ。ありがとな、エーイチ」


 照れ臭そうに目線を外して走り去っていくセンジュを見送り、あの笑顔を守るために力を惜しむまいとエイイチは決意するのだった。

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