#33

 ガンピールに餌付けをし、隙をついて撫で回し。裏庭にドッグランを作るのも悪くないな、と考えたエイイチは日中草刈りをして過ごした。


 広い敷地を駆け回るガンピール。想像しただけでそれが黒狼にとって自然な姿だとわかる。暗い地下室で過ごすより、ガンピールも当然喜ぶに違いない。


 おそらく飼い主であるセンジュも本当はガンピールの解放を望んでいるのではないか? そう考えたエイイチは思いにふける。


 ここは人里離れた秘境の山奥。果たして猟友会の目論見通り、狼が発見されたからといってマスコミなど押しかけてくるだろうか。いや来たとて、ちょっとサイズはでかいけれど狼犬で押し通せるのではと。

 猟友会の脅しのネタさえ無くなれば、館の住人もいやらしい魔の手に怯えなくて済むのである。


「これは一考の余地があるな」


 エイイチは独りごち、自身のハーレムとガンピールを守るために策を講じるのだった。




 キッチンで十五時のおやつをアヤメから受け取り、午後はマリの部屋を訪れたエイイチ。

 マリはチョコレートの練り込まれたスコーンを頬張りながら、テーブルを挟んで対面に座るエイイチを不満気に眺める。


 ツキハに課された制限によって自室で二人が過ごせるのは十六時まで。せっかく清楚なミニスカートを履いてやっているというのに、エイイチは何やら紙に向かって一生懸命ペンを走らせている。


「……ねぇ。エーイチくん」

「ん〜?」

「今日のわたしって、どう?」

「えー? マリちゃんはいつもかわいいよ」


 言葉は合格だが、視線はテーブルに落ちたまま。マリはクッションに深く身を沈め、伸ばした足でエイイチの膝を軽くガスガスと蹴った。


「ちょ、やめ……痛いって」


 エイイチは顔を上げない。段々と腹が立ってきたマリは、静電気のように黒髪をふわりと持ち上がらせると、エイイチの腹部に一羽の蛾を発生させる。せいぜい無様に悲鳴でもあげるがいいと笑う。


「……ん? あれ。なんだいつの間に」


 しかし腹にへばりついた蛾をそっと掴み取ったエイイチは、なんとその背にチュッと口づけして空に放ったのだ。


「ふふ。あんまりイタズラするなよ?」


 これにはマリも驚愕して膝を立て、テーブルから後ずさった。

 後ろ手に硬直するマリの脚は、煽情的な片膝立ちのN字を描いている。つまり対面からパンツが丸見えのはずなのだが、エイイチは何事もなかったかのように紙へ向かい、エロゲーマー垂涎なマリの姿を見ようともしない。

 この態度がまた憎らしい。


「あ。そうだ、マリちゃんにプレゼントがあるんだった」

「プ、プレゼント?」

「うん。だからパンツ脱いで」


 紙に目を落としたまま、手を差し出すエイイチ。マリは眉をひそめてその手とエイイチの顔を交互に見やる。


「そ、それってわたしがエーイチくんにプレゼント渡すことになるんじゃ……」

「ん? なに言ってんの。ナワバリ欲しいでしょ? ほらはやく脱いで」


 続きの言葉を受けて、エイイチの言わんとしていることをマリも察した。マーキング用の下着ならば着用中のものを渡さずとも、適当に洗濯済みのものをくれてやればいい。

 だがエイイチの意図を理解したにも関わらず、マリは腰を浮かせると片足ずつ下着を引き抜いた。


「……はい……これ」


 生々しく熱のこもったパンツを受け取りエイイチはようやく面を上げる。そしてマリの頭上にある壁掛け時計を確認し、慌てて立ち上がる。


「やっば! もうこんな時間か。それじゃまたね! マリちゃん!」


 ポケットに折り畳んだ用紙とパンツをねじ込むと、エイイチは脱兎のごとく部屋を飛び出していった。


「なに……? あれ」


 怒りはもちろんあるのだが、それ以上の不可解さにマリは仏頂面で首を傾げるのだった。




 約束の十七時。裏庭で腕組みをして待つエイイチの元へ、センジュがサイドアップテールの金髪をポリポリ掻きながらやってきた。

 指導とのことで、センジュも一応はそのつもりで上下ともにオレンジの蛍光ラインが入った長袖ジャージ姿だ。


 夕暮れに染まる空を無言で眺めていたエイイチは、ゆっくりとセンジュへ視線を移す。


「遅い」

「ちょうどだろ」

「五分前行動が基本だ。ちなみに俺は三十分前からここに立っている」

「仕事しろよ……」


 やる気に満ち溢れたエイイチはとてもうざったい。何よりセンジュはエイイチがA1であるのか見定めたい思いもある。逆らうのはほどほどにして、話を進めろと鋭い眼光で促した。


「よし。じゃあ、まずこれを読んで」


 エイイチはポケットから引き出したものをセンジュへと手渡す。センジュが両手で広げたのはマリのパンツだった。奇しくもセンジュのジャージラインと同じくオレンジの蛍光色パンツ。


「ごめん。間違えた。それ返して」

「…………」


 パンツと交換する形で、エイイチはあらためてセンジュへ用紙を手渡した。紙を広げたセンジュは無言で目を通し、エイイチを見上げる。


「……なに? これ。“寝取られないための極意”とか書いてんだけど」

「読んで字のごとく。その書には極意をしたためてある」


 エイイチの表情は真剣そのものだ。センジュは再びぺらぺらの紙へ目を落とし、眉間にしわを寄せた。“寝取られ”の意味がわからないのだが、偉そうに師匠面をしているエイイチへ聞くのも憚られる。


「じゃ、俺が猟友会役やるから。シチュエーションはここ“裏庭で遭遇しちゃった場合”な?」

「お、おいちょっと待っ――」

「はいスタート!」


 豪快にパシーン! と両手を打ち鳴らし、エイイチは裏庭の奥へと駆けていく。すると何かが憑依したかのように猫背になり、のそりのそりとセンジュに向かって歩いてくる。


「くっく。嬢ちゃんいい汗かいてるじゃねぇか。おじさんとも一緒に汗をかくことしようや」

「な……!? きめぇ! ぶっ殺すぞエーイチ!」

「はいだめーー!」


 腕をクロスさせ大きくバッテンを掲げ、エイイチはやれやれと息を吐く。


「そんなんじゃまるでだめだよセンジュちゃん。挑発に乗っちゃったら相手の思う壺。寝取ってくださいって言ってるようなもん」

「だから寝取るとかなんなんだよくそ……っ。相手は猟幽會なんだろ!? んなもんぶん殴って叩き出しゃいい!」

「暴力はもっとだめだ。逆上した猟友会に何されるかわかんないぞ」

「あたしは猟幽會なんかに負けない!」

「そんな威勢のいいやつが一番“くっ殺”言う羽目になるんだよ!」

「クッコロ……!?」


 エイイチの口からまた馴染みのないワードが飛び出し、悔しそうに歯噛みするセンジュ。だいたいなぜここまで否定されなければならないのか。理不尽さに怒りも込み上がる。


「強くなりたいんだろ? 俺を信じてくれれば、きっと何者にも負けない強靭な精神力が備わるはずだ」

「だから、どうしろって――」

「センジュちゃん、極意書をよく見て。そこにセリフが書いてある」

「セリフって……え……こ、これを読めっての?」

「はいスタート!!」

「ちょ待――」


 再び寝取りオヤジが憑依したエイイチは、センジュを見下ろし下卑た笑みを浮かべる。いきなり続きが始まった指導に焦りが生まれ、センジュは必死に用紙のセリフを読み込む。


「げへへ。おじさんが、身体が柔らかくなるレッスンしてやるからよぉ」

「えと……や、やめて、ください。あた、あたし、まだそういうことは、その、経験が」

「はいカットー! そんなのおじさんが喜んじゃう反応でしかないよ」

「おまえが書いたんだろッ!!」


 エイイチは困ったように鼻の頭を掻くと「わからないかなぁ……」などと不出来な生徒をまるで憐れむかのように微笑んだ。センジュからすればめちゃくちゃ癪に障る顔である。


「たしかに言ってなかったけど、極意書にはあえて誤った回答を書いてある。これは想像力を鍛えるための――」

「もういいやっぱぶん殴るっ!」

「すぐ暴力に走るとか思考がマリちゃんと一緒だぞ!」

「誰があんなゴリラと一緒だ訂正しろてめえ!!」




 エイイチの不条理な指導はみっちり一時間ほど続けられた。終わった頃には日が落ち、センジュの瞳も死んだように暗く光は失われていた。


「明日も同じ時間にやろうか。センジュちゃん、またね!」


 エイイチと別れ、自室に戻ったセンジュはげっそりと痩せても見える。すぐにもベッドへ横になりたかったが、煩わしいことに部屋の内線が鳴り響く。

 仕方なくセンジュは受話器を持ち上げた。


『――ねぇ! エーイチくんがなんかおかしいんだけど! あんた何か知って――』

「聞きたいのはこっちだよ! なんなんだあいつは!? 脳が膿んでるッ!!」

『そ、そこまで言うほどは――』

「あるよ! 今日なんてあいつ――」


 姉妹は狼戻館の歴史において初めて、受話器越しに十数分もエイイチの異様さについて激論したのだった。

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