#39
狼戻館、正門前。時刻は“時流し”発動より少し遡る。
月明かりに浮かぶ狼戻館は妖しげな灯りを漏らし、常人ならばたちまち魅入られ、思わず踏み込んでしまうであろう魔性を放っていた。
しかし猟幽會のこの二名は違う。数多の異形を討ち滅ぼし、くぐり抜けた修羅場は二名から恐怖の色を取り去った。立て籠もる異形は残りわずかだが、猟幽會も多くの同志を失った。
ゆえにアイナと絶苦の瞳に宿るのは、それぞれ湿度の異なる敵意のみである。
「――掛けまくも畏き祓戸の大神等、諸の物怪有らむをば封じ給ひ滅し給へ。恐み恐み白す――」
アイナが唱えると、正門や周辺木々から大量の蛾が落ちた。はて、と絶苦は顎に手をやり考え込む仕草をみせる。
「
「ぜんぶ唱えるのめんどぉ。文言も“うち流”に変えてるし、まぁ今ってそういうもんよ皆さぁ。大事なのはハート♡ ってやつ」
「……なるほど。現代の感覚はよく掴めませんな。すでに我々の来訪が察知されているのであれば、こんな虫けら程度を相手にするのは無意味かと」
「だってぇ虫気持ち悪いじゃん。それよりとっととやっちゃってよ絶苦」
切り揃えられたショートボブの前髪を撫でつけながら促すアイナ。絶苦は正門に向き直ると、両手を突き出し宙空に印を結んだ。
「ルール無用の盤外戦術も悪くはなかった。B1に最後まで遂行するだけの実力さえあったならば」
「おいおまえさぁ! グダグダと御託はいいって、うち言ったよねぇ!?」
「ふ……ロートルの戯言とでも聞き流してもらえませんかね。そうそう、おそらく数秒で戦闘に入ると思われますが、準備は?」
「チ! できてるよ、やれ!」
「では、時を流します。なに、瞬きをほんの二、三回程度――」
絶苦が印を組み替えれば、唐突に夜空がぐるぐると巡り始める。その加速に使用者の体感が引っ張られることはない。絶苦やアイナが一秒を数える間に、日は実に約十日が経過していた。
雪山を転がる岩の如く加速度は増していく。そして使用者から距離が遠ざかるほどに影響力も跳ね上がる。
狼戻館住人も当然、異変にはすぐに気づいた。
“時流し”発動後、狼戻館三階。自室の窓からアンニュイに月を見上げていたセンジュが、もっとも早く絶苦の術に反応した。
「なんで……こんなの、効果がある奴なんて」
ハッとベッドを飛び降り、廊下に飛び出したセンジュはすぐ隣の扉を叩く。
「エーイチ! おい開けろエーイチ!!」
遠慮なく扉を蹴破るも、中にエイイチの姿はない。舌打ちし、焦りを募らせながらセンジュは考える。エイイチの行きそうな場所、いやそれよりも“使用者”の元に向かうべきか。
エイイチを見つけたとて時流しを止める手立てはない。術を止めるには絶苦を叩くしかないのだ。
センジュがこうしてわずかな迷いをみせている間に、流れた時はすでに
歯を噛みしめ、センジュは飛ぶようにフロアの階段を駆け下りた。
他方で、その頃マリも自室にいた。
カーペットに片膝を立てて座り、アヤメからの聞き齧りで足の爪に色を塗っていたマリ。猟幽會の接近を探知しつつも余裕でいたのだが、ご自慢の蛾が墜とされると態度を一変させる。
監視を失ったことが問題なのではなく、マリが目をつけたのは、蛾に対してアイナが取った撃退行動である。
思わずネイルブラシを投げ捨て、立ち上がるマリ。
「今のって、祝詞……? 祝詞だったよね。ふふ――見ぃつけた」
部屋にはカーテンが引かれているため、周囲の異変にマリはまだ気がついていない。それでも猟幽會の二名が何かしらの攻撃を仕掛けてきたことはわかっている。
狼戻館の意志を反故にした、これはあきらかなルール違反。ならばこちらも自由に動くことが可能となる。と、祝詞を唱えたアイナを標的とするマリ。
マリが執着するには理由があった。エイイチの解呪の件だ。解呪の条件として、ツキハから提示された助言は二つ。
一つが“オオカムヅミ”の実をエイイチに食べさせること。大神実命とも呼ばれる桃に似た実は、内包された霊力により邪を祓うと言い伝えられている。
裏庭にマリが撒いた種は、狼戻館の宝物庫に保管されている貴重品の一つだ。それをすんなりと譲ったツキハの真意まではわからない。ただオオカムヅミはたったの三日で実をつけたとも、百年が過ぎても実がならなかったとも逸話が残っている。非常に不安定な代物だった。
寿命など無いに等しいマリは気長に待つつもりであったが、助言の二つ目は自分一人の力ではどうしようもなかった。
それが、実を与えた者に“祝詞を聴かせる”という解呪条件である。
狼戻館の住人で祝詞をあげられる存在がいるわけもなく、言霊を発したアイナにマリが目をつけるのも当然のこと。なんとしてもアイナの身柄を拘束して、オオカムヅミの実がなるまで生かさず殺さず監禁してやる。と冷徹にマリは笑む。
「待っててね、エーイチくん。仕方ないから、わたしが助けてあげる」
決戦に臨む際、マリは正装を好む。
まずは下着からとスカートをたくし上げたマリは、パンツに親指を差し込むのだった。
そしてエイイチとガンピールは“時流し”発動時点で、使用者の絶苦からもっとも遠い屋根裏の時計塔にいた。
突然に高速で流れ出した空を不審に見上げていると、どうやら大時計の針も換気扇の如く凄まじい勢いで回転している。エイイチもさすがに原因究明のため立ち上がらずを得ない。
「わけわかんね……。ガンピール、俺ちょっと下の様子見てくるよ」
黒毛の柔らかい頬をぐにぐに揉んで、屋根裏をあとにするエイイチ。ガンピールはじっと何か伝えたげにその背中を見送った。
ひとまず三階へと下りてきたエイイチは、静まり返った狼戻館をひた歩く。どことなく不安を駆り立てられる。誰か人に会いたいと思った。
「マリちゃーん。マリちゃんてば」
マリの私室をノックするも返事がない。この時間にあの引きこもりが部屋を出るはずないのに、とドアノブを捻る。
エイイチが部屋に立ち入ると、はたしてそこにマリはいた。
「なんだ、いるじゃん。なんで返事してくれないの? ……マリちゃん?」
マリは前かがみに、膝下までパンツをずり下げた姿勢で静止しており、視線もエイイチに向けてはこない。
なぜ無視されるのか納得できず、不満げなエイイチはマリの顔の前で手を振ってみせる。しかしマリの瞳は瞬きすらしないのだ。
「あれ、マリちゃん……? お、おーい」
マリはマネキンのように固まっている。すかさず後ろに回り込み、屈んで突き出された尻を眺めるエイイチ。普段ならば絶対に蹴りが飛んでくるところ、やはりおかしいと感じエイイチは考え込む。
「そ……そんなまさか、これって……」
思うところがあったのか、マリの部屋を飛び出したエイイチは三階エントランスまで走る。
たどり着いたエントランスで、駆けている最中としか表現できない躍動感あるポーズのまま、マリと同じように固まっているセンジュの姿を発見した。
「やっぱり! で、でもどうして、こんな……こんな――」
エイイチは震える。ガクガクと笑う膝で後ずさる。
たとえ恐怖は感じられなくとも、嘘のような現実から目を背けるように、首をゆっくりと横に振るエイイチだった。
さて、絶苦が一度目の瞬きを終えた。
視界に収まる狼戻館に変化は見られない。相変わらず空や周辺の木々は目まぐるしく様相を移り変わらせている。
絶苦やすぐ傍にいるアイナにとっては些細な四、五秒後の世界。だが現実にはおよそ
時は加速を続けているので、絶苦が予定する
時を操る絶苦の能力は破格。されど万全ではない。
記した通り、使用者である絶苦から距離が離れるほど時流しの影響は大きくなる。経過時間の体感も倍増していく。
五十年の月日を、十秒にも満たない感覚で超えていく絶苦とアイナ。比して狼戻館三階にいたセンジュやマリは、体感で二、三分を数えていることだろう。
屋根裏のエイイチに至っては十二時間ほどにも感じられているはずだ。
そして時流しの真価とは、経年による肉体の老化現象まで発現させる恐ろしさにある。
エイイチが十二時間の経過を体感している間に、体細胞に五十年分の衰えが刻まれる。
寿命などほぼ無いに等しい化物にはまるで効果を見込めないが、言うまでもなく人の命は有限。
狼戻館の異形の誰でもなく、つまり絶苦が時流しの標的として選んだのはエイイチだった。
絶苦自身は時流しの影響を受けないからこそ、発動中は無防備な
報告から戦闘能力が無いと判断されたエイイチにたどり着かれたとて問題ではなかった。急激な老衰を迎えた肉体が思い通りに動くはずもなく、どころかとうに死んでいる可能性も高い。
絶苦にとっては時流し発動中の数秒間、他の住人が自身の元まで駆けつけられるかどうか。その
この五十年の時流しがギリギリのラインだと絶苦は見極めていた。
間もなく時流しが完了する。
おそらく目前まで迫っているであろう異形との決戦に備え、絶苦もアイナも臨戦態勢に入る。直後のこと――。
「あ――動いた。おっさん大丈夫? 死んでんのかと思って焦ったよ! そっちの子はセンジュちゃんの友達だったよね? ちょっと待ってな、門を開けてやりたいんだけど……なんかめっちゃ重くてさぁ……!」
絶苦の真正面に、正門を挟んでエイイチが立っていた。エイイチは歯を食いしばり、テコでも動かない鉄門扉を相手に奮闘している。
「――――……」
言葉も出せず、絶苦は目を見開いていた。
間違いなく、確実に五十年の月日が経過した。
それなのに目の前のエイイチはこめかみに青筋を浮かべ、若々しい姿を保ったままで鉄門扉に力をぶつけているのだ。
「な!? おいエーイチそこから離れろ! どけ! そいつらはあたしがッ!」
エイイチの後方から、センジュが獣の如き勢いで迫る。いち早く立ち直ったアイナが叫ぶ。
「絶苦!!」
「っ――」
白手袋を懐へ滑らせると、絶苦は
「なっなんで銃!? あんたもやっぱり寝取り野郎だったのか!?」
冷静さを欠いた代償は、絶苦の精細をも奪う。射撃の反応が遅れた一瞬の隙に、上空より黒い塊が飛来した。
「ガアウッッ!!」
エイイチの襟首を咥え上げたガンピールが俊敏にバックステップで遠ざかる。絶苦が視線をガンピールとセンジュへ交互に行き来させたのも、エイイチにとって好材料となった。
「ち、違うんだ! こいつは狼に見えるけどちょっとでっかいだけの柴犬で! だからテレビ関係者とか雑誌記者には売らないで――」
必死に言い訳を並べ立てつつも、エイイチは首の締まる宙吊り状態のままセンジュの小柄な体をがっちりキャッチする。
「おおい!? なにすんだ離せよ! あたしはあいつらに用があんだからあああぁぁぁ――……!」
稲妻と見紛う動きの黒狼に、絶苦はついぞトリガーを引けず。エイイチらは窓を突き破り瞬く間に狼戻館内部へと姿を消した。
間を置いて、深い息と共に言葉を発するのはここでもアイナである。
「……だから言ったじゃん、あいつは普通じゃないってさ。でも見たぁ!? あの黒いの神皮でしょ!? うちが鍵置いてきたおかげだねぇ?」
まるで“おまえも役に立ってみせてよ”と言わんばかりのアイナの煽りに、絶苦は鉄門扉を蹴り開けた。
「……たしかに。アレは“ヤバい”男かもしれませんな」
あえてアイナの人物評通りの言葉を返し、絶苦は片手を軽く持ち上げる。すると霧深い周囲の木々の隙間から、多数の人影が特殊部隊さながらに二人の後方へと集結する。
その数、実に十二名。いずれも猟幽會の誇る手練ればかりだ。
「それでは、総力戦と参りましょうか」
絶苦とアイナを含めた総勢十四名は、満月の明かりに黒い影を伸ばす。
その後わずかな足音を立てることもなく。静かに、侵食するように狼戻館内部へ溶け込んでいった。
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