#58
うねりを見せる樹木が隙間なく這い回り、書斎を悪趣味な空間に変えてしまった。まるで巨大な生物の腹の中にでも飲み込まれたかのようだ。
しかしエイイチに狼狽した様子はない。壁や天井をひと通り見渡したのち、視線をツキハへと戻す。
ツキハもまた、真っ向からエイイチの瞳を覗き込んでいた。
日常の光景が、一瞬にして非日常へ転換したのである。
考えてもらいたい。悪戯やマジックでは説明のつかない、あきらかな怪異を前に動じない意味とは。
つまりエイイチは捨ててしまったのだ。
ハードな世界観を持ち前のエロゲー脳でピンク色に変換して乗り越える生存本能――“勘違い”という強烈な個性を。
ツキハの思惑通りに化けの皮を剥がされたエイイチは、唯一無二の武器を失ってしまったと言えるだろう。
ただし、まだ十分ではない。
「もう一つ、確認してもいいかしら」
「どうぞ」
徹底的に逃げ場をなくすための、それはエイイチの核心へ触れる問いかけ。
「この勝負の“行方”……エーイチさんがどういうものと捉えているのか聞いてもよくて? よもや色恋や、お得意そうな下世話な落とし所に逃げたりしないわよね」
「まさか。ツキハさんが望んでいる決着は生死でしょう。生き死にの勝負。デッドオアアライブ。
こんな殺伐とした返答を本当にエイイチは是としたのか。ならば夢から覚めるときがきたのだ。エイイチだったらきっとそうとは知らぬまま、あらゆる怪異を解決するはずだ――などという幻想は今この瞬間に砕け散った。
恐怖が渦巻き、暴力に支配されるホラー世界である。ひとたび認識してしまえば、より強大な者が生き残るという極めて真っ当な道理しか残らない。
これは言ってみればツキハのテリトリーへと踏み込む自殺行為。もはや勘違いによる奇跡の噛み合わせも期待できないエイイチが生存できるほど甘い世界ではなかった。
「安心したわ」
言質は取った。エイイチが思い描いた通りの人物像であることこそ、ツキハにとってもっとも重要な事項なのだ。
「エーイチさん。三色に分けられた駒をどちらか一つずつ、選んでくださる?」
狼戻館を模したボードに散らばった六体の駒は、それぞれ二体ずつ赤、青、黄に色分けされている。
三角錐の胴に丸い頭と簡易的な人型の駒だが、顔にはA、Bとアルファベットが振られていた。
「三つ選べばいいんですね? じゃあ全部Aでいいです」
「では、わたくしはBね。今選んだAの駒が、あなたが動かす駒になるわ」
ツキハは淡々と説明する。
互いが持ち駒を交互に動かすこと。その場に留まることは出来ないこと。居室や廊下がマス目で区切られた狼戻館を、一ターンに一マス進めること。その際、隣接したマス目を飛び越えての移動は不可であること。
「各部屋には、ランダムにアイテムも配置してあるからお探しなさいな」
「アイテム?」
「ゲームだもの。お楽しみ要素も大事でしょう」
ツキハが笑みを見せるも、エイイチは頷きもしなかった。エイイチの態度を気にした風もなく、ツキハは両手を一拍打つ。
「ああ、そうそう。各人のナワバリはゲーム中に限り機能しなくなっているわ。安心して探索なさってね」
「へぇ、そんなことができるんですね。どうして普段からしないんです? そうしたらみんな争わなくて済むのに」
「いくらわたくしでも狼戻館を支配し続けることは不可能。全力を出してゲーム中のせいぜい数時間が限度よ。おわかり頂けたかしら」
裏を返せば、短時間なら狼戻館全域に影響を及ぼすほどの力を持っているのだと。ツキハとエイイチの対話は館へ張り巡らされた植物を通じて各々に届けられ、ゲームのルールを静聴していた全員が戦慄した。
「勝敗は? どうやって決めるんですか?」
「ドッペルをすべて排除出来たらあなたの勝ち。本物の住人が一人でも死亡すればわたくしの勝ち」
「あの……俺の方が条件厳しい気がするんですけど」
「そう? 別に住人全員の死亡がわたくしの勝利条件でも構わないわよ。ただ、住人の誰か一人でも失われたらあなたは耐えられないと思うのだけれど」
ツキハの推察は正しい。エイイチが狼戻館を訪れて以来、ずっと観察してきたのだ。普段の低俗な言動に隠れてはいるが、エイイチのヒロイックな一面を誰より理解している。
この男は、館の住人が傷つけば我が事のように心を痛める。あまつさえ住人の生死に関わる事態ともなれば、おそらく自らの命すら顧みず阻止しようとするだろう。たとえ相手が異形であろうとも。
ツキハをして、驚くべきことだ。
そして、だからこそ選んだ。エイイチの心をもっとも残酷に穿つであろうこのゲームを。他者の運命をその手に握る重圧は、エイイチのさらなる深層を白日へと引きずり出す。
「わかりました。いいですよ、それで」
「先手は譲ってあげるわ。手持ちの駒は赤、青、黄の順に動かすことにしましょうか。だからまず――」
「俺は赤のAから動かせってことですね」
エイイチが盤上の赤い駒に手を伸ばす。【赤A】の位置は狼戻館三階の廊下にあり、移動先の候補として選択肢は無数にある。ちなみに“赤”に割り当てられた人物は“マリ”だ。
掴んだ【赤A】の駒をどこへ移動させるかエイイチが逡巡していると、書斎に苦しげな声が響いてくる。
『く……か、体が勝手に……!』
見えざる力に抗う、マリの声だった。駒を手にしたまま静止するエイイチは、顔をあげてツキハを見据える。
「向こうの声も聞こえるんですか?」
「駒を手にしている時のみ、意思の疎通が可能になるよう計らったのよ。これで本物かドッペルか、見分ける参考になるでしょう?」
「なるほど。……悪趣味ですね」
実際、ツキハの悪意に他ならない。先だって痛感していた通り、声を聞いたとてエイイチはすでに本物とドッペルの見分けなどつかないのだから。
『エ、エーイチくん。慎重にね、慎重に。わたし、信じてるから!』
エイイチは何も応じなかった。期待には応えられないと悟ったのかもしれない。無言で【赤A】の駒を廊下奥の脱衣所へと進めた。
『――セーフ! え……ま、待って、あれって――』
何かを言いかけるマリだったが、エイイチの手が駒から離れた瞬間に声も途切れる。エイイチの疑問も思考も遮断するかのように、すぐにツキハはボードへ指を這わせた。
「次はわたくしね」
二階廊下の【赤B】の駒を掴むツキハ。いつもと変わらぬ落ち着いた声音で問いかける。
「マリ、行きたい場所はある?」
『お、お姉ちゃんどういうこと、これ!? わたし、なんにも聞いてな――』
「どこでもいいのね」
ツキハが【赤B】をゲストルームの一室へ移動させると、ボードの同位置に小さなカードが具現化されて浮かび上がった。
「あら、ラッキーだわ。これがアイテム。……でも残念」
言葉ほど残念そうでもなく、ツキハは手にしたカードをエイイチへと晒す。カードには“一ターン休み”と文字が記されていた。
「よかったわね、エーイチさん。あなたに有利に働いたわよ」
有利であるはずがない。結局のところAとBのどちらが本物かわからなければ、選択の重みをエイイチに押しつけるだけの効果しかない。
当然ツキハもわかっていて、余裕に微笑んでいるのだろう。
続いて、青の駒。割り当てられたのはセンジュ。しかし残る四つの駒はすべてが室内にある。ゲームの性質上、他の部屋を捜索するには一度廊下へ出る必要があった。
『くっそ……ふざけやがって待雪ツキハ……っ。どうにかなんねーのかよこれ!』
マリと同じく抗いながら悪態を吐く【青A】の駒を、エイイチは一階廊下へと移動させる。ツキハは一ターン休みのため、連続で黄の駒であるアヤメも動かす羽目になる。
エイイチは【黄A】を二階廊下へ。
アヤメだけは他二人と違い、エイイチが駒を握っている間も何か言葉を発することはなかった。
「これで一ターンが終了。ルールは把握できたかしら。簡単でしょう」
ルールの把握は出来ても、疑問は解消できない。このゲームは本物とドッペルの生き残りを賭けたデスゲームのはずである。
そうであるなら――。
エイイチが脱衣所に置いた【赤A】の駒を再び掴むと、慌てふためく叫びが耳をつんざく。
『すぐここから出して! 廊下に引き返してっ!』
ツキハにはまだ語っていないボードゲームの仕様があるのだ。
マリは必死に訴える。
『浴室の扉が
ゲームにあたり各人のナワバリは解除されたが、封印部屋についてツキハは言及しなかった。
猟幽會による怨嗟の封印。命を賭して解除出来るのはヒツジに限られ、館の住人が踏み入れば確実な死を意味する。
呪いに満たされた封印部屋は再シャッフルされ、ゲーム中もそのままに狼戻館住人の入室を待ち侘びているのだった。
『だから早くわたしを外に――』
ツキハが動向を見守る中、エイイチは【赤A】の駒を躊躇うことなく
『え――……』
幸いと言うべきか、断末魔は聞こえなかった。どこか金属を擦り合わせたかの如き高音と、何かが割れたかのような破砕音。やがて静寂が訪れると、【赤A】の駒はただの木片へと粉々に崩れた。
ツキハの瞳が大きく見開かれている。眼球に映るエイイチは面も上げず、俯いている。白く長い前髪に阻まれ表情は読めない。
「……ドッペルだと確信があったのかしら。それともやぶれかぶれ、一か八か」
「ツキハさん。どうしてこんなことするんです?」
ツキハの疑念に答えず、エイイチは質問を返した。
問うたのはそもそもの話。ようするにツキハの目的だった。
ツキハはしばしエイイチの白髪頭を見つめたのち、ソファへ深く背を預ける。ドレスから伸びる足を組み、変形する太ももが肉感を主張する。
垂涎ものの姿にも、エイイチが目を奪われることはなかった。
「言ったはずよ。狼戻館では、優秀な者が生き残る。たとえばそれが偽物であろうと、優良でさえあればわたくしは歓迎するわ」
歪んだ選民思想。永らく苦楽を共にした住人であれ、狼戻館に相応しい人材かそうではないか。実に化物らしく容赦ない基準でツキハは選別するつもりのようだ。
「
エイイチは即座に否定した。ようやく顔を持ち上げ、ツキハを真正面から見据える。
「安心してくださいよ。あなたの本当の望みは、俺が叶えてあげるからさ」
表情を消して目を細めるツキハ。エイイチの傲慢さにさしものツキハも態度を硬化した。
射抜くような視線をぶつけ合う二人の瞳は、互いとも漆黒に似た暗さを宿していた。
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