#6

 時間帯もあり、静謐な洋館内では二つの足音だけがわずかに響いている。

 アヤメに案内されエイイチは二階へと下りてきた。すでに元の服へ着替えたエイイチは、マリからもらった運動着を大事そうに胸へ抱えている。その初々しい所作はさながら乙女。


「マリ様にお会いになられていたのですか」

「あ、はい。アヤメさん探してるとき、偶然部屋に入っちゃって」

「お仕事の都合上、顔を合わせたかった気持ちは理解しますが……ナワバリというものがあるのです」


 縄張り。およそ洋館で耳にするような単語ではなく、まるでアウトローだとエイイチは首をひねる。もしセンジュに上手く誘導されて使用人の部屋に入っていれば、そこのメモ書きに記されていた言葉だった。つまりキーアイテムの一つをエイイチは入手しそこねている。


「ともかく今後は勝手な行動をお控えください。エーイチ様、よろしいですか」

「本当すみませんでした。でも俺、その、昔のこととかけっこう曖昧だったりするんですけど……とにかくここに来れて嬉しいです。すっげえ楽しい」

「? そうですか」


 エイイチの言い回しに疑問が浮かぶも、謝罪や笑顔に偽りがないことはアヤメにもわかった。なのでこれ以上は罪を追求せず、小言をもらすこともやめる。


「……ここを訪れたお客様でそんなことを言ったのは、あなたがはじめてですよ」


 足を止めたアヤメが、エイイチへと向き直った。アシンメトリーな髪型の目隠れメイドは、エイイチを映す瞳に虹彩の色を取り戻しつつある。愚鈍で、女にだらしない。行動を鑑みるにその印象通りの男であることは間違いないだろう。

 ただ、たしかにこれまで狼戻館に来た者でこのような人間はいなかった。もしかすると――と、そこまで思いを巡らせ、アヤメは微かに首を振る。


「どうしました?」

「いえ。どうぞ、こちらです」


 ゲストルームのドアを開き、エイイチを促すアヤメ。旅客のように小躍りして部屋を見回すエイイチの背を眺め、やはり過度な期待をするべきではないと考えを改める。どうせ長く・・・・・はもつまい・・・・・、と。


「おお、すっげ。これキングサイズですか!? 一人で寝るのもったいないなあ!」


 けれど戯れに一つ試すのも悪くない。アヤメはあえて、エイイチに立場をわからせるべく口を開く。


「この部屋は自由に使っていただいて構いません。ただ、特に夜。夜だけは極力部屋を出ることのないようお約束していただけますか?」

「はい! もちろん! 今日みたいに迷惑かけちゃ悪いですからね、立場はわきまえてます」

「エーイチ様を信じましょう。ですが一つ覚えておいてください。約束を違えれば――私はいつでも抜く・・・・・・・・。と」


 アヤメが表情を消して言い含めると、エイイチはわかりやすく硬直した。口をぽかんと開けたままアヤメを見つめ、驚きのあまりあれほど大事に抱えていたマリの運動着をばさりと落とした。


「ぬ、抜くって……い、いつでも……?」


 震え声で確認してくるエイイチの姿に、アヤメは確信する。エイイチの喉仏がごくりと鳴ったことも、アヤメの足へと向けられる視線の動きも見逃さなかった。

 ダイニングでガーターリングにナイフを納める所を見られたのではないか、とずっとアヤメは疑っていた。その疑問もこれにて氷解した。エイイチは気づいているのだ。アヤメがナイフを隠し持っていることに。


「ええ。いつでも、どこでも。時間も場所も選ばず、必要とあれば私は抜きます。躊躇はいたしません」


 愚図を装っていただけか。あるいは愚かなりに鋭い直感は持ち合わせているのか。動揺してあからさまに目をそらすエイイチ。怯えはある、とアヤメは分析する。けれど面白い。はじめて緩みそうになった口元を、しかしアヤメは固く結び直す。


「エーイチ様、どうかお忘れなきよう。では、おやすみなさいませ」


 包帯の中の傷がじくじくと疼いていた。これから始まる惨劇の宴に、エイイチがどのように抗うのかアヤメは興味が尽きなくなった。今しばらく泳がせてみよう。そう結論づけたアヤメは粛々と部屋をあとにした。




 一方、呆然と部屋に立ち尽くすエイイチ。

 察しの通りアヤメの“いつでもどこでも抜いてあげる”宣言を受け、歓喜でわなわなと拳を握りしめた。とりあえず広いベッドへとダイブし、枕に顔を埋めながら雄叫びをあげる。エイイチなりに声量に配慮しての行動だ。


 アヤメがナイフを隠し持つことなどエイイチは知る由もない。ダイニングではガーターベルトのエロさを再認識しつつ、一瞬の白を凝視することに夢中だった。アヤメの最たる魅力を足に見出したエイイチにとっては、今しがたの視線の動きも当然の帰結なのだ。


「アヤメさんが、足で」


 しっかり例のエロゲーにも存在するシーンである。主人公の部屋で、疲れを癒やすマッサージと称しながら奉仕してくれる従順メイド。その健気さと少しの意地悪さが同居したM字に何度昂らせてもらったか正確な数は割り出せない。定番のシチュエーションではあるが、こういうのでいいんだよとエイイチは強く思う。


 さっそくアヤメを呼び出してみたい欲望が高まるも、さっきの今ではさすがにがっつき過ぎだろうと自己を抑制するエイイチ。それに建前上はマッサージ。せめて一仕事終えてから呼び出さなければ格好がつかなかった。

 エイイチには及びもしない考えだが、ここでアヤメを呼び出そうものなら待つのは死である。


「はぁ……まじで、楽しみ……」


 よこしまな未来を夢想するエイイチのまぶたが、うつらうつらと閉じていく。

 時間は多少前後するが【豺狼の宴】もここで初日は終了となる。長く濃い一日だった。ホラーゲームの主人公に比べ、重要イベントをスキップしたエイイチが得たものは少ない。


 だがエイイチは、知らず“より大きなもの”を動かしていた。


 突如としてゲストルームにけたたましく電子音が鳴り響く。夢うつつから跳ね起きたエイイチは、クローゼット横に置かれた収納チェストへ目を移す。チェストにはコードレスフォンが一台乗っており、ベッドから降りたエイイチはそろりと近づいた。


「なんだろ。内線……?」


 受話器を取り、耳元へ。砂嵐のような不快な雑音に鼓膜を襲われ、怪訝に顔をしかめながらもエイイチはしばらく待った。やがて受話器の向こうから応答がある。


『――……キケ。アワレナヒツジ』


 憐れな羊、と声の主は言った。肉声ではなく加工されたかのごとき野太い声。ソリッドスリラー映画で黒幕がモニターを介して語りかけるような声だった。


『ヒツジハクワレルサダメ。シシヲモガレ、ゾウモツヲヒキズリダサレ、ホネヲカミクダカレル』


 エイイチは黙って耳を傾ける。片眉を吊り上げ、受話器の奥へと注意深く意識を集中させる。


『サダメヲカエタクバ、シアタールームニムカエ。ソコデ“バレッタ”ヲニュウシュスルコトガ、ヒツジガイキノコルユイイツノカイダ』


 カイ――と、謎の人物はそう言ったのだ。エイイチは天井を見上げてフッと表情を緩め、受話器を置く。頭をかきながら部屋を出て、やれやれと呟いて廊下を歩む。

 エイイチはそもそもシアタールームがどこにあるのか、おそらくバレッタが何なのかもわかっていない。しかし足取りは淀みなく、真っ直ぐ三階へと上がっていった。


 一つのドアの前に立ち、コココンと小刻みにノックするエイイチ。深夜も3時を回ったところだ。草木も眠る時間帯にも関わらず、間もなく扉は開かれる。


「…………なに? エーイチくん」


 顔だけ隙間から覗かせたマリは、寝起きの風情でもなくあきらかに動揺して目を泳がせている。


「マリちゃん内線かけてきたでしょ? 眠れないの? でも今日はもう遅いし、ああいう遊びは明日にしようぜ」

「…………なにそれ。しらない」

「アヤメさんにも怒られちゃうしさ。本当、気持ちは嬉しいんだけど……」

「……しらない、わたし。内線とかかけてない」

「またまたとぼけちゃって。声が違っても抑揚とかブレスのタイミング? 間の取り方とか完全にマリちゃんだったよ」


 マリはパジャマの胸もとを握りしめ、見開いた瞳でエイイチを睨め上げる。驚嘆と同時に、何か得体の知れない者へ対する畏怖が含まれる目つきだった。


「じゃあ、そういうことだから明日ね。おやすみマリちゃん。愛してるよ!」


 片手をあげて軽快に走り去るエイイチ。投げキッスをしようと振り向きながら駆けたため、柱へ盛大に頭をぶつけていた。


 警戒信号を発するマリの全身から、蒼い発光体がぶわりと暗い部屋中に散布される。エイイチが“蝶”と認識していたそれは何十匹もの“蛾”だった。

 エイイチの背中が消えた廊下を、未だマリは睨み続ける。“ナワバリ”を一つしか持たず自室から出られないマリに代わり、大量の蛾が廊下へと放出された。

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