第二章

第14話 初手

 ヘルミーナ・ツヴァイクがヘルミーナ・フェルベルクとなり、泉の館クヴェレに入城してからの三日間は目が回るような忙しさだった。

 ウィルヘルムは熱心すぎる彼女に、しばらくは慣れることに専念していいと何度か伝えたが、それを良しとしなかったのは彼女自身だった。


(ターン制の『黒薔薇姫のシュトラーセ』では“初手”は大事だったはず) 


 ゲームは難易度――敵となる領主のAIの賢さや、生産力などの向上ハンデなど――を上げれば上げるほど、1ターンも時間を無駄にはできない。すぐに敵AIに引き離されてしまうことを知っていた。ユニットの量でも武器の質でも、生産力でも収入でも、とにかく何でもだ。

 ヘルミーナを突き動かすのは、前世の知識からくる焦り。


 幸い、ウィルヘルムは彼女が何を調べようがメモしようが咎めるそぶりがない。

 だから彼が山に帰ってしまうまでにできるだけの知識を詰め込んで、信用を得て、少しでも領地経営に関わりたかった。


「……鶏の生産量についてですか?」

「はい。それから飼い方についても」


 ウィルヘルムがフォークで目玉焼きを口に運んでいると、ヘルミーナは今日何度目かになる質問を口にした。

 壁際で控えているテオフィルはまたか、というように眉を動かす。

 朝食も昼食も夕食も、泉の館クヴェレにいる時は一緒に食事を取ろうと彼女が言い出した時には、ウィルヘルムと大変仲が良いのだと屋敷の料理人や下働きは感激した面持ちだったが、そんな可愛いものではない。

 付いて回っては質問攻めにしているに近かったからだ。


 食事の時間には食材について尋ねる。どのような植物が気候に合うのか、生産高は、加工は。家畜はどうか。

 王都では各地から運ばれる多彩な食材と美麗な盛り付け――普段の男爵家での食事は質素にされていたが――が味わえたが、ここの食卓は生産物と政治とに密接な関係がある。

 もっともそれを抜きにしても、将来の食卓には興味があったが。王都よりずっと新鮮な食材は凝った調理法などがなくても十分に美味しくて、特に名物だという川や湖で採れる魚や、ハーブのサラダ、砂糖漬けなどははしたなくもおかわりをしたいくらいだった。


「館から出られないのは退屈でしょうか」

「いいえ、覚えることが山ほどありますから。何故でしょうか」

「その……実際に見学に行かれたいのではと思いまして。街の商店や畑や農場、漁場などを……」

「はい、ぜひ。ブラウやいずれは他の街を見学してみたいです」


 ヘルミーナはつい勢い込みそうになる自分を抑えしながらも力強く頷き、それから目を伏せた。


「父のことが落ち着いてからになるでしょうか」

「その件ですが、王都へ婚姻の書状を届けに行った使者が今朝戻って来ました。男爵の動向を確かめたのですが、やはりあなたを探しているようですね。

 テレーゼという侍女に心当たりは?」


 ヘルミーナはぱっと目を見開く。灰青の瞳に映った色が真剣で、ウィルヘルムはやや気圧されたように尋ねた。


「テレーゼは、無事でしたか」

「あなたが家を出られてすぐに退職されたようです。……何も話していなかったのですね」

「はい。……巻き込まないで良かった」


 ヘルミーナは静かに頷き、その目が安心したように細められれば、ウィルヘルムの目元も僅かに緩む。


「そうですか。……ですが今後この領では、侍女も騎士も皆も巻き込むようにお願いします。あなたの身柄は私が責任をもって守ります」

「ありがとうございます、フェルベルク様」


 領主や騎士に令嬢が守られるというシチュエーションは、たとえ甘い囁きでなくとも心ときめかせるものだろう。

 しかしウィルヘルムの表情はほとんど凪いでおり、微笑んではいないし、声にも甘さなどはない。

 従僕のテオフィルや、控えている侍女など事情を知っている少数の前では、二人は一切、徹底して男女を意識した親しさを見せなかった。意識して避けていたとも言える。


 けれどヘルミ―ナは契約結婚の片割れという微妙な立場にいる中で、少しずつ彼のことが分かってきた気がする。表情には出さないけれど、領主として貴族としての責任だけでなく寄り添おうとする人だということを。

 領主として上に立ち指示を出すならば割り切らざるを得ない場面は度々あるが、ヘルミーナに対してだけでなく誰にでも丁寧だし、話をしている途中に無理やり遮ることをしない。


「それから、もしあなたが望むならその侍女に来てもらえるか打診はできますよ」


(そう、例えば、雇うとか、呼び寄せるとか、ではなくて打診ができる、とか言葉を選ぶところとか)


「……もし彼女の身に何か危険が及ぶようならお願いしたいと思いますが……流石にそこまでは父もしないだろう、と思います。ほとぼりが冷めた頃に手紙を出してみます」


 当初向かう予定だったアンペル在住の乳母の娘には、父親の手も及ばないだろうと修道院長経由で無事だけは伝えていたが、テレーゼは近すぎる。


「そうですか。王都に行く機会があれば会えるかもしれませんね。少なくとも、瘴気が去る冬頃には陛下にご挨拶に行こうと思います」

「はい」


 ヘルミーナが頷けば、ウィルヘルムは早々に食事の皿を綺麗にして、フェルベルク産の紅茶に口を付けた。

 顔を布で巻いているせいで口が動かしにくいかわりに、小分けにして口に運ぶという最適化された動きだ。

 紅茶のカップを置いた彼の視線がそっと合わされる。


「貴族との社交はしばらくありませんが、あなたのドレスの仕立てが必要だと思い、近々アーテムから仕立て屋に来てもらうつもりです。いつ頃が宜しいですか」

「……そのことなのですが、もう数日先でも宜しいでしょうか」


 中庭で採れた春人参のサラダの最後の一切れを飲み込んで、紅茶で唇を湿らせて、ヘルミーナはぐっと目元に力を入れた。

 瘴気を減らそうと決めてからずっと考えていたことだ。


「今日、山に戻られる際にご一緒させていただけませんか」

「山に……瘴気の山に……ですか?」

「はい。お邪魔にならないよう翌日には帰ります。でも一度は見ておきたいのです。あの、難しければ途中まででも……」


 何故ですか、と聞かれたならばヘルミーナはすぐさま答えられないだろう。

 今すぐでなくてもいいと言われればおしまいだ。“初手”に対する焦りは、追い立てられるような恐怖に近い。


「……険しい山ですか?」

「そうでもありません。歩き慣れれば朝に出立して夕方前に到着できますし、途中に村もありますから」

「ご迷惑でなければお願いします」


 ウィルヘルムは少し考えるそぶりを見せた。それから、斜め後ろからの視線に気づいて従者と目を合わせる。

 頷くテオフィルに合わせ、


「分かりました。もし少しでもつらいと思ったら遠慮なく仰ってください。テオフィルか村の者に館まで送らせます」

「ありがとうございます」


 我儘が聞いてもらえたことにヘルミーナは感謝して頭を下げた。


「その代わり、出立までゆっくり休んでください。今まで地図を覚えたり、使用人や騎士団と顔合わせをしたり、私の仕事を横で見たり。領に来てからずっと忙しいでしょう」

「いえ、そんな」

「登山に不調は大敵です。私も仕事の残りを片付けてしまいたいですから」

「……気付かずに申し訳ありません」


 流石にやりすぎたかとヘルミーナは身を縮めた。

 実家での勉強は父親が認めたいわゆる淑女になるための教育で、政治や経済、その他女性、とりわけ嫁ぐ娘に“ふわさしくない”と父親が思うものは本からの独学しかできなかった。

 だから出来るだけ付いて回って仕事を覚えたかったが、確かにうろちょろしていてさぞ邪魔になっただろう。


「いえ、この数日であなたが勤勉で、止めなければ休まない人だことが分かりましたから」

「勤勉など。気負ってしまっているかもしれませんが……」

「家政の経験がないことに何か思ったりはしませんし、そうさせてもらえなかっただけでしょう。逆に経験があってもこの地で同じように上手くいくとは限りません。

 領に来ていただいただけでありがたいのですから、焦らないでください」


 ヘルミーナは静かに頷くと、ありがとうございますと繰り返した。

 ウィルヘルムの口調は普段と全く変わりなく、それが誰に対してでも自然にしている気遣いであると感じられて嬉しい。

 ただそれはありがたい言葉ではあるものの、心の奥底で感じる焦りは解消できないままだった。




 朝10時ごろ、ヘルミーナはウィルヘルムとテオフィルと共に泉の館を出発した。

急遽用意してもらった水や食料のほか、山の地図などの荷物を詰め込んだザックは、昔まだ調子がそれほど悪くなかった母と弟と一緒にピクニックに行ったことを思い出す。


(まずは怪我がないように無事に帰って来よう。私にもあれだけ気を遣ってくださったのだし……)


 つられて出発前のできごとを思い出し、恥ずかしさに熱くなる頭を軽く振る。

 今足元を守っているブーツは、ウィルヘルムが自ら念入りに選んでくれたものなのだ。

 底が厚くグリップがきき足首をしっかり固定するようなブーツが用意されていて、ヘルミーナは何度も試し履きさせられた。

 紐を結んだり解いたり、医者以外の男性に足首を触られる経験がなかったために不本意ながらどぎまぎしてしまったのだ。


(他意が全くないのは分かっているけれど、分かっているからこそ恥ずかしいというか。それに何故かみんなが嬉しそうだし)


 フェルベルク様おやめください、と言ったヘルミーナに、「旦那様で宜しいのでは? 使い分けはいつかボロが出ますよ」と笑ったのは、女性使用人の長である家政婦のラーレだ。

 ヘルミーナ付きになった侍女のゾフィーも、登山しやすいようにと嬉しそうにサイズの合う服を着せてくれた。瘴気対策になるというつるりとした素材の上着に、乗馬用に似たズボン。

 そこに長い髪をくるりと耳の後ろでまとめて、帽子で隠れても少しでも華やかになるようにとリボンを編みこんでくれた。


 まるでお出かけ前の支度の雰囲気だ。そんなことはないと皆知っているのに。

 ヘルミーナが登山を若干甘く考えていたふしはあるにせよ、ウィルヘルムは瘴気を逃れるために――自分を優先させるために、領主という立場の人間が登山という危険を冒すリスクを自覚して靴を用意していた。

 突然の野宿に備えてか荷物は多く、腰にはおよそ雰囲気にそぐわない、使い込まれた片手剣と短剣ダガー

 それに、ウィルヘルムの顔を伺えば、顔に巻かれている布は昨日までの黒ではなく、白くて包帯のようだった。疑問が顔に出ていたのかテオフィルが、怪我をした時にすぐ気付くようにそうしていると小声で教えてくれた。




「ここから山道になります。お気をつけて」


 ブラウと山のちょうど境に立ったウィルヘルムは一度振り返ると先を進んでいく。

 王都と比べてやや高地に属するブラウの街もヘルミーナには涼しく感じたが、植物はまだ針葉樹に低木に草花にと、多様に生い茂っていた。

 しかし山に足を踏み入れて程なく、植生の乏しさが一気に目に付くことになった。


「この国の北側の山はどれも似たようなもので、ここが特別乏しいという訳ではないのですが、種類はかなり限られますね。

 標高が上がれば更に少なくなり、背の高い木々はピケア一色になります」


 疑問を尋ねればウィルヘルムから答えが返ってくる。

 ピケアは、綺麗な円錐形をした針葉樹だ。他の樹種と比べると耐久性には欠けるが成長が早いので良く植えられ、家具や内装、製紙など様々な用途に便利に使われている。特にこの国の紙はほぼピケアから作られる。

 フェルベルクの特産品のひとつも紙だった。


「……そして領地で最も瘴気が濃い場所です」


 静かな声に僅かに滲んだ感情は、悲しさだったのか悔しさだったのか。ヘルミーナには判別が付かない。

 まだ足元はよく人が通るのか、均された土で幅の広い道ができている。荷車らしきわだちの真っすぐな線が消えては現れる。

 瘴気が濃くても、人は住んでいるのだ――もしくは住むしかないのだという事実に、背の荷物がずしりと重さを増した気がした。


「……薄暗くなってきましたか?」


 ヘルミーナはふと、空を見上げた。 

 出発したときの空は灰のベールがかかっているものの相変わらずの好天で登山日和だったが、周囲に背の高い針葉樹とピケアが少しずつ増えてきて。

 その中に立ち枯れが含まれていて、そして……。


「灰が……」


 山道のすぐそばに生えている一本の、ピケアはほとんど枯れているように見えた。

 一見してすぐそうと分かるほどぼろぼろにはなっていない。だが樹皮は幹から浮き、裂け、その合間に何かうごめいているものが見えた気がして背筋が震えた。

 そして円錐状に伸びた葉の合間から見えるおしべが、葉を隠してしまう程ふくれたおしべであろうそれが、灰色の粉を漂わせていた。

 風が吹き、ぶわっと舞って視界が灰がかる。


「……っ」


 傍らから立て続けのくしゃみの音が聞こえて、ヘルミーナははっと気づく。


「大丈夫ですか」


 ウィルヘルムは何度か鼻をかんだ後、帽子の下で充血してきた目からこぼれる涙を抑えながら、


「……ええ、それよりあの木には近づかないようにしてください。直接人を襲うことはまれですが、あの木には小さな魔物の虫が付いていますから」

「魔物……」


 木の中でうごめいているそれは見間違いではなかった、と気が付いてぞっとする。見回せばテオフィルはいつの間にか二人を守るような位置で長剣の柄に手を置いていた。


「木を食い荒らして駄目にしてしまうので、定期的に退治をしているのですが。……帰られますか?」


 鼻をすすり、くしゃみを一時収めたウィルヘルムのその問いかけに、ヘルミーナは首を横に振る。


「あれは珍しくないですよ。わたしが物心ついたときには無視できないほど増えていました。

 立ち枯れた木々は殆ど全てがあのような魔物の棲みついた木です。恐ろしくはないですか」


「恐ろしい、とは思います。でも、車輪の跡も見ました。この中をブラウと村を行き来する人たちがいるのでしょう。

 安全なのであれば、行けます」

「あなたはわたしが考えていたよりずっと、……」


 ウィルヘルムの瞳が揺れ、道の先に視線を移す。口が開き吐息交じりに何か呟いたようだったが、あまりに小さい声はヘルミーナの耳には届かなかった。

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