第9話 前世の記憶と花粉症
「……せっかくのお申し出ですが、お断りします」
即答だった。戸惑ったように、そして何か押し殺すように、男性は答えた。
「大変お疲れのようですから、今日はおやすみください」
「そうですね……ウィルヘルム様も今日は客室へ。ご案内いたします。あなたは、食堂まで戻れる?」
それは優しいあしらい方だった。
実際疲れているからあんなことを言ってしまったのかもしれないと思い、ヘルミーナは頷き、素直に食堂に戻る。
用意してくれていた少し硬くなったパンと、野菜スープの滋味深い味わいが空腹の自覚すらなかったお腹をゆっくり満たしてくれる。
それからシスター・マーガレットと名乗った小柄な若い女性が、部屋まで案内してくれた。
修道院には修行に或いは体験に、交流に、悩みを打ち明けに。様々な理由で訪れる人がいるのだという。
(確かに今の私はさまよっている動物みたい)
「必要でしたらこちらに水を置いておきますので」と、彼女は水差しとたらいなどを机の上に置いて部屋を出て行った。
修道院の内部は静かで、落ち着いていて、凪いでいる。
自分だけが異物で、揺れているようだった。
けれど食事の間も、顔や手足を拭いている間も、何故かあの男性の瞳が気にかかった。暗闇の中に浮かび上がった瞳は揺らいでいて、告解を――自分の罪を話しに来た人のそれに見えた。話を思い返せばそんなことはないように思うのに。
四人部屋に自分一人寝転べば、なんだか大分寒々しく感じる。
それでも先ほどの食事の熱がお腹に残っているのを感じた。暖かく、心強く、そして眠かった。
ヘルミーナはベッドで泥のように眠った。
翌朝、ヘルミーナは鐘楼の鐘の音でいつもよりずいぶん早く目が覚めた。
外はまだ陽が昇っていないが、部屋の外では慌ただしい気配がある。
そろそろと重い足を布団から取り出すと、まだ赤味が残っていた。擦れたところに軽く布を巻いてから恐る恐る床に足を付けると、疲労と鈍い痛みはあるものの歩けそうに思う。
顔を洗ってから扉の外を覗けば、既に着替え食事を終えたらしい修道女たちの姿が見えた。皆一律に長いチュニックの上から黒い布を被って頭部を覆っている。
鐘の音に従って食事をし、読書をし、農作業や手仕事をする……話には聞いていたが、敬虔で勤勉な女性たちが生き生きと働くさまは、輝いて見えた。
勿論規律や上下関係はあるのだろうが、ツヴァイク家は当主の意向が全てだったから。
「お目覚めはいかが」
ぼんやりと眺めていると、老婦人――バーンズ修道院長がやってきたので、ヘルミーナは慌てて背筋を正して髪を撫でつけた。
「寝坊して申し訳ありません」
「修行にいらしたわけではないのですから、寝坊などと誰も咎めませんよ。体は大丈夫ですか、痛むところは?」
「疲労はありますが、何とか」
「昨夜は大変だったでしょう。食堂にあなたの分の朝食が取ってあるわ。食事を終えたら近くの修道女に教えてください。修道院内の医者に診せに行きますから。
それから、今後のことを話しましょう。どうして逃げて来たのかは分からないけれど、相当の覚悟をしてきたのでしょう。ゆっくり考えましょうね」
優しい言葉に戸惑うが、昨日男性に申し出た一件のせいで、ヘルミーナが思い詰めていると考えても不思議ではなかった。
自分では自覚がないが、そうなのかもしれない、とは思う。
「ありがとうございます。まだ少し……混乱しているかもしれません」
「……そうね。それから、食事の前にちょっと頼みたいことがあるのですけど」
「はい、何でも」
ヘルミーナは迷いなく頷く。ただ飯食らいでいることに遠慮を感じたからだ。それに少しは冷静さを取り戻せる気がして。
「悪いけれど、昨日の男性――ウィルヘルム様の部屋までお使いをお願いできますか?」
修道院長は、腕に提げたバスケットを見せた。清潔そうな布やお湯の入った小さな壺などがまとめられている。
「分かりました」
「ええ。お願いします。後であなたもお湯を分けてもらってくださいね」
修道院長は頼みと言ったが、お湯は多分、重要な来客にだけ出すものだろう。ついでにと気を遣ってくれたのだろうとヘルミーナは納得した。
髪をざっと梳かし、昨日と同じような地味なワンピースのうち少しだけ新しい方の服に袖を通して身繕いする。
それから教えてもらった通り、並んだ客室のうち最も端にある、古めかしくもひときわ豪華な扉をノックして返答を待つ。
「……どうぞ」
「……失礼いたし……」
扉をくぐったヘルミーナは、灰青の目を見開くと、思わず声を上げそうになってからそれを慌てて飲み込み、
「……ます」
何とか続けた。
落ち着いた色彩の、まるで高級宿か貴族の寝室のような部屋。テーブルの傍らに立っていたのは昨日の男性とそっくり同じ体格の人物だった。
昨夜の黒一色の――もしかしたらマントのせいだったのかもしれないが――第一印象が泥棒なら、今朝は貴族の青年だった。
彼女から見える横顔は20代半ば頃の若い男性だ。白いシャツに黒のズボンというラフではあるが上質そうな仕立ての服で、顔に布も巻いてはいない。
身長は並べば頭一つ半は高いだろうか。
一見して控えめな雰囲気だが、しなやかな体つきを隠す上質なリネンのシャツの袖からは引き締まった腕が覗いている。
ヘルミーナが驚いたのは、しかし客室で、普段着の若い男性と二人きりになる――扉は開けたままにしたが――という慣れない状況のためではない。
支度を終え服を着た、その覆われていない顔もシャツの下の腕も、赤かった。肌は赤く乾燥し湿疹がぽつぽつと見える。瞼は赤くはれぼったくなっており、鼻とその下もまた赤かったからだ。
自然に赤らんだという訳ではなく、明らかに病気かそれに準ずるものだった。本来なら整っていると言って良いその顔立ちは病の印象で隠されてしまっている。
そして、昨夜驚いた原因の一つであった、黒髪の下に覗く濃い緑の瞳が驚きに見開かれていたからだ。
窓越しの朝日を受けてはっきりと見えてしまった無防備な姿は、決して自分に見せたいものではないだろうと思う。
だからといって顔を逸らしても傷付けるだけな気がした。
彼はヘルミーナの視線にさっと顔を背けると、
「お見苦しいものを失礼いたしました。院長かと思いまして」
「……そんなことは。私こそ突然ぶしつけに……。院長から頼まれまして……こちらで宜しいでしょうか」
ヘルミーナは遠慮がちに室内に足を踏み入れると、バスケットをテーブルに置く。
このまま下がってもいいものか気配を伺えば、彼は頷きもせず拒否する様子もないが、耐えているように思えた。
(早く出た方がいいのかもしれない)
急いで踵を返そうとすれば、顔を逸らしたままの男性は急ぐようにバスケットからお湯の壺を取り出した。布を浸した姿が視界の端に入る。布を絞れば少しだけリンゴに似た草の香りがほのかに広がって鼻先をくすぐった。
(カモミールの香り?)
振り向けば、赤くなった顔に優しくそっと当てるように拭いている。
くしゃみが小さく響いた。そしてほんの少し、鼻をすする音……、の、後に。
くしゃん、くしゅん。
ごほん、ぐしゅん、ごほっ。
ずるずるずるずる……。
決して上品ではないその音がどこか懐かしくて、ヘルミーナの記憶の奥深くに眠っていたものに触れた。と同時に、鼻がむずむずしてくる。
「……何か?」
ヘルミーナの視線に気付き、彼は声だけで問う。
その声音に羞恥が混じっていることに彼女は申し訳なくなりつつ、
「あ、いえ。あの。失礼ながら、それは何かの……アレルギー……でしょうか」
「アレルギー?」
「ああ、いえ、アレルギーと、そういう概念を聞いたことが――」
咎める口調でもなかったので、彼女は素直に答え――そして、咄嗟に口を突いて出た言葉を繰り返す。
そして自身の声が耳朶を打った時、彼女ははっきりと意識できた。
と、同時にくしゃみが出た。
「――くしゅん」
かつての自分の前世が過ごしてきた人生。こことは別の世界、地球という星の日本という国で生まれ育ったこと。会社からの帰宅途中に、おそらく車にはねられたこと。
横断歩道に突っ込んできた車の運転手が何度もくしゃみをしているのがはっきりと見えたこと。
気付くのが遅れたのは、くしゃみをしていて音が聞こえていなかったからであること。
そしてまた彼女も避けようと頭の中では警鐘が鳴っていたのに体が動かなくて――正確には、くしゃみをしてしまったこと。
だから地球で最後に見た光景はつまらないことに自分の瞼の裏だったこと。
――そうか。自分は前世であっけなく、死んだのか。花粉症で。
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