第10話 契約結婚

「……花粉症」


 思わず言葉が口をつく。

 気が付けば、男性は振り向いてヘルミーナを見つめていた。彼女の言葉が引き金になったのか、陰鬱そうに色を変えた瞳は彼女ではなくどこか遠いところを見ているようでもあった。


「瘴気症です。お聞きになったことは」

「……耳にしたことはあります。フェルベルク領では瘴気が多いとも」


 瘴気とは魔物がもたらす正体不明の黒いもやで、くしゃみや咳、目や喉などの粘膜と肌を荒らし、長く吸い込んでいるほど症状が重くなるという。魔物の穢れだとして嫌われているが、王都の狭い社交しかしていない彼女は、実際に患者を見たことはない。


「では領主が“お花畑伯爵”と揶揄されているのもご存じですか?」

「……はい。理由は存じませんが。ただ、もしかしたら社交がお嫌いだというのも、口さがない噂話のせいかもしれませんね」


 訝し気に思いつつ応えれば、青年の目がすっと細められる。


「お花畑というのは、森林限界より高い場所の呼称でもあります」

「森林限界……というと、山の、ですか?」

「ええ。フェルベルク領で瘴気をまき散らしているのは魔物に侵された針葉樹です。

 それに山から吹き降ろす風のおかげで標高が高い場所……高山植物が咲く“お花畑”と呼ばれる一帯には瘴気が殆ど来ないのです。

 重度の瘴気症である領主はそこで一年のほとんどを過ごし、滅多に平地に降りることはなく、もし降りるなら全身を布で覆わなくてはならなくなったのです。様々な意味で社交など望めません」


 ヘルミーナは、ゲームのマップを思い出す。確かにあの黒い靄は山岳地帯の針葉樹を中心に漂っていた気がする。


「領主が伯爵なのに社交もせず山奥にこもってばかりというのはいささか異常ですから、言葉遊びで揶揄されているという訳ですね」


(やはり、この人の名は……)


 ヘルミーナは一歩進み出ると、緊張から何度も瞬きをしてから口を開いた。


「差し出がましいことを申し上げますが、湯気で鼻腔を湿らせてからかむと、鼻が通りやすいかと思います」

「……あなたは、不気味と思わないのですか」


 瞳以外の表情も声も凪いでいたが、ハーブ水で拭き終えた顔を覆うために包帯のような布を取り出す様子を見れば、この人はそうならざるを得なかったのではないかとも思えた。普段表情筋を動かせないだろうから。


「私も……昔、花粉が原因で、似たようなことがありましたから。お恥ずかしながら、くしゃみも鼻水も止まらず、時には頭痛や腹痛、発熱も……ですから、瘴気も似ていると思います」

「瘴気に抵抗がないのですか」


 穏やかな尋ね方には、諦念が混じっているように感じられた。何か期待してしまっては裏切られてきたのかもしれない。


「瘴気がどのようなものでどんな影響を実際に及ぼすものなのか、自分で見て、調査報告などを読まない限りは、伝聞で断ずるのは性急かと思います」


 きっぱりと言ってからヘルミーナは、可愛げがなく生意気だったろうか、と思った。元婚約者のゲオルクなら、女性なのだから少しは警戒しろとか自重した方がいいとか心配から言ったかもしれない。

 しかし男性はふっと視線を緩めると、清めた顔に慣れた手つきで黒い布を巻きながら告げた。


「でしたら……瘴気のせいでブラウに人は寄り付きません。もし何か複雑な事情があり人目を避けるならここはうってつけでしょう。長居は避けた方がいいと思いますがアーテム辺りなら瘴気の影響はほとんどないはずです。

 領主の交代前であれば、事情如何では市民権を得ることもできるでしょう」


(今までの質問は、私のため?)


 それは現時点では願ってもない申し出で――そして彼が領主ならば、自身と領地の事情を明かしたうえで保護するために会話の時間を取る、誠実な人物だと思えた。

 昨日突然名前を使ってもいい、などと言い出したので、切羽詰まっていると思ったのだろうか。

 ……と、同時に性急な気もした。まるで自分が領主であるうちは確実だが、以降は分からないと知っているようだ。


「領主様は……辞めるおつもりなのですか」

「そうなるでしょう」


 緑の瞳の深さが増したような気がした。

 ヘルミーナは映っていたが、まるでヘルミーナ自身が深い山の森の中に取り残されたように見える。

 そして、彼も深い森の中を歩いているように見える。

 孤独、拒絶、諦念。ヘルミーナも見たことがある。鏡の中に。


 ここではい、と。保護してください、と言えばしばらくは安全が守られることはヘルミーナには解っていた。

 余計なことを言うべきではないとは解っていた。

 けれど――考えるより先に言葉が口をついて出ていた。


「そうしたい、のではないのですね」


 ヘルミーナが口を出せる立場にいないことは百も承知だが、彼の言葉は先ほどから字義通りではないような気がしていた。

 息を呑んで、続ける。


「聞いてはいけないと思いましたが……昨夜漏れ聞こえました。この領地の喫緊の課題は奥様探しなのですね」

「ここの領主は25歳になるまで妻を持てなければ、爵位と領地を一度国が取り上げるという約束をしていたのです。もともとこの地には瘴気についていわくがあり、密に見れる管理者が必要だということで」

「そして春の盛りでもっと瘴気は広がり、これからまた王都に向かわれるには、厳しい……」

「それだけではありません。

 夫となる領主が瘴気症であることが望ましくないのは勿論、原因が生まれ育ったこの山ですから、ここで暮らそうという奇特な女性も、子供を瘴気症にしたいという女性もいないのです。

 親から子に性質が伝わる可能性もあるとなればなおさらです」


 当然のように割り切って話すその声音に、自分に言い含めているような色があって、ヘルミーナの胸は少し痛くなる。

 重ねて問う。


「諦められるのですか」

「その通りです」


 吐息交じりの自嘲が、全て諦めてしまったような色が声に混じる。

 憂いを吐き出しているようだった。深い色の瞳が宿している孤独は彼自身だけでなく、領地や領民が王都の意向次第では人々から見捨てられることになるという、領主としての孤独も。

 昨夜の様子から本当は諦めたくないのだろうに、どうにもならないと、まるで自身の体質を懺悔するような瞳。


「結婚することで当面の平和が……修道院や領地が守られるなら、するべきです。フェルベルク伯爵には選択肢があります」


 ヘルミーナは彼に向き直った。ただの村娘にしか見えない格好ではあったが、足を揃え、背筋を伸ばせば立派な淑女に見える。今まで身に着けてきた教育が彼女をそうさせた。


(家名は綺麗な鎖だと思っていたけれど、鎖が役に立つのなら……)


伯爵ロードフェルベルクにご相談申し上げます。ヘルミーナ・ツヴァイクと結婚してはいかがですか」


 口にしてから、再び、顔を見る。明るい部屋にくっきりと浮かぶ、黒い布が巻き終えられた顔を見て、気付く。

 ――アイコンと、一緒だ。


 『黒薔薇姫のシュトラーセ』はゲームクリア後の二週目以降、好きな指導者を選んでゲームを進めることができる。ストーリーがないフリーモードで、その時は主だったライバルキャラや、モブキャラと呼ばれる人々でもプレイできた。

 そして彼はその中でも縛りプレイと呼ばれるキャラクターの一人、高難易度領地・北東部山岳地帯の領主――ウィルヘルム・フェルベルク。

 領主の能力は平均的だが、領地の多くを何しろ移動が大変な山岳地帯が占めるせいで開発がなかなか進まず、瘴気でデバフが常にかかっているような状態。すぐに他の領地に遅れを取って、そのまま飲み込まれるのゲームオーバーが常だった。


 勿論、そんな可能性の話、ありうる“未来”の話を彼は知らない。自身や他領の領主の能力を数値化して見ることも当然にない。


(もし領主の妻になって当面の危機を回避したとしても、領地の経営も私自身の行方も順調とはとてもいかないのでしょう)


 ヘルミ―ナは一瞬ひるんだ――それでも。


(このひとを、助けたい。

 花粉や瘴気の、空気が毒に変わってしまったような辛さも、世間の流れに逆らえず、居場所を失うつらさや理不尽も、少しは分かるから。

 このひとはまだ、故郷を捨てなくて済むから)


 決意は不思議と揺るがなかった。

 出涸らし令嬢と呼ばれるほど抑制してきた自分にこんな衝動が――動機が残っているとは思わなかったが、ヘルミーナは努めて表情に出さなかった。

 私、と言わなかったのもまた、彼が自身で名乗らなかったからでもあり、あくまで感情を排している合理的な選択だと強調したかったからでもあった。

 もし昨日会ったばかりの人間でなくとも、同情や友情や愛情や、そういったものを素直に受け取れられないほどに拒絶されてきたのではないかと思ったからだ。


「失礼ながら……信頼できるという根拠は?」

に行くあてはありません。それが保証にはなりませんでしょうか」

「……事情を聞いても?」


 椅子を勧められ、ヘルミーナはテーブルの側の一脚を引くと、腰を落ち着けた。

 前世の記憶によるウィルヘルムの未来と見返される瞳にヘルミーナはこれでも十分たじろいでいたので、申し出に助けられた。足は知らずに震えており、もしこのまま立っていたら転んでいたかもしれない。


はこの度の女王殿下ご結婚の余波で、婚約を破棄されました。当主は女王派ではない派閥に属しておりましたので」


 身分の証明になりそうなものは実家に置いてきたが、ふと思い出してハンカチを引っ張り出す。広げて見せたシルクのハンカチの端には、かつて母が刺繍してくれた家の紋章が色褪せながら残っていた。


 そうして婚約破棄からの一部始終を語ってしまう頃には、ヘルミーナは少し落ち着きを取り戻していた。動揺の代わりに緊張がやってくるが、それを悟らせることなく強い視線で見つめる。


「これはお互いにとって利のある取引かと存じます。どうか妻でなく、取引相手とお思いになってください。いわば、契約結婚です。

 もし伯爵に愛する方ができたときには、はすぐに離婚いたします」


 二人の間に沈黙が降りたのはわずかな間のことだった。


「……分かりました」


 黒い布に覆われた男性の顔の中で、露わになっている目元と口元がふと緩んだ。


「大変申し遅れましたが、わたしはフェルベルク領主ウィルヘルム・フェルベルクです。宜しくお願いします、ミス・ヘルミーナ・ツヴァイク」


 跪くことも恭しい礼も甘い言葉もない、簡素な自己紹介と婚約の成立。

 それがヘルミーナの心臓を少しずつ高鳴らせる。


 きちんと意図を汲んで受け取ってくれる人がいるということ、領民を想っていること、その人が領主であるこの瘴気に覆われた地の幸いを思う。


「フェルベルク様と領地のために、身を粉にして働くつもりです」


 ヘルミーナは立ち上がると逆に跪こうとしたが、ウィルヘルムが手を挙げて制したので軽く下げるにとどまった。


「お互いに崖の縁に立っているようなものです。回りくどい挨拶はここまでにして、すべきことをしましょう」 


 顔を上げた時、目に入ったのはわずかな、ほんのわずかな微笑みだったけれど、ヘルミーナは目頭がふいに熱くなるのを感じた。

 こんな自分とでも彼が契約でも取引でも、利のために忌憚なく意見を交わせる可能性があるなら――それは得難いものだった。

 ヘルミーナもまた、微笑で返す。


「ではこれからは、共に崖の上を歩いていきましょう」


 彼女はその返答に、ウィルヘルムの口元がもう少しだけ緩んだことには気付かなかった。

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