第11話 紙上の誓い

 それからの時間は慌ただしかった。

 朝食を急いで詰め込み、医師の診察を受けた後は身繕いする間もなくウィルヘルムによって院長室まで連れて行かれた。

 陽の光の下で見た院長室には、無駄なものは何ひとつない。歴史を感じる武骨な事務机や鍵付きの棚に筆記用具や紙・羊皮紙の文書などが整然と整理されており、持ち主の性格をよく表していた。

 ヘルミーナが診察で異常がなかったこと、医療の水準が高くて驚いたことを話すと、机で書類に目を通していた院長は顔を上げて微笑んだ。


「怪我がなくてよかったわ。それから、アンペルに知り合いがいるなら、今度の郵便で手紙を届けてもらいましょう」

「ありがたいお申し出に感謝いたします」


 ヘルミーナが礼を言い、昨夜の出来事を続けて報告しようかとウィルヘルムを見上げれば、彼が先に口を小さく開く。


「院長に至急お願いが」

「何ですか? 珍しいですね」

「わたしはこの方、ミス・ヘルミーナ・ツヴァイクと結婚します。式の準備をお願いいたします」


 院長は顔を上げたまま何秒かじっと二人の間に視線を彷徨わせる。動揺が見て取れないのは年の功かそれとも、他の何かを考えていたためかは分からないが、やがてあいまいに微笑する。


「……そうですか」

「紙の上だけでの誓いで構いませんので、今すぐお願いいたします。彼女が父親の訴えで万が一貴族から除籍される前に、全て済ませておきたいのです」

「いますぐ」


 修道院長は目を少し丸くして復唱した。


 この国では結婚式は教会やそれに準じた施設で行い、立ち会った聖職者が誓いの書類にサインを加えて施設で保管することになっている。

 貴族に限っては爵位や領地の継承権の関係で国王へも届け出ることとなっており、問題がなければ多くは追認される。貴賤結婚も法の上では問題にならない――ほとんどの場合は貴族社会の目を気にして行われないが。


「……わ、分かりました。今すぐに準備しますので、聖堂でお待ちください」

「お願いします」


 修道院長が慌てて立ち上がるのに合わせ、ウィルヘルムはヘルミーナを一瞥した。


「ご案内します」

「ありがとうございます」


 ヘルミーナは、ウィルヘルムの後を追うように歩く。ここまで来るときもそうだったが、歩幅が違ううえに疲労のせいで早くは歩けない。

 背中がすぐに離れていくので、痛みを我慢して足を運ぶと、ふいにウィルヘルムは立ち止まってこちらを軽く振り向いた。

 完全に振り向かないのは、覆っていても顔をあまり見せたくないのだろうか。


「……申し訳ありませんでした。その……紳士としての気遣いに欠けると使用人にもよく言われます」

「いいえ、そんな」

「何かあれば遠慮なく仰ってください。それと……院長の準備までまだ少しありますから、無理をなさらないように」


 ウィルヘルムはヘルミーナの顔と手と、そして自身の手袋をはめた手とを見比べると、気まずげに押し黙って顔を少し逸らす。


「ありがとうございます」


 ヘルミーナがゆっくりとウィルヘルムに並ぶと、彼は歩調を合わせて歩き始めた。少し鼻をすする音が聞こえる。

 距離を取ろうとするのはそういう気遣いもあるのかもしれない、とヘルミーナは横顔を見つめた。


 相変わらず陰鬱そうな雰囲気はあるが、しかし、決して横暴ではないことは好ましかった。

 瘴気症でぐるぐる巻きの新郎と、満身創痍で町娘のような恰好をした自分が書類の上だけの結婚をする――そんな合理性も嫌いではない。


 ただ時間があるなら、少しだけはヘルミーナも可能な範囲で整えても良かったのかもしれない、とは思う。これは自分の貴族の女性としての教育とほんの少しだけ残っている少女の心のせいだけれど。


(テレーゼがしてくれたなら、こんな状況でももう少しましになっただろうけれど)


 渡り廊下を歩けば、春の風が花の香りを運んでくれた。柔らかな野草の色、畑の野菜の濃い緑。

 けれど青く澄み渡っているだろう空には靄のように舞う、うっすらと灰色のベールを広げた瘴気。


(でもこの地にはこちらの方が似合いなのかもしれない。上滑りした美しさも宝飾品もこの地の自然の美しさと瘴気の前では役に立たないから)


 隣でくしゃみが響く。

 ああ屋外に長居するものではないな、とヘルミーナは瘴気症を思い出す。


「失礼しました」

「私の方こそ、もたもたしてしまって」


 情緒も何もなく、速足でこの教会の中で一番大きな建物――聖堂に入る。

 並ぶベンチの合間を抜けて、最奥、聖人を中心に祀った祭壇を仰ぎ見る。

 昨夜見た葉のモチーフの中心に凛々しく立つ彫像の、女性の聖人が、花冠に飾られた穏やかな顔で説教台の前に立つ二人を見下ろしていた。


「……お待たせしました」


 到着して程なく修道院長がやってきて、説教台の上に書類となる羊皮紙を並べた。


「ここにサインをお願いいたします」


 インク壺と羽ペンを渡され、まずウィルヘルムが名を書く。流れるような筆致は、彼のまとうどこか素朴な感じとは全く別の、貴族の教育をきちんと受けたものだと示していた。

 ペンを渡されたヘルミーナもまた、同じようにできるだけ美しく文字を書くことに注力する。

 

 最後に院長が自身のサインと教会のものらしい大きな押印を加えて、頷いた。


「……確かに、これでお二人は夫婦となりました。おめでとうございます」


 ヘルミーナは院長の表情を伺ったが、落ち着き払った顔からは感情はあまり読み取れなかった。

 出会ったばかりで結婚することを、聖職者がどのように思うのかは多少気にかかる。まさか一目ぼれ同士の恋愛結婚だなどとは思っていないだろう。

 聖職者だって政略結婚のことは良く分かっているだろうが、親切心で助けたぼろぼろの女性が一日でこうなる、というのは急展開過ぎと思われていないだろうか。


「それではわたしはこれから、王都へ出す書類を書きに行きます。修道院長は彼女をお願いします」


 ウィルヘルムは院長に軽く頭を下げると、ヘルミーナに向き直った。


「申し訳ないのですが大変急ぎますので、あなたにはわたしの……領主の館への迎えを寄こします。……準備もありますのでお迎えに上がれるのは夕方かと。今夜までに必要なものがあれば院長に伝えて下さい」

「はい」

「それからあなたにはひとまず侍女と護衛を付けようと思います。侍女を伴っての移動に自由を制限するつもりはないのですが……ともかく王都に承認されるまではなるべく、ブラウで過ごして欲しいのです。

 脅すつもりはありませんが、ツヴァイク男爵が何かしないとも限りませんから」


 ヘルミーナは長いまつげを瞬いて、ウィルヘルムを見た。

 瞳にも声にも相変わらず感情の色は薄いが、この短い間に色々と考えてくれることは分かる。


「……はい。ご親切痛み入ります」

「それではまた」


 ヘルミーナは聖堂の前でウィルヘルムの後ろ姿を見送る。時折肩を震えさせて、立ち止まったりするのはくしゃみのせいだろう。


「それでは戻りましょうか。伯爵夫人」


 書類を胸に抱えた院長に声をかけられ、ヘルミーナは頷いた。数分前に男爵家の一令嬢から伯爵夫人になったばかりの彼女としては呼び名に馴染むのに時間がかかりそうだったから、院長の言葉の調子が変わっていなかったのがありがたかった。


 院長室へ戻る道すがら、彼女は領地とウィルヘルムについて教えてくれた。

 彼女自身はブラウ出身であちこちの修道院を回ってからここに院長として戻ったこと。先代領主夫妻の一人息子がウィルヘルムで、彼は生まれてからずっとこの街で――正確には、今はこの街のすぐ側にある山で暮らしているということ。

 子供のころから瘴気に悩まされていること。


「これから行くことになる領主の館は、あの山の麓に見える青い屋根の城館です」


 指さした先、屋根の尖塔はここからでも見える。確かに美しい館だったが、小さな城と言ってもよい作りになっているようだった。


「小さな街ですから、もし困ったことがあればいつでも人をやるか、手紙で尋ねてください。慣れない地ですからね」


 ヘルミーナはそれから差し当たって必要なものリストを作成した。ほとんど自分の荷物がない上に、伯爵夫人となれば質量ともにそれなりのものが必要になるだろう。

 院長は先代伯爵夫人であるウィルヘルムの母とは知り合いだったそうで、必要になるドレスなど領地で浮かないようにアドバイスをしてくれた。


「実際のところはおいおい分かってくるでしょう。

 ともかく伯爵が奥様を迎えられるとなれば領民は歓迎するでしょうから、あまり気負わずに過ごされると良いと思いますよ」

「何から何までありがとうございます」


 それからヘルミーナは頼んでいた荷物が届くと早速湯浴みをさせてもらい、真新しい灰緑色のワンピースに着替えた。装飾は控えめだが綺麗なシルエットで、品を保ちつつ散財だと反感を買わず、瘴気症で痛む目にも優しいと思う。


 また迎えが来るまでの時間を修道院内の見学にあてた。この領地の信仰を学ぶためと、いずれ離縁された時にここでできる仕事がないか確かめるためだった。

 修道女になれば実家に無理に帰されることもないし、領地や伯爵の善意の役にも立てるからだ。

 特に興味を引かれたのは列聖された聖人のうち、フェルベルク領の中でも最も尊敬されている――祭壇で結婚を見守っていた女性・聖ゲルトラウデだ。薬師として修道女として人々を救ったレシピが今に伝えられて、領内の人々を助けているのだという。

 炎症を抑えるカモミール水は今朝伯爵に提供されていたものだった。




 夕方になると約束通り、門扉の前に黒塗りの箱型馬車が彼女を迎えに来た。王都に向かう時に使うものだろうか、古いが丁寧に修繕されていて、御者は立派なお仕着せを着ている。

 その側に騎士であろう、馬を連れた鎧姿の青年が扉を開けてくれる。


「奥様をお迎えにあがりました」

「ありがとうございます」


 初対面なのに奥様とは不思議な感じがする、と思いながらドレスの裾をさばいて、分厚い座面に腰を下ろす。

 知らない馬車に乗るのは二度目だが、迎えてくれる場所があるせいか焦りはなかった。

 もしそうでなくても、街並みを見るのに夢中になっていたから、焦りを感じている暇はなかったかもしれない。


 昨夜は見えなかった街並みは観光客もおらず少し寂れていたけれど、美しい。話に聞いたブラウ湖は澄み切ってなんとも言えない青い色を湛え、湖の側に並ぶ商店やレストランや宿泊施設も、木組みの模様が独特で、何もかもが王都とは違う作りで新鮮だった。


 そして近づく、夕方の陽光に染められてなお青い、屋根の城館。

 近くまで来て分かったが、修道院よりもっと武骨な壁で囲まれていた。いや、城壁と言った方がいいのだろうか。

 それも山に対して広がっている形をしている。


(山の魔物が瘴気の原因……)


 ウィルヘルムの言葉を思い出せば、ここがかつては戦うための城でもあったのだと納得する。

 でも今は本当に、院長の言葉のように安全なのかもしれない。でなければ山の上で領主が暮らすというのは危険すぎて誰かが止めただろう――瘴気症が命に関わるほどひどくなければ、だが。


 馬車は湖沿いの道を一旦離れ、山の方向へぐるっと回る。

 道と城館の間に小さな堀が見えた。

 矢狭間やざまの並んだ石積みの城壁にはいくつか見張り塔があり、歩けるようになっている城壁上にも凹凸が並んでいる。


 ほどなくして馬車は門の前で止まると、窓の外で騎士が合図をする。

 すると影が上からさっと降りて来た、かと思えば目の前で跳ね橋がかかった。

 跳ね橋の上を、開かれた門の中を、ゆっくりと馬車が進んでいく。


 ヘルミーナは馬車と自身に注がれる視線を感じながら、それらしく在るために口元に微笑を作った。

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