第12話 泉の城館

 城というものにヘルミーナが足を踏み入れた経験は片手の指で数えられる程度で、それも全て国の象徴たる王城のホール周辺という限定された場所だけだ。

 国の混乱の中にあっても美しく整えられた調度品や温室の花で飾られた会場、騎士はピカピカの鎧の上にそれぞれ清潔な揃いのサーコートをまとっていた。

 そんな王城が社交の場であり国の豊かさを常に誇示し地方領主の忠誠を必要とする一方で、この城館は領地の防衛と運営という実務を重視したつくりになっていた。

 元は城塞だったのか、領主が日常を過ごす館の部分は他よりも石が新しく、建て増しされたように見えた。


 ヘルミーナの乗った馬車が跳ね橋を渡りきると、大よそ半円状に広がる城壁の中に、いくつかの小屋が建っていることが分かった。正面の大きな館の側に続く道には幾人かの騎士が並んで真正面を見据えている。

 そして館の正面入り口の大きな扉の前には、先ほど夫になったばかりのウィルヘルム・フェルベルクが待っていた。


 旅装ではなく貴族らしい服装だった。

 黒色の、袖にゆとりのあるジャケットが膝までやや広がりながら流れており、首元には華やかなシャツが覗く。膝丈のズボンに合わせているのは白い靴下。

 ただやはり顔は朝に見た黒い布で覆われたままだった。昨夜は旅装で盗賊と見間違え今朝が貴族の日常なら、夕方に至っては早起きの吸血鬼のようにも思えるアンバランスさがある。


「ようこそ、泉の館クヴェレへ。ミス・ツヴァ――」


 騎士が扉を開けたので馬車から降りようとしたヘルミーナは、ウィルヘルムのそんな挨拶で迎えられようとして。

 彼の隣の従者らしき金髪の青年がごほん、と咳払いをしたために、ウィルヘルムが動きをぴたりと止めたので。

 彼女も同様に降りようとした姿勢のまま固まった。

 確かに、ここはエスコートを受けた方が良いが、結婚前の名前で妻を呼ぶのに応えるのは相応しくないように思えた。


「……申し訳ありません。……その、ようこそ……ヘ、ヘルミーナ様」


 再び彼が口を開く。今度はちゃんと、結婚後に呼ぶ名前だった。

 ヘルミーナは再度降りようとしたが、近づいたウィルヘルムがおずおずと白い手袋をはめた手を差し出すか、差し出さないかといった動きを繰り返したので、足を止める。

 また従者がごほん、とわざとらしい咳払いをする。

 ヘルミーナの前に、手が差し出された。


 顔を見れば視線は合わない。目は伏せられ、口元は覚悟を決めたように引き結ばれている。

 女性に慣れていないか拒否されてきたか、そのどちらもだろう。


(当然のように手を取っても良いのかしら……)


 周囲の人々はそれを望んでいるだろうが、咳払いを見るに今までウィルヘルムが妻を迎えるなど考えられなかった、ということは理解しているはずだ。

 修道院でも、修道院内だからという配慮で手を取られなかったとも思えない。触れられることに抵抗か、あるいは自信がないのかもしれない。


(なんて言おう。「触れても宜しいですか」では許可をせざるを得ないだろうし、「助けてください」では責めるように聞こえるかもしれない。

 でもそもそも、私のことを何と話すつもりなのか聞いておけば良かった)


 名前で呼んだのだから、もう結婚したということは公にしてあるのだから、変に他人行儀でもおかしいはず……と迷った末、結局ヘルミーナは感謝の言葉だけ述べることに決めた。


「ありがとうございます」


 ごく控えめに手を伸ばした。決して体重をかけたりはせず、触れるか触れないかのところに置くようにして地面に降りる。

 手が離れると、安心したようにウィルヘルムはヘルミーナと視線を合わせた。


「早速ですが、今日は夕食まで屋敷をご案内します。

 その前にあなたの護衛を交代で務める騎士をご紹介します。多少窮屈に感じるかと思いますが……」

「ありがとうございます」


 護衛を主に担当する騎士はここまで送ってくれたアロイスと、エメリヒというどちらも20代の若き騎士だった。

 見覚えがないな、とヘルミーナが改めて思ったのはゲーム上での高名な騎士――特に一周目ではイベントが起きるような――のユニットには名前や設定などが付いているからであり、そういった特別なネームドではない単なる戦闘用のユニットは汎用の、せいぜい色違いの兜を被った姿と能力値で済まされるからだ。

 記憶にある限りではフェルベルク領にそういった“贅沢な”ユニットは存在しない。

 とはいえ実際のところは英雄ではない、くらいに考えておけばいいだろう。彼女自身がエンディングのモブである。


「よろしくお願いいたします」


 無言で礼を取る二人。その後、ウィルヘルムは隣の、咳払いの青年を手で示した。金色のさらさらの髪に利発そうな青い瞳が、主の一挙一動を見張るようにしている。


「彼はテオフィル・クラッセン――わたしの従者として色々と身の回りの仕事を任せています。

 代々我が家に仕えてくれている執事のクラッセンの息子です。わたしが捕まらない時は執事か彼に頼めば早いと思いますが」


 ヘルミーナは頷きかけて、次の言葉に耳を疑った。あまりにさらりとウィルヘルムが、隣の山を指さして言ったので。


「わたしが明後日に山へ帰還するのに同行しますので、あまり顔を合わせないかもしれません」

「そ……それは……その、別居ということでしょうか……」


 山で暮らしているとは聞いていた。救ってもらった立場上異議を唱えるつもりはなかったが、それは、あまりに早い。

 当然かもしれないが、相談も事前の告知もない。更に今騎士たちの目の前で決めましたと言われるのは、立場がない。

 それに何より困るのは。


(このまま別居になれば、私はきっと蚊帳の外。領地もきっとゲームのように……)


 絶句して目を伏せたヘルミーナの考えていることを勘違いしたのだろうか、テオフィルと呼ばれた青年は真面目そうな相貌を崩すと、うわあ、と言いたげな表情で主を見た。


「ウィルヘルム様、それは初耳です」

「今初めて言いました。これは皆も知っての通り、体調の問題ですので」


(急なのは、仕方なくないです)


 ヘルミーナは心の中だけで反論した。

 一緒に崖の上を歩く、と誓ったのは形だけの結婚をしたいからではない。領地を召し上げられないために共に領地経営に関わりたいからだ。


 確かに父親が家を仕切っていたし、ツヴァイク領より遥かに広いフェルベルク領をうまく運営できる経験はない。

 それでも自分の記憶にある『黒薔薇姫のシュトラーセ』の知識を活かせたら少しは好転する可能性があるのではないか――いや、そうしなければならないと思っていた。


(でも仕事を任せてもらえるほどの信用を得るには、あまりにも時間が足りない……)


 もう夕方で、登山となれば午前中に出発するだろうから、実質丸一日しか時間がない。


「ヘルミーナ様は困りますか?」


 返事ができない。正直に言えば困る。

 困るが、彼にヘルミーナを接待する必要がないのも当然だ。 

 そしてこの事情を分かってもらおうと――前世の記憶があってこれはゲームなのです、などと言おうものなら即刻破談になってもおかしくない。

 彼女自身も、あくまで自分の記憶の中だけにしか存在しないという頼りない知識を、長年かけて何とか少しずつ受容している過程なのだから、他人に受け入れられるとは思っていない。


「奥様に酷では」


 一方、固まったヘルミーナの表情にテオフィルは再度進言する。

 ウィルヘルムは一瞬眉をひそめたようだったが、ヘルミーナをちらりと見て、


「……では、明々後日しあさってに。宜しいでしょうか」


 一日増えた。


「お気遣い……ありがとうございます」


 どうすべきか頭を回転させながら、ヘルミーナは何とか返事を絞り出した。

 テオフィルが呆れを表情に滲ませたが、ウィルヘルムは気まずげに顔を逸らして屋敷の風見鶏を一瞥すると、どうぞご案内しますとヘルミーナを屋敷の中へ促した。

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