第8話 ブラウ女子修道院

「ここがブラウ女子修道院……」


 説教をする王都の教会に足を運んだことはあるが、修道士の生活の場という色が濃い修道院の敷地に足を踏み入れたのは初めてだった。

 花壇や畑、点在する養蜂箱に囲まれて、小ぶりではあったが見るからに歴史が感じられる石造りの修道院が建っていた。

 先ほど見えた鐘楼や礼拝堂だろうか、大きな建物を中心にして生活の場らしき建物を幾つもくっつけて造られているように見える。


「就寝時間は過ぎていますが、食事と部屋を用意してもらいますから、少し座って待っていてください」


 案内されたのは、広間に長テーブルと椅子が並べられたがらんとした空間だ。

 着くや否や、蠟燭に灯りをともしただけで慌ただしく去っていく老婦人の後姿を見ながら、ヘルミーナは大人しく休むことにした。

 椅子を引くと、まだ濡れたブーツの紐を緩めて、素足をだらりと浮かせるようにして足を休ませる。鞄を肩から降ろし胸元に抱きしめる。


(これから、どうしよう)


 老婦人が本当に親切な人で屋根のある寝床と食事にありつける確信が持ててやっと人心地つき、明日のことを考えられるようになっていた。


(そもそもアンペルへ行く旅費はもうないし)


 売れそうなものはもうない。なけなしの鞄や残った衣服を質に入れたところで大した金額にはならないだろう。

 修道院に雑用か何かで働かせてもらいながら職を探すか、いっそ修道女になってしまうか。


(それにしてはここのことを知らなさすぎるけれど)


 蜂蜜の甘い香りをほんのり漂わせながら周囲を照らす蝋燭を頼りに、ヘルミーナは周囲を観察する。

 実家よりもずっと年季の入っている素朴なテーブルと椅子は傷こそたくさんついていたがきれいに拭き上げられている。石の床も清潔で、目立った装飾品こそないものの秩序立った暮らしが営まれていることが想像できた。


 それから目についたのは、見慣れないシンボルだ。樹木の大きな葉を組み合わせたような装飾が壁に彫られていた。版画のパネルのようなものには、一枚一枚少しずつ違う葉や花の模様が彫られ装飾として使われている。

 この国で信じられている聖教では見ないものだ。


(……アニミズム?)


 聞き慣れない言葉がふと脳裏に浮かぶ。

 宗教の前段階といっていいのか、自然などに魂が宿っているとする概念。王都ではまず見ないが、聖教のように宗教が組織化する前の土着の宗教もここでは淘汰されずに両立して信仰されているのだろうか。


「……綺麗な模様」


 繊細で優美でありながら力強い模様と彫りにヘルミーナは見とれた。立ち上がってパネルの一枚に近づくと、ふいに視界の端に影が映った。

 食堂の入り口をさっと影が横切ったのだ。

 背が高く骨格がしっかりした――女子修道院に存在しないはずの、男性の影が。


 ヘルミーナは瞬きをして、そっと入り口に近づく。


(関係者の方なら訪れることもあるかもしれない)


 不審者ではないかという心に浮かんだ疑いを一旦は否定したが、すぐに思い直す。

 訪問者がまず訪れない夜で、もし訪問者だとしたって男性一人で女子修道院を歩くこと自体があやしい。

 そして蝋燭の明かりにわずかに照らされた横顔は――いやその頭部は、黒い布でぐるぐると巻かれていたのだ。顔を隠す意図は明白だった。


(泥棒かもしれない。……確かめないと)


 善意で助けてくれた老婦人やこの場所に危害が加えられる可能性があるなら見過ごせない。こそ泥でなく、もし強盗などで仲間でもいようものなら修道院全体が惨事になる可能性もある。

 体は一刻も早く寝たいと訴えていたが、ヘルミーナはブーツの紐を締め直し、息を詰めてその後を追った。

 男は勝手知ったるように石階段を上がり、奥に進んで立派な扉の前で立ち止まる。

 扉は半分ほど開いたままになっており、部屋の中は暗くてヘルミーナからは全く見えない。

 そして男が部屋の中に滑り込んだ。


(……誰かに知らせないと)


 ヘルミーナが踵を返そうとした時、扉の中から声が聞こえた。





「いかがでしたか、アンペルは」


 先ほどの男のものらしい声は若く、20代くらいだろう。ヘルミーナの脳裏には部屋に不審者に協力者がいるのか、それとも密会かと様々な想像が駆け巡ったが、どうも違うようにも思えた。

 声量はやや小さいものの泥棒にしては落ち着いており、発音は正しく高等教育を受けたもので、声音に品も感じられたからだ。

 そして次の言葉に、胸をなでおろす。


「……駄目ですね」


 答えたのは先ほどの老婦人の声だ。周囲に配慮してか声は小さめだったが、特にはばかる雰囲気もない。


「修道院は聖教の教えを伝えるに相応しくない、完全に改宗しなければ認められない、と。破門よりは、教区を維持したまま改革するほうがましだろうとのことです」

「そうでしたか。……お疲れさまでした」

「時代の流れに乗ってブラウの信仰と文化を捨て去るか、選ぶ時期が来たのですね。

 列聖された聖人がたは、残念ですが別の場所で祀ることを考えなければ」

「……それを前提に進めるしかないでしょう。次の領主はブラウに興味がありませんし、女王陛下に忠誠を誓おうとすればなおさらでしょうから」


 老婦人のひどく残念そうな声に応えるのは、苦渋に満ちた言葉。

 盗み聞きは良くない、と帰ろうとしていたヘルミーナの息が詰まった。


 女王陛下の即位が国を一つにまとめようとしている、ということは実感していた。そしてそれが、陛下自身の決断でなくとも、そぐわない人々を結果的に切り捨てるということも。

 ここの修道院は、聖教の一部として土着の宗教や聖人を取り込むことで、存続させてきたに違いない。それが領主が変わってなくなるかもしれない――突然で、当事者には理不尽で、そして合理的で。ヘルミーナは手をぎゅっと握る。


「けれど。そのために聖人が後世にと残された製法の数々まで失うことだけは看過できません」


 老婦人の声には切実な響きがあった。


「もし熱さましやけがの薬が怪しげな魔女の邪悪な技とでも扱われれば、医者にかかることもできない人々が、ますます苦しむばかりです」

「そのようなことにならないよう、何とか男爵には話をしてみます」

「あれこれ申し上げる立場ではございませんが……やはりあと3か月で見付けることは難しそうでしょうか?」

「……急にブラウに帰って申し訳ありません。王都では得るものがなく……最善を尽くすと言いたいところですが……諦めが早いと思われるかもしれませんが、やはりこんな辺境の地に嫁いでくれる貴族の女性など――」

「……いいえ。ウィルヘルム様が謝られることなど」


 恐らく修道院の高位の人物である老婦人が、様を付ける程の人である、ということにヘルミーナははっとした。


(これ以上、聞いてはいけない)


 怖気づいて竦みそうになる足を引きずるように、ヘルミーナは後ずさった。足音を立てないように、そっと。


「ところで、院長は灯りもつけずに何故こちらに」

「戻る途中で女性を一人保護しましたの。先に食事と部屋をシスター・マーガレットにお願いして、それで鍵の管理をしてすぐ戻ろうと。お疲れでしょう。灯りとお茶を用意しますので少しお待ちいただけますか」


(こちらに来る)


 かつん。

 廊下にブーツの音が鳴って、響いた。

 ヘルミーナの疲労は限界に達していたせいか、足が……ぶかぶかのブーツの踵が、床で大きな音を立ててしまう。


「……どなたか?」


 扉が開き、その男性が顔を出した。

 黒い布に覆われた顔、頭の黒髪は闇に溶け込んでいるようで、瞳もまたほぼ黒に見えた。白目だけが浮かんでいるように見えてそれは一種異様な姿だったが、ヘルミーナはごくりとつばを飲み込んで、体に染みついた淑女の礼を咄嗟に取っていた。


「大変失礼いたしました。私は先ほど、ご婦人に助けていただいたものです。……その、女子修道院とお伺いしていましたので、お見掛けしてもしや……賊、か何かだといけないと思い……」


 ひどく緊張して喉がつっかえそうになりながら言葉を絞り出す。賊と見間違えられた男性は、自身の旅装を一瞥した。そう、顔の下もまた長いマントと、丈夫さと動きやすさを重視した黒一色の旅装だった。


「……ああ。気にしないでください。確かに明かりも持たずに男が歩いていたら、間違えられても仕方がないでしょう。こちらこそ誤解を招く行動でした」

「……誠に申し訳ございません」


 老婦人は男性とヘルミーナとを二人を見比べて、また咎めるのをやめたようだった。


「確かに私も横着をして燭台も持たなかったのがいけなかったわ。放っておいてごめんなさい」


 ヘルミーナはもう一度深く礼をするとこの場を予定通り去ろうとして――それから尋ねた。


「……あの、大変失礼なことを伺いますが……貴族の女子をお探しとか」

「ええ、まあ。事情があり……。お名前は?」

「……ヘルミーナ、と申します。ツヴァイク男爵の長女、ヘルミーナ・ツヴァイクと」


 もうことさらに身分を隠す必要はない、とヘルミーナは思った。

 いずれバレてしまうことなら、先に言ってしまう方がいい。

 二人の視線を一身に受けて身のすくむ思いだったが、ヘルミーナは思い立ったことがある。


「……名前を、お貸しすることならできます」

「と、いうと」

「事情があり家を出てはきましたが、まだ貴族に籍があります。どなたでもよいのでしたら、名前を使っていただけませんか。そのかわりにこの教会ででも置いていただけたら――」

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