第7話 迷子

 

 ――迷った。

 ヘルミーナはそう結論付けた。

 歩けど歩けど馬車の影も形もない。

 駅から馬車修理の人間が来て、更に治して引っ張っていける程時間は経っていないし、そうならさすがに気付いたはずだ。


 足元の石畳の色は良く見れば、先ほどアンペルへ向かっていたものと同じ色ではなく薄い茶色が混ざった灰色に――つまり、別の時期に敷かれたことを示すものになっていた。

 途中道が分かれていたことに、雨の帳のせいで気付かなかったのだろう。


「……寒い……」


 息を整えるにつれ、走っていたことによって生まれていた体の奥の熱が去ってしまって、ヘルミーナは肩を震わせる。


 全部失ってしまった。

 コボルドは撒けたようだが、財布にはもう金貨の一枚も残っていない。何枚かの銅貨をかき集めても水と次の夕食のパンが買えるかどうか。

 宿泊できるところは見つかるだろうか。いやその前に、お金が使える場所までたどり着けるかすら怪しい。

 雨は小降りになってきたが、雲の向こうにうっすら透ける太陽はだいぶ昇ってしまっている。


(陽が沈むまでには、どこか駅か村かに絶対に着かなければ――でなければ本当に野垂れ死んでしまう)


 ヘルミーナの体が再度ぶるっと震えた。

 濡れたドレスが重く冷たく、徐々に下の服に染み込んでくる感触が気持ち悪い。体温が吸い取られていくようだ。


(ううん……今でも……まずい、かも)


 立ち止まって外套とその下のドレスをもたもたと脱ぐと、止むを得ず路肩に投げ捨てた。

 幸いにして、中に着込んだ飾り気のないワンピースはまだそれほど濡れていない。まだ時間稼ぎができるだろう。


 濡れた服を捨てて軽くなった体を鼓舞して一歩一歩足を前に出す。

 コボルドのことを考えれば後戻りはできない。前に進むしかない。

 街道があるということは、きっとどこかには辿り着けるはずなのだから。


 この際農家、いや農作業の小屋でも廃棄された家畜小屋でもいい。屋根があるところで休みたい。


「……あ、痛……」


 ふいに踵に覚えのある痛みを感じる。

 ブーツの紐を解くと、右足のかかとが案の定靴擦れを起こして血が滲んでいた。

 ヘルミーナは鞄からハンカチを出して傷に巻くと、逆さにして入り込んだ水を捨ててから紐を再び締め直した。


「歩かなきゃ。破滅に落ちるのが決まってる人生なんか……」


 ゆらりと立ち上がった――その時、背後から迫ってくる音と風に驚いて再度転んで尻もちをついた。

 

 口を思わず歪める。立っていなかっただけマシだったが、腰が痛い。骨には響いてなさそうなのが不幸中の幸いだ。

 何があったのかと顔を上げれば先ほどまでいたその場所の少し手前に、一頭立ての馬車が止まっていた。


 それは荷馬車の荷台を少し豪華にしたような軽い作りで、幌を付けたせいぜい二人乗れれば十分といった座席の後ろに、御者台がついたタイプのようだった。

 前から見ると、そう――前世で見たことがある人力車とかいう乗り物によく似ている。


「大丈夫!?」


 女性の声がした。

 ヘルミーナが立ち上がれないでいるうちに、幌を上げて客席から駆け降りて来たのは、一人の老婦人だった。

 厳しそうな顔立ちは長い間一つの仕事を続けてきたひとのものだとヘルミーナは思った。

 質素ではあるが上品な外套に身を包んだ彼女は、ヘルミーナが頷くとひかれていないことは理解したようだったが、改めて彼女の全身を見て細い目を丸くした。


「あなた、大丈夫なの!?」


 もう一度言った。それは先ほどとはまた違ったニュアンスだった。驚きだ。


「はい、馬車とは接触してない……です。でも腰が抜けてしまって……恐れ入りますが、お手を貸していただければ」


 人だ、とほっとする前にそんな言葉が出たのは、思考力が鈍ってきたせいだろうか。


「それはそうですけど、こんなところにずぶ濡れで一人なんて……ほらこんなに冷えて! ――早く、手を貸してちょうだい!」


 老婦人は御者に向かって大声を上げると、二人がかりでヘルミーナを馬車の座席に押し込んだ。

 深い皺の中に輝く鋭い目がヘルミーナの全身をざっと見渡してからブーツの履き口に手をかけた。


「あ、あの!」

「脱がしてもいい? まずは体を温めないと、このままでは風邪をひくだけではすみませんよ」


 人前で足を見せる淑女はいない。せめて心の準備をと羞恥に頬を赤らめるヘルミーナに、老婦人は疑問形ではあるが有無を言わせない早口で告げて、するすると紐をほどいて赤くなった踵を取り出した。

 びっしょりと濡れてふやけたせいで余計に擦れて赤くなった足を、馬車に積んであった布で手際良く拭いていく。

 まだ外気に晒されているのに、乾き、摩擦で次第に感覚を取り戻していく足先にほっとしたヘルミーナの顔を見て、老婦人は自分の膝にかけていただろうブランケットを彼女に渡した。


「これで隠していなさい、もう少しの我慢だから。……馬車を出してちょうだい

「あの、どちらに」


 御者が馬に鞭を当て、馬車が動き始める。ヘルミーナは慌てて膝にかけたブランケットでつま先まで隠しながら問えば、逆に問い返された。


「あなたはどこに行くつもりだったの?」

「アンペルです」

「あいにくの雨でしたね。馬車には乗って来なかったのですか?」

「途中で馬車が故障してしまって、歩いて他の乗客を追ったのですが……雨でけぶって先が見えず、はぐれてしまいました」


 行く先も分からず不安になり、屈むような姿勢で暖を取るヘルミーナに対して、ほうと息を吐いた老婦人は普段の調子を取り戻したように背筋を伸ばしていた。

 まるで問診する看護師のようだ。


「それは災難でしたね。

 先ほどは本当にごめんなさい。視界が悪いところを私が御者に急がせたものだから……」

「いえ……」

「一度医者に診せられれば良いのだけど。私はブラウから来たのですが……ブラウって聞いたことはありますか?」

「……寡聞にしてありません」


 まだぼんやりとした頭の中でその単語を探したが、まるで聞き覚えがなかった。


「そう。ちょうどアンペルから街道を馬車で三、四時間……今いるあたりをもう少し北東に行くとアーテムっていう大きい街があります。知っている?」

「詳しくは」


 ヘルミーナは首を横に振った。商業が盛んだと聞いたことがある程度で、どのような街かは知らない。


「ブラウはそのアーテムから更に進んだ、小さな山間の町です」


 寒さと退屈とを紛らわすためか、老婦人は饒舌に話した。


「昔は避暑地で有名だったのです。町の名前の由来になったブラウ湖という湖がとても美しくて……夏なんか特に透明度が高く、何層もの青が重なって見えるのですよ。散歩するのにもちょうど良くて、釣りをする人もいましたね」

「今は……流行が変わったのですか?」

「そうですね。いつからかフェルベルク領の黒い山から強い瘴気が吹きつけてくるようになりましたから」


 ヘルミーナは記憶を辿った。

 確かそう、北東部の山岳地帯。フェルベルク伯爵が治めるという一帯だ。黒い瘴気が満ちているとかで、貴族たちに忌避されているというのは社交会で交流の少ない彼女の耳にも入っていた。

 伯爵はヘルミーナよりもさらに社交嫌いらしく、一度も見たことはない。そのせいなのか何が由来か知らないが、“お花畑伯爵”と揶揄されていることは知っている。


(……それに、そうだった)


 前世の記憶、いやゲーム画面ががスライドのように脳裏に浮かぶ。

 フェルベルクは全くうまみのない土地だった。ただでさえ山地でユニットを移動させにくいのに、瘴気はゲームの地形に立ち込める黒い靄で表現されており、様々なことにデバフのかかる――つまり土地を効率よく繁栄させるに不利な特徴だ。様々な行動や土地からの産出にマイナス効果が付与されるので、必要がなければゲームですら近寄らない。


「あなた、行くあてはあるの?」


 呆けているように見えたのか、老婦人が尋ねる。


「……え?」

「急ぎだからアンペルには寄れないけれど、さっき言ったアーテムまでは送り届けてあげられます。そこで医者に診てもらいましょうか。

 ……でも、見たところ困っているのではない?」


 供もなくびしょ濡れで荷物が鞄一つ、という自身の姿をヘルミーナは思い出した。そして財布がほぼカラであることも。

 今からアーテムに辿り着いたとしても知り合いもなく、夕方には頼れそうな唯一の場所――役所も閉まっているだろう。


「わたしはブラウの女子修道院で暮らしています。明日で良ければそこで医者にも見せられますし、良かったら泊っていきますか」

「……ご迷惑をおかけするなんて」

「修道院にはもともと巡礼者用の客室もあります。最近はブラウへの旅人もまれだから、豪華なおもてなしはできないですけれど……これも神のお導きと思って」


 老婦人の厳しそうな顔立ちが緩み、微笑む。

 善良な修道女であろうことを察し、ヘルミーナは申し出に甘えることにした。実際のところ、それしか選択肢がない。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 馬車はやがて主要な街道から外れて、裏道のような細い道を進んでいく――おそらくこちらが近道なのだろう。大きな乗合馬車は通れないが、小さなこの馬車くらいは通れるようになっていた。

 ヘルミーナは道の両脇に張り出した木々の枝に若干の不安を覚え、コボルドに襲われて逃げるために一文無しになったことなどを話せば、何十年もかけて徐々に瘴気が増えてきたのだと老婦人改めバーンズ修道女は話した。


「わたしはブラウに女子修道院ができたときからあそこに住んでいるけれど、確かに人を襲う魔物が徐々に増えていると思うわ。……でも安心して、今のところ王家の騎士の巡回や伯爵家の騎士がいるから、ブラウだって人への被害はほとんど出ていないの」


 彼女は安心させるように付け加える。


「良かったら少し眠るといいわ」


 老婦人はヘルミーナに眠るよう促したが、彼女は万が一のことを考えて眠気を堪えた。

 勿論体は疲労しており、温まったからか睡魔が忍び寄ってきていたものの、初対面の人間をすっかり信用してしまうには不安が残ったし、次にこの辺りを通ることを考えれば少しでも道を把握しておきたかったからだ。


 良いのか悪いのか、一度魔物から襲われたという緊張はいまだ続き、そして実家から逃げおおせるまではという意識がヘルミーナを夢から現実に留めてくれた。

 それに都合の良いことに、近道のせいか路面はどんどん荒くなって緩やかに上り坂になり、お尻から突き上げるような揺れがくる。


 景色を眺めていれば、空はいつの間にか晴れていたにも関わらず肌に触れる空気は少しずつひんやりしてきた。植物は今まで見たことのないとがった葉先のものが増え、木々の葉も濃くなっている気がする。

 ヘルミーナは、標高が上がっているのだろうと察した。


 やがて馬車はアーテムというにぎやかな街を眼下に山道を通り抜け、空が暗くなったころに青い湖が見えてきた。


「お疲れ様。あれがブラウよ。そしてあの尖塔のある建物がブラウ女子修道院」


 暗くてはっきりとは見えないが、水面に月を浮かべた湖の周囲に、数件建物が立ち並んでいた。

 そのうちのひとつ、鐘楼と尖塔がすぐそこに見える高い塀の前で馬車が止まると、老婦人は腰をさすりながら降りて大きな鉄扉の脇にある小さな門を開け、彼女を手招いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る