第6話 雨と魔物


 雨だ。

 たちまち石畳は濡れて濃い灰色になって、弾かれた雨は透明な下生えのようだ。馬の脚と車輪は水をばしゃばしゃと高く跳ね上げながら進む。

 車輪がつるりと滑ってしまわないか、街道の横の土のぬかるみにはまらないかヘルミーナが窓の外に目を凝らしていると、突然、がたんと大きく馬車が傾いて停止した。

 座席から転げ落ちそうになって慌てて窓枠を掴まえ、右足を床に踏ん張る。


「きゃあっ!」


 薄桃色のボンネットの女性が隣の夫らしき紳士にしがみつき、紳士と馬車の壁に挟まれるように小太りの商人が腹をへこませ、その脇で眉間に皺を寄せた職人風の男性が声を外に投げる。


「どうした!?」

「車輪が溝にはまっちまいまして、外れかかってるんですよ!」


 馬車の外から雨に遮られながらも、御者の声がかろうじて聞こえる。


「……ったく、これも去年のごたごたのせいかね」


 職人風の男性が言ったのは、多分、この街道を完璧に保守できるほどの余裕がなかったということなのだろう。

 やや間があって、御者が窓に取り付いて声を上げた。


「皆さん! 車軸のところにちょっと亀裂が入ってしまいまして。そこの駅で人手と部品を調達しに、馬を先に連れて行かなきゃなりません」

「わたしたちはどうするんだ」

「申し訳ないんですが、次の駅まであと徒歩で10分ほどです。馬車に乗って待っててもらうか、そこまで歩いてもらうしかないですな」


 御者に言われ、乗客一同は顔を見合わせた。誰も彼もげっそりした顔をした。が、ここで文句を言っても何もならないことは良く分かっているのだろう。

 ただ一人、一刻も早く出発したいヘルミーナだけは焦りで緊張していた。


「仕方ねぇな」


 仕事を急いでいるらしい職人風の男性はさっさと降りていき、首を振ったボンネットの女性を見た紳士はここで待つのを決めたらしく浮かせた腰を再度落ち着けた。

 何人かが馬車から降り、ヘルミーナも鞄を抱えながらスカートを持ち上げ、何とか傾斜を降りて続いた。

 外に出るとたちまち全身を大雨が襲った。外套を着ているとはいえ程なくびしょ濡れになってしまうだろう。

 馬車をちらりと見れば、木材をつなげて作られた車輪はなるほど、剥がれた石畳と今までの馬車の重量か何かでえぐれた隙間に運悪く嵌っていた。


「運賃は次の駅でいくらか返すので、そっちで受け取ってください」


 ヘルミーナは頷くと、急いで他の乗客の後を追った。

 いくら街道の上といえど一人で大雨の中、女性が傘もささずに歩くには少々治安に不安が残る。


 遅れないように、はぐれないように……。

 最初はそれでも余裕があった。次の駅で雨宿りでもできれば、アンペルまでもう徒歩でも行ける距離のはずだったからだ。


 ――が、激しくなる雨は周囲の音をかき消してしまう程になった。

 靴の中に雨が染みて入り込む。フードを深くかぶれば視界は遮られ、荷物を外套の下に抱いて歩く足が重い。


(もう少し運動しておけばよかった)


 ヒールを履いて一、二曲ダンスすることはできても、あれは室内で休憩も挟めたからだ。

 徐々に忍び寄る寒さと、長時間履きなれていないブーツは箱入り娘として閉じ込められ、移動の殆ども馬車で過ごしてきた令嬢には厳しい。


「10分ってこんなに長かったっけ……?」


 前方にもう追っていたはずの背中は見えない。

 足元の街道だけを頼りに、それでも一定のリズムで歩みを進めるヘルミーナはやがて前方に黒い人影を見つけてほっと胸をなでおろした。


「良かった……追いついた……っ!?」


 彼女は安堵の息を漏らしかけて、慌ててその自分の口をふさいだ。

 心臓が早鐘を打ち、鼓動が口から飛び出そうだった。

 前方からゆっくり歩いてくるシルエットのやや前傾の重心に違和感を覚え、――そう、近づいてくるのは人ではなかった。

 雨に濡れそぼった服のようなぼろ切れから雫を垂らす長い毛。人の顔のあるべきところにあるのは犬のような顔。突き出ているのはピンと立った獣の耳とその下の突き出した鼻の下で大きく開いた口に並ぶナイフのような犬歯。


(コボルド……!)


 本物を眼にしたことはないが、絵で見たことならある。子供向けの絵本にも出てくる、ごく一般的な魔物の一種だ。

 人間ほど頭は良くないと言われているが、基本的には獣と同じように複数匹以上で群れをつくり、仕事を分業し、社会性もあると言われている。

 人間の集団をわざわざ襲いに来たりはしないが、困窮すれば別で、相手が弱いとみれば襲うのにためらいはないだろう。


(どっち……一匹? 複数? 気付いてる?)


 けぶる雨の中目を凝らすが、今のところ一匹のようだ。しかし社会性があるということは、側に仲間がいる可能性だってある。


(……何で、こんな運が悪いの!?)


 ヘルミーナは歯を食いしばった。

 普段だったら人里近いこんな場所に現れたりしないし、街道を巡回する騎士がいるはずなのに、姿もない。

 もしいてもこんな雨の中じゃ助けを求めても声は届きそうにないし、視界も悪くて気付かれないだろう。


(……とにかく、さっきの馬車まで逃げ……)


 ヘルミーナが自分を叱咤して恐怖で凍り付きそうな足を動かそうとした時、コボルドの頭がこちらを向いたような気がした。


(気付かれた!?)


 ヘルミーナは体を反転させて走った。

 気付かれていなかろうが何だろうが構わない。


(雨で視界が悪いのはこちらも同じだし、鼻だって効きにくいかもしれない。耳も雨音が邪魔なはず)


 ポジティブな材料を探して自分を鼓舞する――そうでないと重いドレスが、水で濡れた靴が、恐怖ですくみそうな体には重すぎてうずくまってしまいそうだったからだ。

 いや、足は実際にもつれていて、視界は悪かった。

 街道の石畳の上を走っても走っても、馬車は見えてこなかった。


(……何で、どうして)


 自分が何メートル走ったかも定かではない。

 背後を振り向くと、自分をゆっくり追ってくる一匹のコボルドの姿がある。走っていたつもりが全く走れていないらしい。


 ヘルミーナは考えを巡らせた。

 何か、何か時間を稼げるものはないか――思い出して、ドレスの内側に手を突っ込んだ。


(思い、出した……確かゲーム上では、街道に出てくるコボルドは交易路を台無しにすることが多くって……そう、金属に目がなかったはず……!)


 引っ張り出したのは薄い布鞄で、ヘルミーナはその中身を――ゲオルクに貰った金貨を握りしめると、それを全部コボルドに向かって投げつけた。

 コボルドの視線が金貨に向いたその瞬間に、ヘルミーナは街道を今度こそ急いで駆け出した。


 ――滑り、転び、石畳に膝をすりむいて、立ち上がって。


(こんなところで死ねない……破滅を避けて死ぬって、そんなひどい結末……)



 しかし行けども行けども、馬車は見当たらなかった。

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