第5話 家からの逃亡
シュトラーセ王国の王都・ハウプトは、おおよそ楕円形をした領土の南西寄りに位置する。
緯度が高くおよそ冷涼な国土のうち、北部の山がちな地域は標高が高く更に冬の冷え込みが厳しくなるのに対して、南部地域は平地が多く温暖で海に面している。そのため農業・商業と交易が盛んだったからだ。
農業が盛んなら養える人口が増え、更に交通の便が良く海運に有利となればますます人が集まるから、当然の帰結と言える。
嫁ぎ先であるボルマン伯爵家の領地もその中にあり、ここからは半日もかからないという。更に王都から離れればツヴァイク家の領地もある。
出発直前に父親から早口で聞かされたのは、老境である伯爵は先妻との嫡子に爵位を譲らないまま領地で過ごしているという説明だった。
後継ぎには早めに爵位を譲って経験を積ませながら支えるという貴族が一般的な中、それだけであまり良い想像ができない。
(このまま南に連れて行かれる前に、逃げないと)
馬車が走り始めてすぐ、ヘルミーナは外套を脱いだ。それから革鞄のひとつを開けると、服の合間に隠してあった、柔らかいなめし革の手提げ鞄を肩にかけて外套を羽織りなおす。
窓の外を眺めれば景色はどんどん流れていく。前世の記憶でいえば自転車の上から見るものと同じくらいの速度で。
そう、舗装された石畳に飛び降りれば怪我しないとも限らない。
(……無事にここから降りなければ、歩けない)
実家から逃げる方法はいくつか考えていた。
まずは真っ先に思いついたのが、馬車に乗るフリをしてそのまま家から逃げるという方法。しかし乗るところまできっちり父親以下使用人たちに監視されていた。あの時逃げれば実力行使で押し込まれていただろう。
移送の休憩中や到着後に逃げるのも、土地勘がないので論外だ。
消去法で王都で降りるしか選択肢がない。
王都なら人が多くて紛れやすい。
それに国の主要な都市や重要な同盟国間につながる街道が整備され、乗合馬車や早馬が交換できるような駅と呼ばれる場所及び宿泊所も整っている……はずだ。
(乗合馬車に乗ったことはないけれど、ゲームクリア後ならそうなっているはず)
ゲームタイトルでもあるシュトラーセの――かの世界での外国語の――名の通り、「ゲーム」では道を敷くとユニットの移動のみならず各種産出物へのボーナスが大きく、プレイヤーの王女が即位エンドを迎えるには街道の敷設はマストだったはずなのだ。
ヘルミーナはそのうちのひとつで遠方に逃げる気でいた。
当然降りる姿を見つかれば捕まえられるだろうから、御者の不意を突くしかない。ふつう、やらないようなことを。
ヘルミーナは南門までの道を思い浮かべると窓にカーテンをざっと引き、ほんの少しだけ馬車の扉を開いた。
混乱期を経て女王が戴冠したばかりの王都は希望に満ちあふれ、物売りや行きかう人々の声と活気で満ちていた。大通りは人でごった返し、貴族の馬車だからと言っていちいち見て避ける余裕もない。
馬車の速度は少しずつ落ちていって、御者がおそらく四苦八苦した挙句に表通りから離れようとしたのだろう、次の路地を曲がろうと手綱を締めると、
「おっと、ごめんよ」
リンゴを山積みにした箱が、角からぬっと現れた。馬車はそれを持つ男性との衝突を避けようと、一気に速度を落とす。
頬に当たる風が消えた。
(今……、しかない!)
ヘルミーナは男性と反対側の扉を開くと、鞄を胸に抱いて空中に身を躍らせた。
「……っつ!」
スカートの布地が風をはらみ、重力に引っ張られた体を地面に打ち付けそうになりながら、何とか靴の底で着地する。
歴史ある、規則正しく大きさの揃った石できれいに舗装された道は、両足をしびれさせこそすれ躓かせることはなかった。
目を見張って驚く通行人にヘルミーナは動じず、立ち上がるとあえて何でもないことのようにドレスの土埃をはたいた。
(急がないと。この人混みならひと一人がいなくなった分の重さを感じるのはもうちょっと後だろうけど)
ヘルミーナを置いたまま進む馬車が少しずつ遠くなる。
彼女は踵を返すと、急いで馬車の進行方向と反対の道を小走りに抜ける。
(足は痛めてない……よし。大丈夫、たいしたことない)
前世の記憶は、一人で荷物を持つことも、街を歩くことも、仕事を探すことも――そして一人で生きていくことも、不可能ではないということを教えてくれた。
勿論今の世の中とでは難易度は全く違うにしても、同じように生きている人たちがこの世界にたくさんいることも知っている。
ヘルミーナは真っ先に適当な質屋に入ると、鞄の中からレースのハンカチや、もう着ることがないドレスから取り外したレース、リボンなどを小金に変えた。ドレスそのものを売ってしまっては足が付く可能性があるし、後々父親が質屋に迷惑を掛けないとも限らないからだ。
外套のフードを被ると、その足で屋台で昼食のパンと水の入った瓶を買いつつ、馬車の待合所に向かう。
ボルマン伯爵家の領地がある南とは反対の北東部には、国内有数の大都市・アンペルがある。
ここには以前から連絡を取っていた乳母の娘が住んでいた。あくまで乳母経由でのやりとりなので彼女の存在は屋敷の人間にはバレていないはずだ。
人の出入りが激しい大都市なら、何とか紛れられるはず――きっと。
「アンペル行きの馬車はこちらですか」
ヘルミーナは待合場の看板を確認してから、慎重に御者に尋ねた。
御者台の上で馬の調子を見ていた彼は、育ちが良さそうな女性が一人で歩いていることを奇妙に思ったのか、目をすがめた。
「一人かい? 乗り心地を重視するならもっといい馬車を雇った方がいいんじゃないかね」
車内に目をやると、ツヴァイク家と同じ箱型ではあるが、カーテンもビロード張りの椅子もない、素朴なベンチに乗客がお尻を詰めていた。
労働階級の男女ばかりというわけでなく、小金持ち風の男女や従者もいる。遠方へ行くせいか皆小奇麗に装っており、ヘルミーナが浮きすぎるということもなさそうだ。
それに何より、知った顔がいない。
「手持ちがあまりなくて、こちらが良いのです」
ヘルミーナはドレスにくっつけたポケットから代金を払って乗り込んだ。
板のベンチに申し訳程度のクッションが敷いてある座席の間に、「済みません」とお尻を割り込ませて座る。
窓の外をちらちら気にしてしまうが、あまり気にすると不審に思われたり気付かれたりするかもしれない。馬車を飛び降りた時よりも鼓動が早い。
程なくして出発時刻が来て馬車が走り出すと、ヘルミーナは安堵の息をついた。
フードの下から窓の外を眺めるが、誰も追いかけてきているような様子はない。
(これで一安心……かな)
アンペルまでは順調にいって、馬車に乗り続けて半日はかかる旅程になる。
馬を休ませるために途中で一度以上は休憩や交代が入るから、夜に一度馬車を降りて宿を取り、翌早朝に出発すれば正午には到着するだろう。
ヘルミーナが鞄から地図を取り出して旅程を確認していると、頭上を黒い影がよぎる。
街道へ続く大きな門をくぐったのだ。
馬車の揺れの感触が変わる。首都の色彩賑やかな屋根とよく舗装された敷石はやがて色合いを変えた。
少しの間は露店や小屋も見られたが、進むにつれて緑の芽吹く大地と、畑や牧場、農家の藁や板葺きの素朴な色に塗り替えられる。
同じく街道を進む馬車の背や、王都へ向かう乗合馬車や郵便馬車、辻馬車の色合いは、王都にいた時は変哲もなかったのにカラフルで目立つ。
ヘルミーナの心臓が、弾むように音をたてた。
それから馬車は時折駅に止まって客を入れ替えたり、馬を変えたりしながら順調に旅を進めていた。
ヘルミーナは急に空腹を感じて、丸いパンにかぶりついた。全粒粉の堅めのパンは、素朴な色と味わいでとても美味しかった。
水ですっかりのどを潤すと、お尻の下の堅さが気にならないほど眠気がさざ波のように忍んでくるのを感じる。鞄を抱く右手で、左手の甲をつねって眠気を堪えて欠伸を噛み殺す。
(ええと、アンペルに到着したらまず宿を取ってから、乳母の娘さんの家を探して、今後世話になれるかどうか相談すると)
次になるべく早く就職活動をする。事前に打診していた学校や店を回って、求人がないか確認して、とにかく手持ちのお金が尽きる前に職場と住居を確保する。
(私のできることといったら、多少の事務作業と薬草の知識くらいだけど……)
母親が長く病気だったので、子供のころはとにかく医者が持ってくる薬や市販薬以外に何かないかと、良いと聞く薬草を探しに森へ入ったり庭で育てたりしていた。
だから薬草を栽培する仕事や、自分で薬草園を持つ施療院での下働きの働き口がないか探していたのだ。
身元が推測されるような仕事や確認されるようなお堅い仕事は無理だ。それから勿論、実家の商売と取引は勿論、競合するような店も。
あれこれ考えているうちにやがて馬車は駅の一つに止まり、乗客たちはいったん宿を取った。
ヘルミーナは、この時は心からゲオルクに感謝した。
上等とは言えないが、清潔な宿の個室で一泊することができたからだ。個室というのは今の逃亡生活では非常にありがたかった。
翌早朝に再び同じ馬車に乗り込んだヘルミーナは、花々が咲く新緑の景色に新生活の前途を重ねて旅を楽しむ余裕も出てきた。
――が。
アンペルがもう少しというところまできて、馬車に小さな横揺れが加わったのに気付く。
屋根をゆっくりと叩きはじめた小さな音が、次第に激しくなる。窓の外でにわかに黒くなった雲から大粒の雨が降り注いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます