第4話 鞄に覚悟を詰め込んで
父親のツヴァイク男爵から荷物をまとめるよう言い渡された日から、三日が経った。
男爵は今まで娘についていた花嫁修業の教師を解雇してしまうと、ヘルミーナを放置している。……といっても、毎日どこで何をしているかは、可能な限り報告されているはずだが。
教師の解雇については、令嬢教育はとっくに終わっていたし、週一回通いの教師から受けていた花嫁教育も最近は確認に終始していたので問題ない。
部屋にこもっても文句を言われないことを幸いに、ヘルミーナは急いで屋敷で自分が担ういくらかの仕事の残務処理を早々に終え、荷造りを進めていった。
荷造りは慎重に行う必要があった。
家出するのだ。
老伯爵と会うのに必要なドレスや必需品を鞄に詰めた上で、さらに別に「本当に持ち出すための」鞄をひとつ、誰にも知られずに用意したかった。
特に勝手に使用人がチェックする可能性に備えて、ゲオルクから貰ったお金は絶対に守り通す必要がある。
だから、隙を見てマントの内側や以前質屋で手に入れた庶民用のワンピースにポケットを縫い付けたり、ドレスの下に提げられる小さくて薄い袋などを縫って下着の中に隠しておく。
「実用的な裁縫がこんな風に役に立つなんてね。領地ではお金もなかったけれど、何をしても文句を言われなくて助かったわ」
最終的に貴重品は全部身に着けておくつもりだ。かつて迫害された民や流浪の人々もそのようにしていたと本で読んだことがあった。
「土地を失うのとでは事情が違うでしょうけれど」
彼らは家族をとても大事にすると聞いたことがある。
この国の貴族階級の娘は、ほとんど親の財産という扱いを受けている。結婚も法律上は当人の自由意志でできることにはなっているが、平民はともかく行使する貴族はほとんどいない。
だからこそ女王陛下が王配と恋愛で結びついたことが奇跡のように語られるのであり――父親のダミアンは特に、財産が勝手に動くなんてことは認めないだろう。土地も家も明け渡すことはあれ、足が生えてきて逃げ出したりしない。
脱走が失敗して連れ戻されれば今度こそ監視が強まり、脱出は絶望的だ。
(絶対に一度で逃げ切らなければ)
ごくたまに聞く、実家を捨てて出奔した貴族の中でも仕事や後ろ盾がいなような人物は、やはり連れ戻されたり仕事の妨害などに遭うと聞く。
だからできるだけツヴァイク家の力が及ばないような場所に行かなければ……。
ヘルミーナが革鞄の中に準備した品を隠したり、揃っているか確認していると、背後の扉がノックされた。慌てて革鞄を閉め、布団の中に押し込む。
「……お嬢様、ユリウス様が図書室でお待ちです」
「ありがとう、すぐに行くわ。あなたはここで待っていて」
テレーゼの声にそう答えると、早速図書室へ向かう。
二階の隅にある図書室は、図書室と呼んでこそいるが高価な紙の図書は少ない。壁際の棚には仕事で使う紙以外の羊皮紙の資料や道具なども多く並べられていて、倉庫のように使われていた。
重い扉を開くと、中央に据えられた武骨な机で本を読んでいる少年が目に入る。
ヘルミーナよりも更に薄いアッシュブラウンの、金色に近いさらさらの髪がさらりと揺れた。
「姉上、お久しぶりです」
「本当に久しぶりね、ユリウス。見かけたのではなく最後にちゃんと会ったのは冬の初めかしら。……また背が伸びたみたい」
扉の開く音に、ページからついと顔を上げた少年の目鼻立ちは、記憶にある母親によく似ていた。
挨拶のためにわざわざ立ち上がれば身長は姉を超えていて、ヘルミーナは少しだけ目線を合わせるのに戸惑った。
「顔色もいいし、筋肉も……ちゃんと食べてるみたいで安心したわ」
「もう姉上、僕は元気ですし病気もしてませんよ。もう子供じゃないんですから。
「だって、お父様はユリウスが学業で忙しいからとか嫁入り前だからとかで食事すら一緒に取らせてくれなくて」
優しく微笑む弟の血色の良さに安心して、ヘルミーナは息をついた。
母親の死の間際、不安がってよく泣いていた弟の姿は今もよく覚えている。だから五歳の年齢差を加味しても、ついつい過保護になってしまうのだ。
ツヴァイク家の嫡男として男爵が時に甘く、しかしあれもこれも学業と仕事の知識を詰め込もうと躍起になっていることを知っているから余計に。
「……それで、姉上から僕に会いたいというのは? あの……次のご結婚が決まったというお話ですか?」
「決まったわけではない……けど。一度お会いすることにはなりそう」
この答えにユリウスの細い眉が下がる。
「ボルマン伯爵のことでしたら、昨夜父上は返事を出したと仰られていましたよ。領地に姉上を送り、問題さえなければすぐ婚約させると」
ヘルミーナは咄嗟に唇を噛みそうになって、弟の前だと我慢した。
伯爵に出された手紙もそろそろ何らかの返事が戻ってきていい頃だと思っていたが、本人の意向は全く意に介していないのだと気持ちが沈む。
嫡男には跡取りだからと事情を話すのに、娘はどこまでも道具だ。
(……でもその方がいいのかも。決心が鈍らないから)
「姉上はそれで宜しいのですか」
「……」
ヘルミーナが仕方がないわ、と答えようとした時だった。
背後で忙しないノックの音が聞こえたかと思うと、黒いテールコートを着た家令のギルマンが顔を出した。
ツヴァイク家には家令と執事がいる。ギルマンは男爵の秘書的な役割で、家の中の実務は執事が行っていた。家格からも屋敷の規模からいっても家令と執事の双方を雇う必要はないのだが、男爵の見栄だ。
そのギルマンがわざわざ来たという事実にヘルミーナの顔色がさっと悪くなる。
「何か?」
「ヘルミーナお嬢様、出立のお時間が決まりました。旦那様が至急荷物をまとめて玄関までいらっしゃるよう仰せです」
「……今すぐ? 弟と別れを惜しむ時間くらいは」
抗ってみたが、抑揚のない声で告げる初老の男は、彼の雇い主と同じくヘルミーナが説得を成功させたことはない。
「今すぐ、と仰せです」
「……分かったわ」
ヘルミーナが観念して頷くと、ギルマンはかたちばかり一礼した。下がることはなく扉を押さえて今すぐ出ろ、という風に。
「姉上、もし宜しければ僕が……!」
「私は大丈夫よ」
ヘルミーナは、何か言いたげなユリウスの言葉を先んじて制止する。
(ユリウスが留学するなら、そこが転機になるはず。今、お父様に逆らえば留学の話も流れてしまうかもしれない)
あんなに小さかった弟が自分の背を追い越して、細かった体の線が青年期のそれになりつつある。
留学すれば、実家の家庭教師や今通っている高等学校の生活よりももっと自由に多くのものに触れられて、ずっとずっと大きく成長するだろう。この家を出たり、変えたりすることのある出会いが待っているかもしれない。
「元気でねユリウス」
願いを込めるようにまだ未来への憧れを失っていない瞳を見つめてから、ヘルミーナは瞬いた。
目を開いたときに弟を思いやる色はそこから消え、普段の冷静な無感情とすら思える色が浮かぶ。
ユリウスははっとしたように、踵を返した姉の背に俯いた。
ギルマンが開いたままにした扉から一直線に自室へ向かうと、話が通っていたらしいテレーゼが鞄を並べてくれているところだった。
重たい革のトランクに、ドレスの鞄、その他衣類鞄、小物と宝飾品の入った鞄、その他日用品の入った鞄などで5点。布団の中に入れていた分もだ。貴族のご令嬢にしては質素すぎるが、元々物持ちではない。
「ありがとうテレーゼ」
「すぐにお支度をいたします。ドレスと髪型はいかがなさいますか」
「……旅になるもの。皺が寄っては失礼だし、結局あちらで着替えるのではないかしら」
「それではなるべく楽なものにいたしましょう」
気が進まない主人の気持ちを汲むように、テレーゼはクローゼットに残されたドレスの中から、旅行用の軽装のものを見繕う。
「どちらにいたしますか」
「右の、モーヴの方をお願い。髪は編んでから同じ色のリボンで軽くまとめて」
「かしこまりました」
テレーゼは黙々と準備に取り掛かった。
しかし彼女には悪いが、ヘルミーナは気が進まないどころか絶対拒否のつもりでいるし、ドレスも髪型も、感情からではなく理性で選んでいる。
今着ている簡素な室内用ドレスを脱いだところで、ヘルミーナはあっと思い出したように声を上げた。
「……さっき、図書室の前のサイドテーブルに、ハンカチを忘れてしまったと思うの。取ってきてくれる?」
「ですが、お支度は」
「自分でできるところまでするわ。お願い」
ヘルミーナはテレーゼを強引に部屋から出してしまうと、鞄の中からさっと手製の薄い布鞄を下着の上から身に着け、薄い綿のワンピースを重ねた。
その上に先ほど選んだモーヴ色のドレスを着れば、腰を緩く絞ってあるだけの締め付けないシルエットは、ちょっとした服一枚、鞄一枚の厚みなど分からない。
戻ってきたときには衣服を整えて、ヘルミーナは「大人しくしていましたよ」という風に澄まして座ることに成功する。
「お嬢様、ハンカチは見つかりませんでした」
「……ごめんなさい、勘違いしていたみたい。さっきそこで見つけたわ。探してくれてありがとう」
「いいえ。きっと急なことで気が動転されているのでしょう」
ヘルミーナは表情にはおくびにも出さずに、テレーゼに心の中でごめんなさいと謝ると、髪を櫛で梳かれるままに任せた。
小さい頃からヘルミーナの髪質を、ひょっとしたら本人よりも良く知っている彼女は手際よくまとめ上げてしまう。
「これで支度を手伝ってもらうのも最後ね」
「……はい」
逃げるつもりのヘルミーナは勿論のことだが、またお帰りになった時に、とはテレーゼも言わなかった。
このまま嫁がされることになれば、滅多にない里帰りの機会があるとして侍女を連れてくるだろうし、そうでなければこんな時間を持つ間もなく、今度はもっと悪いところへ送られるだけだろう。
「テレーゼ。紹介状は書けないけど、良いお勤め先が見つかるといいわね。物持ちじゃないから、上げられるものなんてあまりなかったし、腕を振るう機会だって……」
「楽をさせていただきました」
「……今までありがとう」
テレーゼが出した鏡で簡単に髪型とドレスがどこかおかしくないか確かめ終えると、外套を羽織らせてもらって荷物を部屋の外に出す。
部屋の入り口で頭を軽く下げるテレーゼの、ついぞ抜かすことはなかった背の丈を見ながら、ヘルミーナは涙が滲みそうになったが、目を瞬いてこらえた。
使用人が馬車に積み込むために荷物を全て持っていってしまうと、
「行ってきます」
一言だけ言い置いて、ヘルミーナは前を向いた。
母がいなくなってからはずっと、毎日出迎えてくれたのは彼女だけで、そしてすべてを語るわけにいかなくても、決意だけは伝えておきたかった。
これは逃げるためだけではない、自分からようやく足を外に踏み出す決意ができたのだと。
玄関に到着すると、時計の針は突然急ぎ始めたようだった。
父親の「遅い」という小言と監視の中、ヘルミーナの荷物に加え貢物やらがさっさと二頭立ての箱型馬車に乗せられる。主役のはずのヘルミーナは一人で、追い立てられる子羊のように乗り込まされた。
父親がよく使っている御者と二人きりで重苦しい鉄の門扉をくぐる。
一度だけ振り返った時、馬車と屋敷の窓ガラスを隔てて小さく弟の姿が見えた気がしたが、それもすぐにただの滲んだ点となってしまった。
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