第3話 ゲーム『黒薔薇姫のシュトラーセ』
ヘルミーナは無意識のまま通りかかったメイドに応接室の片付けを頼み、ぼんやりと階段を上って自室に戻った。
北向きの部屋には応接室とは違って、弱い光が差し込むだけだ。
伝統と見栄えを金で買い取ったこの館は古めかしく、赤茶色のタイルを敷いた床は冷え冷えとして足元をなめた。奥で寝静まっているレンガ造りの暖炉に火が欲しくなる。
だが扉を閉めて真っ先にしたことは、タンスの下着の間にきちんと革袋が隠されているか確かめることだった。
(……良かった)
侍女のテレーゼはしっかり、白いレースの間にゲオルクから貰ったお金を隠してくれていた。
「見た限り、変わったところもなさそうね……」
安心して呟きが漏れる。
警戒するのは、ヘルミーナの知る限り父親は彼女を、というよりこの家のすべてを思うように動かしたがる
必ず嫁がせようと、今までのようにメイドに彼女の行動を報告させるだけでなく、ボルマン伯爵の気に入らなそうな私物を勝手に捨てる可能性も排除できなかった。
歴史と伝統を重んじる貴族社会にあって、ツヴァイク家はつい最近までただの商家でしかなかった。祖父の代に商売で財を成し、財政難だった王家に大金を支援することで爵位と猫の額ほどの領地を賜ったのである。
祖父は勿論息子であった父親も、貴族たちから爵位を買った成り上がりと蔑まれ続けていたせいか、とにかく貴族社会での地位を確固とすることに全力を注いでいた。
(全力というのはつまり、家族も指示通りに動かそうっていうことなんだけど)
神経をとがらせた
もともと困窮した――だが“ちゃんとした”男爵家の血を引く娘を買うように結婚した間柄で情はなかったのだろう。
社交に仕事にと産後も構わず連れまわしたおかげで病床に臥した母親を、療養名目で厄介払いのように領地に送った。母親は起き上がることなくそのまま逝った。
ヘルミーナと弟のユリウスは、母親に着いて一時領地で暮らしていたことがある。
その頃は今よりもっと自由に――普通の貴族の女性と同程度には――自由時間も外出もできていて、母に刺繍を教えてもらったり、チェスなどのゲームをしたり、庭で植物を育てたり、森に遊びに行ったりもしていた。
この頃がツヴァイク家という囲いの内側で過ごす中で、一番幸せな時期だった。
ごくたまに訪ねてくる父親のことも良く知らなかったから、普通の小生意気な子供がするように、父親を諫めたり助言しないでもなかった。
しかし助言どころか願いも一度も聞き届けられたことはなく、母の死を期に王都に連れ戻されてからは、更に横暴になった父親に主従の関係だと叩きこまれた。
母親の代わりにツヴァイク家唯一の淑女たるべし、子供は家の財産で所有物である、が父親の価値観だった。
交わすのは命令と承諾、それだけの会話。
(……でも、そんなものも些末なもので、“設定”を埋めるだけに過ぎないものだったとしたら?
優しい母だったら、きっと私のこんな結婚を許さなかった。
冷たくなった母の手を握りながら、声を出さずに泣くことしか許されなかったあの日の自分が、老ボルマン伯爵に嫁ぐためだけに用意されたのだとしたら?)
この世界が『黒薔薇姫のシュトラーセ』というゲームの中の世界である――足元の床がぼろぼろと崩れ落ちていくような感覚に、気が付けばソファのクッションに背中を沈めていた。
知らないうちに息苦しく、動悸が激しい。首元のボタンを一つ外して息を整えていると、チョコレート色の扉がノックされてテレーゼの声がした。
「お茶をお持ちしました」
銀のトレイをサイドテーブルに置いた彼女は、ヘルミーナの姿にぎょっとしたように目を見張った。
「お加減が悪いのですか?」
「……少し休めば大丈夫。お茶は窓際にお願い。ゲオルク様は?」
「どなたにも引き止められずにお帰りになりました。
既に伯爵家の家紋の付いた馬車が到着されていたようですが……お嬢様、暖炉に火をお入れしましょうか」
「……ありがとう」
テレーゼが廊下のメイドを呼び止めて台所から火を借りてこさせた時には、窓際のテーブルセットにお茶が並べられ、ヘルミーナはようやく体を起こすことができた。
母親の形見である曲木の椅子の背もたれに背中を預け、ティーカップの紅茶にミルクをたっぷり注ぐ。来客用ではない家族用の普段使いの紅茶では、香りが殆どしないからだ。お茶請けの干したリンゴをかじると、程よい酸味と甘みが脳に栄養を送ってくれた。
――『黒薔薇姫のシュトラーセ』。
脳裏に浮かんだ言葉をもう一度思い起こす。
それは乙女系領地運営シミュレーション、ターン制ストラテジーとも呼ばれる形式のゲームのタイトルだった。
舞台は、とある大陸の北方にあるシュトラーセ王国。周辺国と同じく、シュトラーセもまた王に騎士が忠誠を誓うことで国のかたちが保たれていた。
主人公は黒薔薇姫と呼ばれる国王の一人娘。
国王崩御後の王国では王座を巡って内戦が起きかねなかったために、継承権を持つ者のうち、この一年間で最も優れた指導者と認められた者が王位を継ぐことになる。
黒薔薇姫は父王の理想を継ぐため、また継承者の褒美となって結婚させられないために自ら継承者争いに身を投じる――というストーリーだ。
(王女殿下は一度か二度、遠目にお見掛けしたことがあるくらいだけれど、ほぼ現実と同じね)
主人公とライバルたちには得意不得意があり、それぞれが領地の開発、化学や文明、宗教や商売の発展に精を出す。
主要操作画面の中央には、ヘクスマップという六角形の線で薄く区切られている地図が配され、自分や偵察に出た他の領主の領地では襲ってくる魔物を騎士ユニットで撃破したり、点在する特産物を開発したり、交易路を結んだりする。
そしてこのゲームの中心となるのが「シュトラーセ」……道と街路であり、ユニットの移動や交易、各領地の人や文化の移動に重要な役割を担っている。
ちなみに乙女系と銘打ってはいるが恋愛要素は薄めだった。
攻略対象は各領主や名前のあるユニットたち。自分の領地の発展度合い、相手の領地との文明や交易品のやりとり、魔物の撃破などで条件を満たすとイベントが発生する。
たまに選択肢もあるが、線ではなく点で発生するものの方が多いので、どのイベントをどのタイミングと順番で発生させるかはプレイヤーにゆだねられていた。
最終的には一年後に愛を告げる相手を選び、好感度が高く受け入れられればエンディングにスチルとテキストが追加される。
エンディング自体も複数の点から語られるもので、継承者争い、領地の発展、恋愛などそれぞれの結果が、それぞれエンディングののパートとして流されるというもの。
だからこそ繁栄したものの恋には惜しくも破れたとか、がけっぷちの領地で愛を誓う……など、様々なストーリーをプレイヤーが脳内で補完し描いたり、どの順番でイベントを発生させるのが好みか、なんて交流サイトでは盛り上がっていたように思う。
更に二週目は、ストーリーはないが全領主で遊べるフリーモードとして、様々なゲームの難易度設定を細かく弄れるので、恋愛目当てでない男性のゲーマーも呼び込んで、一部のシミュレーションゲームプレイヤーの支持を得ていたのだった。
――と。
この世界ではありえない単語や概念まで含めて今までになくはっきりと理解できたのは、この世界の根幹に関わることだからだろうか。
ヘルミーナは紅茶をのろのろ飲みながら、一気に流れ込んできた情報を咀嚼していった。
自分が創作物である、というのは愉快な発想ではない。
ヘルミーナにも心がある。
彼女と弟を産んだ母親のぬくもりも、父の仕打ちも覚えている。暖かな寝床も、腕の良いシェフが調理したのに砂をかむような味しかしない食卓を囲んだ覚えもある。
ただの架空の物語だなんて受け入れたくない。もし受け入れるのなら……記憶こそが創作物で肉体がある今が現実だと主張しても良いではないか。
(それなのに私は知っている。前世の彼女が見た、この世界の住民では理解しがたい物品も知識も)
「……お嬢様、本当にお顔の色が。何かございましたか」
顔を上げると心配げなテレーゼが思ったよりも近くに立っていた。
空になったティーカップに二杯目の紅茶を注ぐ、こぽぽぽという音が消えてから、ヘルミーナはゆるく首を振った。
(前世でも予知でもなんでもいい、私は破滅を知っている――なら、覚悟を決めよう)
記憶について話すわけにはいかないが、父親はもう自分を売るつもりでいる。だから彼女の協力を得るしかない。なるべく巻き込まない形で。
「次の嫁ぎ先が決まりそうで、お父様が荷物をまとめるように仰ったの。その方……ボルマン伯爵については何か知ってる? 何も知らなくて」
ヘルミーナはテレーゼに、なるべく普段の調子で話しかけた。
旧家や名家なら頭に入っているし、同年代なら顔を合わせる機会もあったかもしれないが、接点も噂を聞いた記憶もなかった。
使用人の間で悪評が立つようなことはないかと気にかかったが、テレーゼは否定した。
「ボルマン伯爵ですか……いいえ」
「確か南方で商売も営まれている方だったと思うの。ご高齢で60歳になるそうよ。後妻に相応しいか顔を見せに行かないといけないの」
前半はゲームの知識だから詳細は確認する必要があるにしても、やはり商売に携わっているツヴァイク家と婚姻すれば互いに利益になるのだろう。
「……左様ですか」
「テレーゼの雇い主はお父様で、私が嫁いだらその主はボルマン伯爵になるかもしれない。だから荷物がまとまり次第、
そのタイミングなら安全に出られるわ。今からここの下働きになりたいわけでもないでしょう」
「かしこまりました」
「ゲオルク様と結婚するなら、着いてきて欲しかったのだけどね」
ヘルミーナはもどかしさに指を組む。雑な書類仕事にも耐えてくれた綺麗な爪と指先も、密かに繕われた跡を感じさせないドレスもテレーゼのおかげだ。
貴族でなくなれば捨ててもいいようなそれは、それでも彼女を社交の噂話や父親の叱責から守ってくれた大事な盾のひとつだった。
「お伺いしてもよろしいですか」
「ええ」
「それは以前頼まれたお手紙に関わることでしょうか」
「……ごめんなさい、言えないわ。でも頼めるなら、私が出立するまでなるべく他のメイドを部屋に入れないで欲しいの」
ここまで言ったところで、本当に後戻りできないな、とヘルミーナは思う。
前々から懸念はあった。ゲオルクと破談になった後、誰に嫁ぐのか。もし相手が本当に耐えられない相手であれば、この家を密かに出て自活できないかと以前から考えていた。
だから婚約破棄の雰囲気が感じ取れるようになってから、テレーゼの休暇のついでに手紙を、乳母――もう辞めてしまったが、母方の縁者――に出してもらい、そこを起点にして働き口の候補を探していたのだった。何しろ家から出す手紙には父親とその息のかかった家令や家庭教師のチェックが入るのだ。
(この発想ができたのも前世の記憶のおかげかもね……)
幸か不幸か、前世の彼女は自立して労働していた女性だったようで、ほとんど家に閉じ込められていた彼女にない知識からの視点は勇気づけてくれた。
「……お嬢様、亡くなられた奥様には侍女になりたてのころから良くしていただきました。ですからもしお困りでしたら……」
普段は使用人らしく感情を表情に出さないテレーゼの目が伏せられた。
それをヘルミーネは軽く手を上げて制止し、行くあてと自由があることが伝わるように言葉を選んだ。
「心配しないで、きっとまた会えるわ」
いつの間にか動悸は収まっていた。
暖炉の火と暖かいミルクティーで体が温まると、少しずつ頭の中がはっきりしていくのを感じる。
一人で眠りお茶を飲めるこの部屋すらもあと数日で奪われてしまうことが悔しくて、それが決意を今までよりずっと固くする。
(いつ出て行けと言われるか分からないんだから、早く荷造りを済ませておかないと。それも私が自分で持っていくものは、誰にも見つからないように。
破滅への道は歩かない)
いつの間にか窓の外からオレンジ色が差し込んでいた。カーテンを手で分けて覗くと、暖色に染まる家々が見える。
平穏を取り戻したかに見えるシュトラーセ王国の屋根の下でまだどれほどの混乱が渦巻いているのかは定かではない。
けれど小さな窓の一つに暖かな灯りをともし、高価でなくとも好きな色のベッドカバーを掛けられるほどの自由は欲しいと思うのだった。
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