第2話 前世の記憶は破滅を予知する

「ヘルミーナ!」


 ヘルミーナの父親である男爵、ダミアン・ツヴァイクは、石材の床に靴音を鳴らしながらやって来た。

 家族に対して普段から威圧感をばらまいている彼だが、怒鳴り散らすのは相当腹に据えかねたことが起きた時だ。

 きつく撫でつけた、白いものが混じる赤銅色の髪はかき乱されたのか一部がほつれており、気難しそうな薄い眉の間に深い皺が寄っていた。

 ヘルミーナはダミアンの手に良質な紙がぐしゃりと握られていることに、ゲーゼ伯爵の使いが到着したことを察したが、おくびにも出さないように努めた。でなければ、ゲオルクをあっさり帰宅させたと何時間でも責められるだろう。


「いかがいたしましたか、お父様」


 ヘルミーナがこの家の「作法」通り礼を取ると、予想通りその頭に怒声が浴びせられた。


「お前は何も聞いていなかったのか!?」

「何かございましたか」

「ゲーゼ伯爵が一方的に婚約破棄を伝えてきた! さんざん待ってくれと何度も延期しておいて……どの面で!」

「……それは、また……」


 ヘルミーナは言葉に詰まったふりをした。

 この期に及んで何も知らされていなかったとまぬけ扱いされるだろうが、そちらの方が随分マシだ。


「はっ、婚約者のくせに蚊帳の外という訳だな! さっきまであいつが来ていたというのに何も聞いてない程度の……全く、あれだけドレスだの装飾品だだの金をかけさせておいて、男の一人も篭絡できない無能が!」


 家の中のものは何でも、調度品からはじまって娘の装飾品はおろか、食事、ピン一本に至るまで自分が「不本意だが与えてやった」と思っている父である。

 実態は最低限の体面を保てる程度のため、ヘルミーナや侍女のテレーゼが衣装のやりくりに苦労してきたことなど知らないだろう。

 そして事実の訂正をしても叱責を延長するだけだ。


「面目ございません。どうもゲオルク様とは会話が弾まず……」

「演技くらいできないのか、あの女の娘らしいな!」


 正式に迎えた妻を、ヘルミーナの亡き母親を侮辱され、彼女はさすがに唇をかんで悔しさをこらえた。頭を下げたままにくたびれたつま先を見つめてやり過ごそうとする。

 母の死も、情勢を見誤って婚約破棄を招いたのも父のせいではないかと喉まで出かかった言葉を飲み込む。


(絶対に反論してはいけない)


 ゲオルクとそこまで仲が悪くなかったなどと言っても、火に油を注ぐだけ。ましてやお金を貰ったなど、可能性すら想像させてはいけなかった。

 あのお金は自分の切り札になるかもしれない――何度折れそうになっても、ヘルミーナは心の底でまで父親に屈してはいなかった。


「……お前に無駄金を払うならユリウスの教師に金を積んでおくべきだったな。まさかあいつが留学などと言い出す日が来るとは……」

「ユリウスが留学ですか」


 5歳離れた弟の名前に、ヘルミーナは思わず顔を上げた。

 今年15歳になるユリウスはツヴァイク家たった一人の男子であり、後継者である。

 小さな頃はヘルミーナの後をついて回っていたのだが、彼女の婚約が決まり、またユリウスが幼児期を過ぎて嫡子としての教育を受けるようになってからは屋敷内の生活圏も離されてしまっていて、滅多に顔を合わせることはない。この前見かけたのももうひと月前になる。

 母親に似た線の細い優し気な雰囲気は変わっていなかったが、会うたびに表情が暗くなっていることが気にかかっていた。


「外国で商売を学ぶのも人脈作りにはなるが、外国語の教師を探さなければな。……言っておくが、口は挟むな。家を出るお前には関係ない」

「……はい」


 忌々し気な視線に見下ろされ、再度頭を下げる。


(家を出す、か……次の縁談はどうなるのだろう)


 貴族社会で苦労したのか、成り上がりと呼ばれることを何より嫌う父親は、どうしても“ちゃんとした”貴族と縁続きになりたいと思っている。

 負けた派閥の行き遅れを今更嫁がせることができるのは……どこかの後妻か評判の悪い放蕩者か。

 あと一か月くらいは身の振り方を考える時間があるかもしれないと考える彼女だが、展開は予想よりずっと早かった。


「そうだ。お前の方は、今夜にでも婚約の打診する」

「……今夜……ですか?」

「忌々しいがあれだけ延期されていたのだからな、こうなった時の嫁ぎ先の目星は付けてある」


(……だからって今夜?)


「私は婚約破棄されたばかりですから、次のことはまだ考えられそうにありません」

「お前の考えが何か関係あるのか」


 遠回りに抵抗してみたが、にべもない。


「お待ちください、爵位のある方がどなたでも良いのなら、お会いしてから決めても遅くは……」

「当主はわたしだ」


 別のことを考えているのか、父親はヘルミーナの顔をもう見てはいなかった。

 頭ではわかっていたけれど、やはりつらい。

 今までも、話せば意見を受け入れてくれるかもしれないとほんの少し期待をしてしまったときは、いつも裏切られてきた。

 腹の中に冷たいものが満ちていくのを感じながら、少しでも情報を得ようと彼女は平静を装いつつ質問を続けた。


「……どちらの方でしょうか」

「ボルマン伯爵。奥方を亡くしてから独り身だ」


 その声に、名に、ぞわりと肌が粟立った。

 会ったこともない、その人の名も初耳であるはずだったのに、確かに聞き覚えがあった。


「お齢は」

「60になるが、お前は選り好みできる立場ではあるまい」


 その名と年齢に、脳裏でぼんやりとモザイク画が浮かび上がる。

 モザイク模様の大きなタイルが徐々に細かいものに変わり、それは複数の場面を配置した一枚絵を描いた。

 中央にこの国の麦の穂そよぐ平原、そして若い男女の貴族やリュートを弾く吟遊詩人、旅人や労働者など市井の人々を描き、そして不正を行った老貴族の屋敷に騎士が踏み込む一場面もあった。


(「ボルマン伯爵ら、不正を働く貴族は裁きの場に引き出され、その地位を追われることとなった。かくしてシュトラーセは末永く栄え――」)


 ヘルミーナの持つ少し特殊な“事情”が頭の中で囁いて、ありもしないモノローグを呼び起こす。


(まただわ)


 強制的な記憶の喚起にヘルミーナは眉を寄せる。 

 胎児のときの記憶があるという子供がたまに見られるが、ヘルミーナのそれはもっと昔、前世ともいうべき別世界の記憶である。

 婚約者が決まり、母親が他界したちょうど10歳頃から、時折記憶が蘇ることがあった。


 それはここよりももっと文明が進んだ世界で暮らして事故死した女性のもので、彼女と一体化したというよりは、風景画や動く絵を見せられているようだった。

 そしてかつての自分だか誰だかが、時折囁くような気がした。話しかけられているというよりは、まるで口うるさい母親や祖母に厳しくしつけられた時の言葉がふとした時に思い出されるのに近い――と言えばいいのだろうか。

 そのせいでヘルミーナの考えは客観的、抑制的になりがちで、感情が薄く合理的な“出涸らし令嬢”であると言われる理由の一つでもあった。


 しかし、今回はじめて脳裏に描かれる画像はひどくはっきりしていて、そして長く、具体的だった。

 

(これは――ゲーム……という遊戯の世界? シミュレーションゲーム『黒薔薇姫のシュトラーセ』のエンディング。そして私は)


 思い出されるボルマン伯爵の老いた姿の側に後ろ姿だけ写る若い妻、自分と同じような背格好、その髪の色はまさしく今耳の前から軽く垂れているアッシュブラウンと同じ色だった。


(私は――このままでは、夫の不正に巻き込まれて没落する……!)


 ヘルミーナの息が詰まる。

 それは予知の類だった。未知の光景のはずなのに必ずこうなるという確信が彼女の中にある。


 もちろん理性で考えれば、結婚したばかりの後妻が共に罰せられるとは限らない。

 しかしそれも夫の保護や証言次第。不正に手を染め、後妻を欲しがる夫が彼女の身の保証をすると信じるなど分の悪い賭けだった。


「ヘルミーナ、何を呆けている!?」


 怒声にはっとして瞬くと、怒りに満ちた瞳に見下ろされていた。


「上手くいくようなら、数日中にお前にはあちらの領地で顔合わせをしてもらう。荷物をまとめておけ」


 言いたいことを言ってしまうと、父親は後を追ってきた家令に指示を出しつつ執務室に向けて足音を立てて去っていく。


 ヘルミーナは悟った。

 顔合わせと言いつつ、そのままボルマン伯爵に娘を押し付けて結婚させるつもりに違いないのだ、と。

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