第38話 たとえ灰まみれの道でも
寝室へ運ばれたウィルヘルムは、すぐに医師の診察を受けた。気を失った原因は高熱と疲労とのことで、よくよく安静にさせるようにとヘルミーナや使用人は言い含められる。
クラッセンは館の指揮を代わって取り、ラーレはキッチンと下働きの女性に指示を出して城館にある薬やリネン、体に優しい食事などをウィルヘルムや避難民に提供するのに忙しかった。
ヘルミーナはと言えば、護衛の手間を減らすためと病状が心配で枕元にずっと座っていた。
扉の外には騎士が立ち護衛してくれているからここは安全だろうが――本当にずっと、だった。熱を出したウィルヘルムに、迎えに来させてしまったからだ。ゾフィーが時折交替を申し出てくれなければ食事も忘れていただろう。
小さな部屋の中にいると外界と切り離されたようで、ウィルヘルムの苦しそうな寝息と布の擦れる音がやたら耳についた。
看病の経験があって不幸中の幸いだったとヘルミーナは思う。医師や院長の話していた通り高熱はやがて下がるだろうし、するべきことが分かっていれば少なくとも悪化させることはない。
ただ、苦痛を減らしてあげることもできない。氷があれば血管をもっと冷やせるのにと思うが、窓から眺めてもフェルベルクの山々の積雪はさほど多くなく、ほとんど消えてしまっている。
井戸水が冷たいことだけが多少の慰めだ。
もっと早く会えていたら、氷室を作っておくことができただろうか。
こんな風に毎年の春を過ごしていたということを目の当たりにすれば、もっと以前から自分にできることはなかったのかと思ってしまう。
そうして頭に乗せる布を絞って替えているうちにも時間は経ち、報告は次々に寄せられた。
初めはゾフィーから、騎士団の皆も村人も無事だったというものだった。
次にウィルヘルムがうっすら意識を取り戻して間もなく、魔物の掃討が程なく完了したという報告があり、そしてその日の昼過ぎ、ギルマンを捕らえたという報告も上がった。
そして捕らえ損ねた父親・ツヴァイク男爵が山へ入ったらしいという情報も。
「……山に入るにはいい時間ではありませんね。天気も曇り空ですし」
ウィルヘルムに院長から貰って来た薬を渡すことができたのは、その後のことだった。
上半身を起こすのを手伝い、水で薬を飲み込む様子を見届けてほっと一息つくと、小さく扉がノックされた。
宜しいですか、とのテオフィルの声に応えれば薄い書類の束を手にテオフィルが入ってくる。
気遣わしげにベッドを見やると、遠慮がちに書類を書き物机に置いた。手が届かない位置ということは、後回しで良いという意思表示だろう。
「魔物の件は片付きました。人的被害もなく、いくつか柵が壊され家畜が一頭死にましたが……全体としては被害はごく軽微です」
「怪我人の手当てを優先に、もし戸などが壊れて不安な住民がいたら避難を続けさせるか修理をお願いします。それから騎士団の夕食には肉を増やしておいてください」
「どちらももう命じました。……それよりツヴァイク男爵ですが」
その名に、部屋にぴりりと緊張が走る。
「使用人二名と山に入ったようです。街で案内人を雇おうとしたようですが、高額な金を積まれても、誰も怪しげな余所者の案内は引き受けませんでした」
「それで」
「……不穏な雰囲気が感じられましたので村にロープウェーで報せを出し、巡回の騎士団の他に山村出身者で捜索隊を結成しました」
「ご苦労様でした」
「私はいいのでひとまずお休みください。一晩ぐっすり。……起きようなんてしないでいいですから。今すぐ」
テオフィルはウィルヘルムに注意すると、布団に倒れこむようにするウィルヘルムを見届ける。
視線で謝罪する彼に、気にすることはないと視線で返したヘルミーナは汗をそっと拭き、額の布を交換する。やがて限界が来たのか、静かな寝息をたて始めたことに安心して肩の力を抜けば、
「この人はこんな感じなので、奥様がきつく言ってやってください、と言いたいところですが――別の人間に交代するので奥様もお休みになってください。着替えもさせますし。
あんなことがあったでしょう、恐怖というのは後から緊張が解けた時に」
「……テオフィルさん、捜索の指揮はクラッセンさんが?」
私の言ったことを聞いていませんね、とテオフィルは顔をしかめた。嫌な予感がするのだろうがそれは多分、当たっているとヘルミーナは思う。
「いえ。こちらは私が山に行きます」
「私も連れて行っていただけませんか」
――こんな時に父ならどうするだろう、とヘルミーナは想像する。
王都での動きは、あの事務官から父親に伝わっていてもおかしくない。
フェルベルクが王都に販路を広げようとするツヴァイク家との競合品は、フェルベルクの野と山から採れるものだ。野山は移動することもできないし、強盗でもしなければ盗みもできない。爵位でも劣っていて、今まで取引がある商店以外には圧力もかけにくいだろう。
ある程度事実である瘴気の悪評を立てることも考えられたが、女王陛下の訪問を知れば表立って広めることはしにくい――しかも反女王派閥であることは周知なのだ。分が悪い。
それらは全て、家に恥をかかせた、憎き、思い通りにならない娘が手に入れているもの。
手に入らないなら? 壊す? 木を伐る? そんなことよりもっと簡単で効果的な方法があるなら……。
「……燃やすつもりかもしれない……?」
自分で口にしてみてぞっとする。
山火事になればただでは済まない。
燃やすという言葉を聞いたテオフィルは、ぎょっとしたような顔をした。
「駄目です、ここにいてください」
「父は自暴自棄になれば何をするか分かりませんが、私なら知ることができるかもしれません。私が行けば、注意は私に向きますし……」
「それならば猶更連れて行く訳には参りません。ご理解ください。ウィルヘルム様なら許さないでしょう。ですので私も許すわけにはいきません」
「……私は」
ヘルミーナが声に、瞳に決意を込めてテオフィルを見れば彼は視線を僅かに逸らす。
「私は、父から逃げてきました。そうするしかなかったから、後悔していません。けれどここにいてずっとウィルヘルム様に守られるだけでした」
「ピケアの伐採に関しては奥様のおかげですし、陛下に認められた切っ掛けも奥様の発想だと伺っています」
「それでも。今守られているばかりで、ウィルヘルム様やゾフィーが傷つき、騎士やブラウの人たちをただ危険に晒すのをただ見ているだけなど」
「奥様がどうやって解決できるのです? 護衛といっても完璧にはいきません、危険が増えるのはご承知でしょう」
テオフィルの反論は事実で、そこに嘲るような色はない。むしろウィルヘルムとフェルベルクをずっと優先してきた彼が、彼女個人を心配しているような声音でさえあった。
「交渉です」
「あんな奴らに交渉の余地など……」
「交渉は、させるものです」
ヘルミーナの普段は遠慮がちになる両眼が強い光を帯びる。
テオフィルは自分の主君たる夫婦が無謀な賭けをする質ではないとよく知っていた。
「……勝算がおありですか」
「正直分かりません、ですが負けはしません。こちらは大人数でしょう、少なくとも交渉が決裂したら牢に入れてしまうことができるので」
これは交渉からの逃げではなく、この事実が相手にとってプレッシャーになるという意味だ。
「相手に自分は最悪を逃れて上手くやったと思わせなければ恨みが残るでしょう。フェルベルクという土地は動けないのですから、そちらの方が厄介です」
「ずいぶんと甘いですが……似たもの夫婦ってことですかね」
はあ、と息を吐いたテオフィルは頷く。
「今回の一度だけです。言っておきますが、奥様に命の危険があればお父上であろうと容赦なく斬り捨てます」
「ありがとうございます」
頭を下げ、ウィルヘルムの額にはりつく髪にそっと触れてから、早速ヘルミーナは登山の用意をしに自室に戻った。
窓際で待っていたフィーダを腕に乗せると、湿り気を帯びた風が土の匂いを運んでくる。
強く吹き始めた風が空に、屋根に、中庭に、道に灰色の瘴気を運んでくる。
灰色のベールの向こう、空にもまた薄く灰色の雲がかかりつつあった。
近い内に、雨が来る。
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