第37話 呪詛
アロイスは軍馬の上に身を躍らせると、素早く周囲を伺った。その目つきは普段の暢気そうな気安いものではなく騎士としてのもので、ヘルミーナは常ならぬ雰囲気に焦燥を感じ始めていた。
「馬車には追い付けないと思います。私はいいですから、お二人は早く応援と民の避難に回ってください」
ヘルミーナが馬車の扉を開けながら言えば、首を振られる。
「奥様を危険にさらすわけには参りません」
アロイスはヘルミーナが馬車に乗り込んだことを確認して、馬の腹を蹴って先行した。馬車を挟んでエメリヒが慣れたように後方に続く。
馬車の中では迎えに来てくれたゾフィーが緊張した面持ちで座っていた。ブラウに住む彼女の家族のことも心配だろうし、騎士の家系だと聞いているから、父親も男兄弟も有事に駆り出されているだろう。
「ゾフィー、大丈夫よ、きっと」
「……はい、いつものことだとは思いますが……」
ヘルミーナはゾフィーの手に自身の手を一度重ねると、御者を急がせて館に戻る。
普段使っている堀と跳ね橋のある山側ではなく、街側に面した小さな門に近づくとアロイスが声を張り上げる。門衛が開けると同時に馬車が中庭に滑り込んだ。
馬車からヘルミーナたちが降りると、おかっぱ頭の騎士見習いの少年――マティスといった――が駆けてくる。
「奥様も、皆さまもご無事で良かったです!」
「状況は?」
「今、城内に騎士は殆どおりません。僕たちは警備と避難民をホールへ誘導しています。敵は多くないようですが、家畜の群れを襲ったので混乱が……」
「ちっ、柵を破られたか。あれを追って人が出てたら厄介だ」
アロイスが舌打ちする。
伐採に伴って山の見回りなどの仕事が増えたことにより、もともと少ないフェルベルク領が直接抱える騎士のうち、ブラウの騎士はさらに少なくなっている。これも安全と税収――騎士と馬と武具を養うのには非常にお金がかかる――のバランスを取りながらのことだ。
領民だって好きで出ているわけではない。家畜を放置してしまえば財産が損なわれるし、興奮した牛が人や建物に危害を加えないとも限らない。混乱を収めようとしているのだろう。
「ウィルヘルム様の側に騎士が控えているはずですから、私はそちらに向かいます。お二人とも村へ、どうかお願いします」
「しかしそこまでに何かあったら……」
アロイスと、顔をしかめているエメリヒに向けてヘルミーナは首を振った。ゲームでの知識に過ぎないが、戦力の逐次投入は悪手だと知っている。二人の安全のためにもなるべく固まって行動して欲しかった。
「かしこまりました」
二人がそれぞれ礼をするのももどかしく、ヘルミーナは再び門が開いて彼らが馬で駆けていく後ろ姿を歩きながら振り返る。
「ご案内します」
マティスは、先に立って案内してくれる。
すぐそばの詰所を通り過ぎると、他にも騎士見習いの少年や鍛冶師などが忙しそうに動き回っていた。
外を見たいと言って側の階段から城壁に一度上がる。
平和だったブラウの村の、砂利敷きの道を疾走する二頭の軍馬が見えた。後方を走る馬上からエメリヒが
普段から仲が良いとは思っていたが、息がぴったり合っている。
「……奥様、お早く」
急かすゾフィーに頷いて階段を降り館に入る。中では村人が数人避難して所在なげに座っていた。ここまででいいとマティスを帰し、ウィルヘルムの部屋へ続く廊下をしばらく小走りに歩いていた時、
「奥様……あっ」
ゾフィーの体が視界から外れたのに気付き、ヘルミーナは振り返った。彼女の腕が視界の端で背後から何者かに引っ張られ、引き倒されそうになっている。
慌てて反対の手を引こうとして顔を上げれば、そこにいたのは城内にいるはずのない男――ツヴァイク男爵家の家令・ギルマンだった。
館のお仕着せではなく村人のような旅装姿に思わず見返してしまう。
(混乱に乗じて入り込んだの……?)
父親の秘書でありその意思を絶対として家中に浸透させる男。それ故に使用人であっても、ヘルミーナは一度も本気で逆らったことがないし感情を見せたこともない。
体に染みついた恐れが頭をもたげるが、ここでのヘルミーナは女主人だと思い出す。
ゾフィーの腕を後ろ手に捻り上げて体を密着させるギルマンに向けて、声を振り絞る。誰かが通りがかって、気付いてくれるかもしれない。
「侍女を離してください!」
ギルマンは声など聞こえていないように腰から細いナイフを抜くと、その刃をゾフィーの頬の近くで遊ばせた。
「ギルマン、あなたどういうつもりで……伯爵家に先触れもなく」
先触れは、慣習や礼儀であって法ではない。おまけにしていることは犯罪なのだから、そんなことは彼も百も承知だろう。
予想通り、感情のこもっていない視線と抑揚のない声が返ってくる。
質問には答えてもらえない。ツヴァイク家にいた時と同じだ。
「ヘルミーナお嬢様、お屋敷にお戻りください」
「私はもうツヴァイクの人間ではありません。父にはどうか諦めるように伝えてください……やめて」
ギルマンは無言で細い刃をゾフィーの頬に当てようとし、ヘルミーナは奥歯を噛んだ。
貴族の令嬢ではなく武を良しとする気風の騎士の家の娘とはいえ、ゾフィーは未婚だ。本人の体と心の傷だけでなく……そのせいで、自分のせいで将来を台無しにしてしまうなど耐えられない。
「……分かりました」
ウィルヘルムやテオフィル、護衛の騎士たちの顔が脳裏に浮かんだが、それはナイフの輝きに霧散してしまう。
ヘルミーナは細く息を吐くとギルマンに向かって歩み出す。
(諦めたわけじゃない。城内なのだから、きっと助けてもらえる)
「おやめください、奥様!」
「大丈夫よ、ゾフィー」
ヘルミーナは出来るだけ時間を稼ごうとゆっくりと歩く。そのどこかのタイミングでゾフィーを離してくれるかと思ったが、この狡猾な家令は最後まで手札を放すつもりはないらしい。
彼の手が届く位置、最後の一歩を踏み出した途端にヘルミーナの右腕がぐいと引かれた――と、その時。
もう片方の腕を下に引っ張られて腰が落ちる。
解放されたゾフィーだった。長いスカートの中からナイフを引き抜いた彼女がヘルミーナを庇うように床に倒してギルマンの手首を柄で打ち付けると、手が離れた。
二人の間に躍り出た彼女はそのままナイフを構える。付け焼刃ではなくきちんと訓練を受けたもののそれであることはヘルミーナにも見て取れた。
そう言えば以前雑談の中で、小さい頃は兄の真似事をしていたと聞いたことがあった。
騎士の娘である彼女を侍女にしたのは、ウィルヘルムが万が一のことを考えてのことだったのだろう。
そう頭では理解できるものの、武器のリーチに差はなく老いてなお筋力ではギルマンの方が上だろう。
何より、彼女が着ているのは鎧でも何でもない。一撃が致命傷になるかもしれなかった。
「ゾフィーやめて――誰か!」
「やっとフェルベルクが前に進み始めたのです」
じり、と近づくギルマンが踏み込んで振りかぶった一撃を彼女はナイフで払い、さらに下がる。
目の前に近づくゾフィーの背中に、このままでは自分は邪魔になるだけだと片手を石の床について立ち上がろうとした時、ヘルミーナはもう片方の手を取られた。
――熱くて、覚えのある手。
「……あ」
「妻を離していただきましょう」
ヘルミーナを優しく引き上げた腕の主――ウィルヘルムは手をそっと離すと、荒い息遣いの下、鞘から長剣を引き抜いた。
艶やかな黒髪を濡らし額から頬を伝って首筋に流れる汗。胸元の開いたチュニックが濡れている。
剣先がギルマンに突き付けられたがそれが揺れていることも相まって、具合が悪いことは一目瞭然だった。
「は、妻ではございませんでしょう」
「……妻です」
ウィルヘルムがゾフィーに横目で合図をすれば、彼女はヘルミーナを連れて背後へ下がる。
ギルマンのナイフより彼の剣の方が圧倒的にリーチが長い。城内での戦闘も想定されているのか廊下は槍は無理にしろ、長剣くらいは振り回せる幅があった。
ギルマンは、ヘルミーナからは見えないウィルヘルムの両眼を怖じたように後ずさった。
彼の表情が狼狽えていたのを、ヘルミーナは初めて見た。あれだけ表情を崩さない男だったのに。
「……殺す気ですか」
「村人と偽って侵入し、伯爵夫人を攫おうとした人間が斬り捨てられても誰も文句は言わないでしょう」
ウィルヘルムの声は凪いでいた。けれどそこにヘルミーナが初めて聞く底冷えしそうな響きがどこかにある。
彼は一度言葉を切り、
「……が、そこまでする必要はありません。領主として、足の腱を一本でも切った労働者がどのような不遇に置かれるかはよく分かっています。
嫌なら主人に伝えなさい、今回のことは必ず裁判にかけると」
その横顔を見ながら、ヘルミーナはギルマンの口元が弧を描いたのを見過ごさなかった。
「……お父様がいらしているの!?」
それは直感だった。
彼女の問いにしかしギルマンは答えず、ウィルヘルムに顔を向ける。
「そちらこそ覚えておいでください」
「記憶力はいい方なので。まして妻を害そうとした男の顔など忘れようにも忘れられません」
「……お嬢様、男爵からの伝言です。子供は親の許可なしに結婚などできないと」
すいっと剣先を鼻先に突き付けられたギルマンはやっとヘルミーナに向けて伝言を言い放つと、踵を返して走り出す。
廊下の先にその姿が見えなくなってから、ウィルヘルムは振り返って困ったような笑みを浮かべた。安心させるように、時々ヘルミーナに向ける柔らかな声が戻ってきた。
「大丈夫です、逃がしたわけではありません。声が聞こえたので、護衛の騎士を反対側に待たせました。首謀者と接触してから掴まえます。
……本当に、あなたには怖い思いをさせてしまいました……」
言いかけた側からウィルヘルムは膝から床に崩れ落ちた。剣が床に跳ね、廊下に固い金属音が反響する。
「ウィルヘルム様!」
慌てて駆け寄り肩に手を添えると、ゾフィーも転がった剣を鞘に納めてから、両側からウィルヘルムを支える。
ゆっくりと立ち上がらせれば吐く息が熱くて荒い。
「大丈夫です。……ゾフィーにも感謝します。後でゆっくり休暇とお礼を……」
言葉が緩慢になったかと思うと、ふいにウィルヘルムは目を閉じ、がくんと体が落ちた。体重が一気にかかる。
「ウィルヘルム様……っ」
ヘルミーナは叫びをかみ殺し、冷静になれと自分に呼びかける。
「床に寝かせましょう。ゾフィーは助けを呼びに行ってもらえる?」
「……は、はい!」
助けを呼びに走るゾフィーを見送りながら、ヘルミーナはウィルヘルムの頭を膝に乗せる。じっとりと湿った汗がスカートに染みていく。
彼の剣の柄を引き寄せれば、想像よりずっと固くて重い質量を手のひらに感じた。
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