第36話 フェルベルクの山

 ブラウに戻ってきてから一週間ほど、どこからの横やりも入らない日々が過ぎた。

 だからといって平穏続きだったわけではない。諸々の確認のために頻繁に山に登り、伐採のための調査と指揮の傍ら、土砂崩れの跡を見に行ったからだ。


「……この辺りでしたね」


 ウィルヘルムの両親が死亡したリュッケン山の事故現場周辺は、記録によれば過去にも地滑りがあった場所だった。

 特別慎重に現地調査が行われ、原因が大よそ特定され安全が確認された上で、やっと今、近づけるようになった。

 ヘルミーナの目の前には、森が切り取られ、スプーンを入れたアイスクリームの断面のような不自然な茶色い斜面が広がっている。

 耳を澄ませば今にも石の落ちる音が、そして地滑りの轟音が響いてきそうな光景だった。

 どこからどうやってきたのかも分からない大岩が、石がごろごろと転がっており、根っこが付いていたりへし折れたりしている大木が横たわる。それを押し流しただろう土と泥の勢いは凄まじいものだったろう。


 先程行った前伯爵夫妻と御者の墓参り。墓の下にきちんと体が埋められているということ、馬車の上に土砂が覆い被さらなかったことが奇跡のようにすら思えた。

 当時は助けに降りれば、山道に戻ることも大変だったに違いない。


「…………」


 事故現場に手向けた花は、庭師に聞いた子供の頃のウィルヘルムが好きだったというデルフィニウム。

 両親に摘んで渡せば喜んでくれたことを思い出すのが少し辛くて、避けがちだったのだと教えてくれた。

 手を合わせてから瞼を開けば、大木と土の上のあちらこちらから細い枝葉が生え、空を目指している様子が目に入る。

 山は恐ろしい。けれど、たくましい。

 その山と共に生きていくのだ、ずっと。フェルベルクは。


 ぎゅっと指を握り締めると、肩の上でブラウノスリのフィーダが身を固くした。

 ……緊張が伝わったのかもしれない。

 胸の下のふわふわしたところを撫でてあげると喉を鳴らすような小さな声で応えてくれる。

 ウィルヘルムもまた長い間祈りを捧げるように目を瞑っていたが、覚悟したように目を開く。


「山を手入れして健全に保つことしか人間にはできませんが。今まで怠ってきた分、頑張りましょう」

「……はい」


 ウィルヘルムも、山で安全に作業できるように心を配ってきた。

 山で暮らす人々と山村出身の騎士を中心とした部隊を編成し――鎧をはじめとした衣服の改良や装備の支給、登山と作業ルートの策定、看板や印の設置、各種地図・地形図、川から木材を流すときの合図の鐘など、とにかく思いつくことはなんでも。ヘルミーナも、資料集めと整理の手助けをした。

 彼は自分で現地になるべく足を運び、行けない場合には意見を聞き、最初から却下せずによく検討してから予算を割り振る。

 ヘルミーナは無理だとか無駄だという言葉を彼が口にしたのを聞いたことがない。


 ヘルミーナもウィルヘルムについて、なるべく山に登った。

 登山計画書の普及に努め、知ったルートであれば村まで辿り着く時間も安定してきた。

 村人からは色々なことを見せてもらった。ピケアに斧を入れるコツ、川の水流を使った、水車を動力にした大きな刃が材木を切る姿。川に材木を流し、場所によっては堰にためた水を一気に開放して下流に流す方法も。


 伐られた樹は立ち枯れているからそのまま薪になるものも、放置されて乾かされるものもある。いつもより面積を広げて作付けされた砂糖大根ビートが秋に収穫されるまでには十分確保できるだろう。


 彼女は時折フィーダを空に舞わせて魔物に警戒しながら道を歩く。

 樹の太い枝に時折ぶら下がっている鮮やかな紐による標識は分かりやすいと好評だったので、現在増やしているところだ。

 たまに見たことのない色の組み合わせで編み込んであるものだけは、標識ではなくラーナ村の暗号だ。色と結び目をどう組み合わせるかで伝言板のようにしているのだという。

 合図ならほら貝や太鼓という手段もあるが、入り組んだ場所、沢などには響いて現在地が分かりにくくなりがちなのと魔物をおびき寄せてしまうから、常には使わないということらしい。


 そして伐採途中に村民に見付けられた色褪せてしまった暗号のひとつ、地盤の緩さを表す印の先に、あの探していた崩れがあった。

 斜面から覗いていたものは人間ではありえない頭蓋骨と骨格の骨らしきもので、周囲に黒が広がり、そこに灰穴虫がたかっていた。

 ウィルヘルムは、ここに川の水を引いて浄化しながら時機を見て埋め立てようという計画を立てたばかりだ。


「かつてゲルトラウデという薬草に詳しい女性が、この地で人々を癒した。彼女は山に沸く泉とその力を得た草花に瘴気の浄化を早める力があることを発見し、より一層人々を癒すことに注力し、やがて人々は、修道女となった彼女を聖人として祀った……」


 ヘルミーナがお花畑であの夜見つけた流れは、湧き水から流れ出たものだった。このような泉が山にはいくつかあり、それらは瘴気を少しずつ浄化する力があることが確認された。

 おそらく聖ゲルトラウデは知っていたに違いない。

 ラーナ村の近くにもその泉があった。村人は泉の水を飲用し、また彼女が側に植えたコリスの木やハーブを伝統的な食材として利用してきた。

 奇しくもコリスは村で魔除けのお守りとしても使われており、また枝は古くは地下水脈や鉱山を見つける占いにも使用されていたという。

 ウィルヘルムの見立てでは、村人は常飲・常食することで瘴気の浄化と体外への排出が促されて瘴気症が発症しない程度に治まっているのでは、ということだった。

 ピケアも、ピケア自身が瘴気を花粉と共に排出するための方法だったのだろう。


 ――もしかしたら、泉の力を知った当時の領主がここに城塞を作り、ブラウ湖の側にあるのに湖の館でなく泉の館クヴェレと名付けたのかもしれませんね。


 あの日の夜にウィルヘルムに告げた推測は多分正しい。

 戦いで作られた大量の死体の山をその場で焼くわけにはいかず埋めて、長い時間の浄化を期待している中で土砂崩れが起こり、死体が露出したことによって虫が媒介したのだろう。


 そんなことを考えながら山道を降りて、もうすぐ森を抜けて館に着くという時、バサバサと羽ばたく音がしてウィルヘルムの腕に留まっていたノスリのグリートが頭上に飛び上がった。

 はっとして横を見れば彼の腕がだらりと下がり、傾ぐ体をヘルミーナは慌てて抱き留めようとする。

 一見すれば細身のウィルヘルムは鍛えているように見えないが、普段から山を登っているだけあって程よく筋肉がついている。その重さでブーツが土に沈む。


(……熱い)


 熱した鍋を触った時のような感覚がして、今まで何で気付かなかったのだろうと奥歯を噛んだ。思い返せば先ほど休んだ時に疲労が見えた気がする。尋ねればいつも大丈夫というから踏み込まなかったことが悔やまれる。


「奥様、こちらに」


 テオフィルがすかさず脇の下から体重を引き取ろうとして目を開く。

 連日の無理がたたったのか、ウィルヘルムの体は明らかに高熱を出していた。こんな状態で山に登ろうなんて無謀はしない人だから、おそらく朝の時点では体調に問題なかったのだろう。


「俺が馬を連れてくる。エメリヒは伯爵様を頼む!」

「了解した」


 同行していたアロイスが察して、エメリヒに告げてすぐさま走り出す。

 エメリヒはテオフィルと共にぐったりとしたウィルヘルムの体を草地に横たえると、胸元のボタンを外しながら体調を確認する。

 うめいた後にウィルヘルムはうっすらと目を開けた。


「……済みません、どうやら疲れていたみたいです」

「謝られることなんて、何もありません。転倒しなくて本当に良かったです」


 ヘルミーナは意識があることにほっとしながら、側にうずくまって背中を支えた。予備の水袋を使って布を浸し、汗が浮かぶ首筋を一瞬だけためらった後に拭う。


 手当をしているうちに馬に乗ったアロイスが山道を駆けて戻ってくる。

 ヘルミーナは息を吸うと指示を出した。


「アロイスはテオフィルとグリートと一緒にウィルヘルム様を館までお願いします。私はエメリヒとこのまま修道院に行って薬を頂いてきます」

「かしこまりました」


 ヘルミーナは羊皮紙を裂くと一言書きつけ、フィーダの足に付けた書簡入れに押し込んだ。木々の間に見える教会の尖塔をフィーダに見えるよう指さし、思い切り腕を振るう。

 フィーダが勢いに乗って一直線に飛んでいく先を眺めてから、ヘルミーナは逸る心のまま山道を急いだ。




 ヘルミーナとエメリヒが修道院に着くと、修道女に肉を貰っていたフィーダがこちらを見て鳴いたところだった。

 彼女を門のところでエメリヒに任せ、ヘルミーナが案内されたのは庭にある調合室のひとつだ。

 古いテーブルの上に種々の薬草やガーゼや秤などの器具が並んでおり、修道院長がちょうど乳鉢の上の薬を練っていたところだった。


「もうすぐ出来上がるからそこにかけていてちょうだい」


 院長は手で軽く隅のスツールを示すが、ヘルミーナは座っている時間も惜しく、また必要以上に登山着で汚しそうで立ったままにする。


「突然なのにありがとうございます」

「ウィルヘルム様のお薬は以前から作ってきたから慣れています……ふふ、寿命が伸びそう」


 穏やかに微笑むので何かと疑問を顔に浮かべれば、院長は言葉を重ねた。


「まさか道で拾ったあなたがウィルヘルム様の奥様になるなんてね……。聖ゲルトラウデのことも、何とかなりそうで良かったわ」

「祭壇にある像はいかがされますか。修道院に置けないのでしたら博物館を造ろうと思っているのですが。ブラウの文化とか歴史、科学と一緒に展示をしておけば残りますし、他の領の方にも見てもらえると思えると思います。聖人、として祀れなくとも、偉大な修道女であったことは残ります」

「……そうねえ、それがいいかしらね……はい、できたわ」


 修道院長は調合した薬を丸めると、油紙に包み、布の袋に入れて紐を引き絞った。それから隣の軟膏の入った瓶と共に手渡した。


「熱さましに痛みと咳を緩和する薬を混ぜてあります。こちらは食前に三粒三日分、この塗り薬は息が辛くなった時に、でも一度塗ったら次に使うのは4時間ほど置いてください」

「ありがとうございます……あと、あの、息がつらくなったことは今までにも?」


 花粉症でアナフィラキシーを起こした例をヘルミーナは知らない。勿論知らないところで起きていてもおかしくはないのだが、それで瘴気症も酷くならないものだと――無理はしないだろうし、テオフィルもいるからと油断していたのだと思う。


「たまにね。……大丈夫、ウィルヘルム様はこの時期決まって高熱を出すの。でもいつも一日か二日休めばすっかり良くなっているそうだから」

「対策をしていたつもりだったのですが、お仕事をさせ過ぎてしまいました」

「領主様だから仕方ないわ。小さい頃からずっと頑張ってきたから、力の抜き方が分からないのね」

「お薬、ありがとうございました。今度は私も作れるように練習したいです」


 頭を下げ礼を言って扉を開けると、緊張した面持ちのエメリヒがフィーダを肩に乗せたまま、息を切らして走ってきた。普段冷静な彼が切迫した様子だったことで、ウィルヘルムに何かあったのかとぞっとする。

 が、報告は意外なものだった。


「奥様、早急に迎えの馬車で泉の館クヴェレにお戻りください。山から魔物が降りてきました」

「……!」


 山に魔物が住んでいることは知っている。人によって追いやられ、更に今はフェルベルクで開発をしているからだろうか、山で魔物の動きが活発化しているとは聞いていた。

 魔物とて住んでいた場所を逃げ出すなり、人を避けるなりしても鉢合わせることはあるだろう。


「騎士団が街で対処しております。泉の館の街側の門を開けていますので、そちらからお早く」

「分かりました――院長様、また後日お話を聞かせてください。……エメリヒ、こちらにも騎士を割けますか?」

「ここは塀がありますから他の場所に人を割いてあげて」


 奥から院長が早口で応える。


「分かりました。すぐ出ます。門はしっかり閉めてくださいね」


 ヘルミーナはそう言って修道院の敷地内を駆ける。門を抜けると伝令を持ってきたであろうアロイスが馬上で待っていた。館で着替えたのだろう、鎖帷子チェインメイルの上から板金鎧を身に着けている。


「奥様、馬車へお早く」

「あの、魔物とは何の?」

「現在確認されているのがコボルド10体とゴブリンが5体程です。いつもなら苦戦する相手じゃあありませんが念のためです」


 コボルドもゴブリンも魔物としては強くはない。しかしゴブリンは社会性がより高く、知能が高い個体もいると聞いている。

 泉の館の、それから頭上で教会の鐘ががらんがらんと常ならぬ音を発している。続いて街の時計塔の鐘の音が反響し、ブラウの上空で絡み合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る