第35話 夜に響く
時計はまだ夜の9時を回ったところだった。
ウィルヘルムにお茶でも、と誘われればヘルミーナは頷くしかない。
断ったところで昼間の緊張が残るせいか寝付けなかったから、ぼんやりすることしかできない。
「……伺います。ゾフィーは先に寝ていてもいいわ」
「それでは鍵が開けられませんよ。先に仕事を片付けてしまいますから、どうぞごゆっくり」
にっこり笑うゾフィーだったが、ヘルミーナが鞄に仕舞う前のサンプルを幾つか取り上げるとちょっと微妙な表情になる。
「お仕事の話をするなと申し上げませんが、少しにしてくださいね……」
「ごめんなさい……気にしておくわ」
着替えるか迷ったがお湯を使った後だからとそのまま廊下に出る。全身を覆うようにガウンを羽織っているとはいえ、寝間着で廊下に出るのは気恥ずかしかった。これが生粋のお姫様なら使用人も騎士も家具のような扱いなのだろうが。
アロイスとエメリヒをちらりと見ると、わざと大げさに顔を背けてくれているのが見えて、くすりと笑ってしまう。
「どうされました?」
「いえ、何でも」
足を踏み入れたウィルヘルムの部屋のつくりは、隣と同じに見えた。春の気温はブラウよりだいぶ暖かいので暖炉も静まったままで、いくつか置かれたオレンジ色のランプが部屋を明るく照らしている。
丸いテーブルを挟んで椅子が二客、中央に白い陶器のポットが用意されていた。
その側にヘルミーナは手の中の瓶を並べる。これは砂糖や砂糖を煮詰めたシロップに、ラベンダーや薔薇、ハーブを入れたもの。
ラベンダーティーは安眠の効果があると言われているし、薔薇は香りが良い。喉の痛みに良いハーブもある。
ウィルヘルムがポットからカップに注いでくれた琥珀色をひとくち、ふたくち楽しんでから、甘いシロップを垂らすと花の香りがほんのり広がる。
「……いい香りですね」
ウィルヘルムはマスクを外し、くん、と香りを嗅いだ。忌憚のない素の表情だ。
「ええ。きっと売れます。修道院のお勧めで……利点はコスト、材料の保存と転用がきくこと、レシピのレパートリーが広いところです。ある程度定着しましたら花の種類を増やしたいです」
「それはいいですね……ええ、味も美味しいです」
「ご令嬢のお茶会にも、ちょっとした贈り物としてもきっと便利です」
「……ヘルミーナ様もこういったものがお好きですか?」
少し探るような瞳に驚いて恥ずかしくなってしまうのは、このお誘いは昼間の報告を兼ねてだと思っていたからだった。
もしかしたら単純に、本当にお茶だけのつもりで呼んでくれたのかもしれない。
「ええ。……でも切っ掛けは、ウィルヘルム様に頂いた花が嬉しかったからです。ドライフラワーのようにこれもしばらく花の色や香りを楽しめますし、香りって記憶に残りやすいでしょう。私がツヴァイク家の領地にいた時の森の香りや花の香りも、ずいぶん昔のことなのに懐かしく思い出せます」
「ご実家の森はお好きですか」
「……ええ。ベリーの香り、煮詰めたジャム、ハーブも、鳥の声も。ですが今は同じくらいフェルベルクの森も好きです。
ですから陛下から祝福をいただけて、嬉しかったです。……ただウィルヘルム様、なぜあのようなことを? ひやひやしました」
「……流石に、とても緊張していましたよ。普段のように見えていたなら格好を付けていただけです」
ウィルヘルムは苦笑して少し遠くを見るような目をする。
「死は縁起でもない――ことではないです。前領主の、父のことを考えても可能性は常に考えておくものですから。
陛下に認めていただけたなら、わたしがいなくてもあなたはここにいていいし、ご実家に帰らなくとも良くなります。皆がいれば、きっとフェルベルクで上手くやっていけると信じています」
話題は彼の死の可能性についてであるのに、瞳の色は出会った当初の、もし森で死んでも構わないというような昏いものではもうなかった。
ヘルミーナは良かったと心底安心すると同時に、胸が暖かいもので満たされていくのを感じた。
思えばウィルヘルムの方が、伯爵として場慣れているのだ。陛下の虎の尾を踏まないようにする方法くらい分かっているのだろう。
それでも、あれだけ素顔で人前に立つことを恐れていたひとが陛下に意見するなんて、彼女を思いやって信じてくれたことが――たとえフェルベルクのためもあったとしても――それだけで嬉しかった。
嬉しくて泣きそうで頭を軽く振れば、ウィルヘルムは眉を下げる。
「……申し訳ありませ……」
「違います、あの、とても嬉しくて。でも……マルガレーテ様のことは、本当に宜しかったのでしょうか」
「彼女とのことは……」
嬉しくて、という言葉で微笑みかけたウィルヘルムは真顔に戻り、
「恋愛感情は互いにありませんよ。
子供の頃のことと過去にしていましたが、やはり結果的に婚約者に傷を付けてしまったこと、彼女の将来を狭めてしまったのではないかとは後悔していました。それに婚約破棄になっていなければ、領地は窮地に陥らなかったと。
……それでも、わたしは、領主としても個人としても……」
それから視線が合えば優しい眼差しが返ってきて、どこか甘い響きが耳朶に触れる。
「あなたに会えて良かった」
そのままどれくらいそうしていたのか。
恥ずかしくなってヘルミーナが俯いてしまえば、そっとウィルヘルムが立ち上がる気配がした。つと視線を上げると小さなトランクをテーブルの上に彼は置いた。
「偶然店頭に飾ってあるのを見付けまして……移動時に遊べるゲームです」
留め金を開くと、四角いマスと木製の色とりどりの丸い駒が現れた。チェスによく似たボードゲームだ。違うところは、相手の駒を取ると使えるところ。
「子供のころ具合が悪くなって館で休んでいると、クラッセンやテオフィルが相手になってくれました。懐かしくて」
「あ、知っています。これはサイズだけでなく駒の種類も少なくアレンジされているのですね」
「……遊んでみますか?」
「宜しいのですか?」
「ええ。今日はこちらをお誘いしようかと思っていたのです」
簡単にルールを確認した後、互いにひとつひとつ駒を進める。勝利条件はすべての駒を取るか、陣地を広げるか。
こつり、こつりと、駒を動かす音が静かに夜に響く。
ヘルミーナはいつの間にか盤面に集中していた。
ここに置いたら、防ぐだろうか、駒を取りに来るだろうか。
ウィルヘルムの顔を伺っても分からない。普段とは違う、分からないように表情をわざと作っているという風だ。新鮮だなと思う。
ことり。
一手を悩んで差せば、すぐに対応される。
ウィルヘルムは昔遊んでいたと言った通り、なかなか強かった。ヘルミーナよりずっと強いと思う。
長考しないのは、マナーだからか、次から次へと裁かなくてはいけない領主としての経験からだろうか。
一方でヘルミーナはどれが最善か考え込んでしまう。
音がこつり、とひとつ響くたびに思考が目まぐるしく移り変わる。
「……取りますよ」
「あ」
中央でにらみを利かせていたはずの大事な駒が取られてしまい、ヘルミーナは声を上げた。
「……かないませんね。あ、でもここの繋がりを切ったらいけそうかも……」
「それは気付きませんでした」
「でも取った後の形が良くないですね。やっぱり無理……」
盤面を指で差して次の一手を考えていると、ふと目が合った。
「……ヘルミーナ様は、駒を取らせたくない
「そうですね。取り返せる保証がない、難しいと考えてしまうからかもしれません。ウィルヘルム様は私より思い切りが良い、と思います」
それが領主になる、ということかもしれない。彼が出来るだけの人を手で掬おうとする人だと知っているけれど。
「できる手から打つようにしていますが、ヘルミーナ様は最終的にどのような形が望ましいか逆算して手法を決められているように見えます。
……しかし大人になってみると、このタイプのゲームは、手法を暗記することに偏りますね」
「そうですね。変化と運要素を持たせるために、たとえば……駒をいくつか初期にランダム配置にする、地形を配置するというのはどうでしょう。複雑にはなりますが、このゲームは戦術要素が強くて……」
調子に乗って話していると、ウィルヘルムはもう盤面を見ていなかった。真っすぐにヘルミーナを見つめている。
「俯瞰視点と陛下は仰ってましたが」
「ええそれは。……例えばですが、個人の目から見た戦場、部隊の指揮官、騎士団の指揮官、そして領主の目線。どれもが必要で、たとえ同じ戦場に立つにしても、どれもが少しずつ違う、でしょう? 私は多分、それより少し上からの目線です。良いか悪いかは別にしまして」
「最近のご令嬢はそういった教育を?」
彼の言いたいことは理解できた。ヘルミーナの思考の理由を知りたいのだ。
天啓などと陛下が呼んだが、そんなものは恐れ多い。陛下から見れば、自分のように前世の――それはもしかしたら、日本でもなく外国やもっと過去や、それより未来の――知識を持ったようにしか見えない人が他にも存在していて、それを知っているのかもしれないのだが。
陛下よりももっとウィルヘルムに理解してもらいたい、話したいとそう思うがどう言葉を選べば最善なのか分からない。
「陛下の、天啓というお言葉のことですね」
「心当たりはありますか? ……いえ、問い詰めるつもりはないのですが……」
「……私はただの凡人です。経験もないために客観的な視点が欲しいだけの」
それは本心だ。嘘ではない。
けれど今、まだ波風を立てたくない思いはあった。いつまで、かは分からない、立法がかなってからか、領地が落ち着いてからか……。
いやそんなのは言い訳で――嫌われるのが怖いのだ。
「そうですか。……余計なことを聞きましたね」
ことり、ことり。
沈黙に響く音がヘルミーナの罪悪感を積み重ねる。
動揺が手に現れていたのかそれとも単なる実力差か、すぐにウィルヘルムは陣地を広げてしまって終局となった。
「ありがとうございました。……また遊んでいただけますか」
「私で宜しければ」
「これからはもう少し、あなたのことを知りたいのです。わたしの話も、ですが。夫婦らしい時間が持てたらと思います」
盤面が片付けられていくのをじっと見つめるヘルミーナの頭の上に、優しい声が落ちる。
それから手がテーブルの端に遠慮がちに、細長い木箱を置いた。
「……それから、宜しければこれを。こういったことに疎いので喜んでいただけるか、分からないのですが」
おずおずと、ヘルミーナは指先を伸ばして木箱を手に包むように引き寄せる。
かかっていたセージグリーンの紐を摘まんで解き、箱を開く。
そこには灰青の滑らかなラインを描く筆記用具がひとつ、シルクの中に鎮座していた。
「万年筆……」
金属のペン先のものやインクをためておける万年筆自体は世の中にあるものの、まだ長時間の使用に耐えるようなもの、高性能なものは流通していなかった。
「西方の新しい技術で作られた輸入品だそうです。何か書きとめるにも、お仕事にも便利かと思いまして」
「使ってみても?」
「どうぞ」
ペンのキャップを開くと、銀色に輝くペン先が現れた。
近くのメモを引き寄せて幾つかの単語を――ウィルヘルムの名前も――さらさらと綴れば滑らかに引ける。
キャップを締め直し、嬉しいです、とヘルミーナは胸にそっと抱くようにすればウィルヘルムの口元からくすぐったそうな笑みがこぼれた。
「……良かった」
「素敵なものを頂きましてありがとうございます。
私も何かお返しできるものがあれば良かったのですが……済みません。ウィルヘルム様のお好きなものは何でしょう。食べ物とか、花とか、色とか。
そういえば、誕生日……今までウィルヘルム様にとって、今度のお誕生日はずっと、結婚しなければならないという『期限』でしたでしょう。お祝いしたいです」
「植物は好きですよ。それから本とか、山の上は冷えるので暖かいものもいいですね。色は青や緑や、草木の……人工的なものよりも自然にあるものの方が。食べるものなら魚や白アスパラガスですね」
「……分かりました」
お花畑の家で使えるような何か暖かいものを編もう、誕生日も可能なら皆で祝おう、プレゼントは何にしよう――とヘルミーナは考えを巡らせつつ、今まで距離を置いてきた分少しでも家族として知ろうと思う。
それには、やはり、こちらも誤魔化さずにさらけ出さなければ駄目なのだ。
上手く話せない時にはいつでも待って、聞いてくれて。無理に聞き出したりせずにいてくれるから。
柔らかい声音が、言葉がひとひらひとひら重なるたびに、嬉しくなるから。
その誠実さに応えなければ駄目だ。
喉を紅茶で潤し、意を決して口を開く。
「……ウィルヘルム様は、突拍子もない話を聞いても……笑いませんか? 笑わない、とは信じていますが少なくとも困惑されるのではないかと」
「いえ」
不安げに揺れる灰青の瞳を安心させるように告げられた即答が、優しくヘルミーナの背を押した。
「陛下が天啓と仰ったような、記憶は、私の中に、あります」
告白は、静かな夜にやけに響いた気がした。
「……他の世界で生きていた、ある女性の記憶です」
前世の“自分自身”であった、とは言わない方がいいだろうと思う。それも確信が持てないのだから。
「若くして死んだその人の記憶は断片的で、例えば絵画として母親か祖母の記憶を覗き見たようなイメージです。……そう、占い師が他者の未来を覗き見たり予知したりするとこのような感じなのかもしれません」
なるべく嘘をつかず正確に伝えようと努めるが、ゲームであるとは言いたくなかった。
目の前の優しいひとの手の温かさを、息遣いを嘘にしたくなかった。
「記憶には、この世界のことも多少含まれていました。ボルマン伯爵が破滅すると思って――知っていたのです。だから私は、逃げました。
……ですが、その後のことは本当に偶然でした。院長様に助けていただいたことも、ウィルヘルム様とお会いしたのも……」
解っているというように頷かれれば、ヘルミーナの舌がもつれそうになる。
「異世界の記憶といっても、私はただの一般人で、凡人です。見た目では分からない仕組みの技術など山ほどあり、再現できるようなことなど殆どありません」
「マスクもそうなのですか?」
「はい。それくらいです。高度な技術などもし再現できても、それが与える影響を考えれば今この世界になんでも持ち込みたいとは思えませんし、話してもおかしくなったと思われるだけでしょう。
ただ、ウィルヘルム様が私を役に立つと思われるのでしたら、多分それは私自身の能力とは関係ないところで」
「……大丈夫ですよ」
いつの間にか、そう言ってもらえるとどうにも安心してしまいたくなる自分の弱さにヘルミーナは気付いていた。
「嘘だと思ったり……嫌ったり、しませんか」
「あなたはそんな嘘をつく方ではないでしょう。嫌いにもなりません」
それから、と付け加えて春の陽のような微笑みがヘルミーナを見ていた。
「陛下には秘密にしておきましょう」
「あ……ありがとうございます……陛下から庇っていただいたこと、本当に嬉しくて」
「これも陛下には秘密ですが。陛下のご結婚の余波があなたやわたしに及ぼした影響も考えると、ただ思うようにだけ動く駒にはなりたくありませんから。
……ただ、ひとつだけ。その女性の正体が誰であれ、彼女が今のあなたではない、と、理解はしました。その上でお伺いしたいのですが、その、その方に親しかった男性の記憶だとか……」
無自覚に握りしめていた手を安堵に緩めたヘルミーナは、いつの間にかウィルヘルムの方が歯切れが悪くなっていることを不思議に思う。
「え? ええ……そうですね、そういった記憶は見ていないです」
「そうですか」
どこかほっとしたような声に、少し赤くなった目元が穏やかに彼女を見つめている。
そんなわけがないのに、そこに好意が混じっているようで、まるで紅茶にシロップをたくさん入れて飲んだみたいな気分だ。
気持ちを、全て話してしまいたいという誘惑に、ヘルミーナは必死で抵抗した。
もう自分で、十分に理解していた。
実は秘密がもう一つある。もっと大事で、明かせない秘密だ。
それは、異性としてのウィルヘルムにどうしようもなく惹かれていることだった。
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