第39話 交渉
安全に登山しようと思えば陽が出ているうちに行動することが鉄則で、出発は今までいつも午前中だった。
今の時刻は昼を回りおまけに太陽は灰色の雲の向こうだ。今でこそ薄い雲は日光を透かし、また雲間からちらちらと姿を覗かせてはいるが、山から吹き降ろす風が徐々に雨雲を運んできていることを考えれば猶予はない。
雨の日は、ウィルヘルムも登山や行動を可能な限り控える。体温を保つための透湿・防水性の両方に優れた化学繊維はこの世界にない。いや、あるのかもしれないが魔法使いの領域だ。
更にこの時期、フェルベルクでも標高が高い山だと山頂に雪が残っていたり降ることもある。利用を期待できないが登山となれば無視できないといったところか――今回はそこまで男爵はいかないだろうし、ヘルミーナもそうなれば諦めるつもりではあった。
油を染みこませた登山靴、綿を避けて可能な限りウールを取り入れ、通気性の良い素材の下着とシャツを着る。実は特注品だったつるりとした上着。
いつものザックに追加の品を幾つか入れて、急いで準備したヘルミーナは先発している捜索隊がラーナ村を山中の拠点にすると聞き、そこまでテオフィルと向かった。護衛のアロイスとエメリヒ、それにノスリのフィーダも一緒だ。
焦りが足を急かそうとするが、テオフィルや護衛の二人のおかげでペースを上げずに済んだ。余裕をもって行動すること、焦りは判断を致命的に誤らせることがある――登山中ウィルヘルムが何度も口にしていたことだ。
村にいつもの所要時間通りに着いたときには日は大分傾いていた。ここからの展開によっては一泊することになるだろう。
二人は荷物を一旦フェルベルク家の所有する小屋に置いて机を囲む。
「……どうだった?」
「男爵と他二人が北東に向かっている姿が目撃されています。狩人が、足跡からすると隣のヴォーツェン山の古い採石場の方へ行ったのではと言っていました」
折しも報告に来た騎士の口調からすると、喜ばしいものではないらしい。
「ヴォーツェン山というと、ピケア以外の樹種が多く残っている山ですね」
「ええ。道幅が広くて
疑問に答えつつテオフィルが補足してくれればヘルミーナでもその危険には予測が付く。ツヴァイクの森でも普段足首までの流れが膝下まで増水していたことがあった。
「川ですか……この天気では良くないですね」
「あの辺りの沢は周囲の雨が流れ込みやすい地形なんです。普段ならともかく雨が降ったら私なら近付きませんが、男爵は分からないでしょう。むしろ案内人が付いた方がマシだったと……」
テオフィルはやや早口で言って、眼でヘルミーナに絶対に行かないでください、と釘を刺す。
頷きつつ鬼気迫るものを感じてびくりとすれば、腕の上のフィーダがテオフィルに抗議するように羽根を揺らした。
「……採石場で引き返してくれれば良いのですが。いないならこちらの稜線の道か、ここ、それにこちらの登山道に行った可能性がありますね。途中には作りかけの道もありますし、迷いやすいですね」
ヘルミーナは気を取り直し、壁に貼ったフェルベルクの山の地図を指で辿る。
伐採計画のために作った地図がこんなことのために役立つとは思わなかった。
「同意見ですね。巡回の騎士は魔物対策にそのままにして、捜索隊を三方向に手分けして向かわせることにしましょう」
「私も同行しても……」
「ええ解ってます、反対しても無駄なんでしょう。……流石にそろそろ天気がもたないと思います。危険があれば必ず村に引き返す、と約束してください」
「はい、必ず。……私に何かあったら、きっと……熱が出たというどうしようもないことでも、ウィルヘルム様はご自身を責めるでしょうから」
「いやご自分をまず大切にしてください。……すぐ捜索隊に指示を出しますので、少しの間でも休憩を取って備えてください」
テオフィルが捜索隊を連れて戻ってきて程なく、計画の立案と共有がなされ、一行は採石場跡まで集団で進むことになった。
その中に村人も増えていて、見知った顔があった。高山病で下山した時に着いてきてくれた夫婦の奥さんだ。
「何かあったら女同士、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます、頼らせてもらいますね」
背もヘルミーナより高く均整の取れたしなやかな体つきは山で暮らす人のもので、おそらくこの中で一番歩くのが遅いヘルミーナからすると頼もしくも眩しく見えた。
出発した一行は難なく採石場前の分かれ道まで辿り着いた。山肌に削られた土と、垂直の断面を晒す白い石が見える。打ち捨てられた道具に錆が浮き、使われなくなって長いようだ。
採石場自体は作業のために平らな地面が広がっており、小石が、整えられた道、或いは切り出された後の平らな岩の上を避けるように転がっている。
捜索隊はその周縁の土や草の跡からヘルミーナにはちっとも判別が付かない足跡を見付け出すと、おそらく西に回ったと報告した。
「山頂と東にも念のため人を回して、あとは奥様と一緒に西から進みましょう」
その後集団は山頂へ向かう部隊と、
この巻道は山をぐるりと囲むように繋がっているから連絡も取りやすい。
この他にラーナ村の住民で手が空いている人たちが、村周辺や作りかけの道、奥まった場所なども探してくれる。
相手はろくな装備も体力もない男爵たちなのだから、見付かるのは時間の問題だと思われた。その前に何かしでかすか、何か起こらなければ。
ヘルミーナは西へ向かう道を、テオフィルの勧めに従って10人ほどの隊列の中央で歩みを進めた。
周囲に気遣わせているのは分かっているが、決して急がない。急がずとも追いつくという自信もあった。もし無理そうだったらテオフィルが助言してくれるはずだ。
道幅は先ほどより狭く、せいぜい二人が並んで歩ける程度。それも両側から植物が侵食してきていて、分かれ道があればひょっとすると獣道に迷い込んでしまいそうだった。
それでも土は柔らかく、春だから落ち葉も少ないのが幸いした。歩きやすいし、足跡も比較的見つけやすい。予想通り、道の上に溝の浅い靴底の踏み跡がヘルミーナにも見えるようになってきた。
そろそろだと思った頃、道の先からうんざりするほど聞いてきた男の怒声が響いてくる。
「いつになったらちょうどいい場所が見付かるんだ。一緒にまる焼けなど御免だぞ!」
「……お父様の声……!」
思わず飛び出しそうになる衝動を押し込めて、テオフィルの顔を見れば彼は小さく頷く。そういえば、一度父親と会っている――自分以外に顔を知っている人がいるのは心強い。
「念のため申し上げますが、前には出られないように。交渉が決裂したらすぐに下がってください。アロイスとエメリヒは、奥様には決してアレを近付けないように」
「はい」
毒気のあるテオフィルの言葉。そして二人が真剣に頷いてくれたので、ヘルミーナの中に少しだけ残っていた怖気が去っていく。
物理的に守られているというだけではなく、今の自分にはフェルベルクの皆が、ウィルヘルムが付いていてくれるのだと思えるから。
そして数人の騎士と村人の、不自然なくらい静まった足音が与えてくれた機会の貴重さを自覚させた。
信用に応えたいと思った。
「――お父様」
ヘルミーナは十メートル程の距離を取って、父親に声をかけた。
父親は土に汚れた旅装で、ヘルミーナをボルマン伯爵の家へ運んでいた御者と、見覚えのある下働きの男に不機嫌に言い散らしていたが、探していた娘の声に振り向いた。
「ヘルミーナ!」
疲労と怒りで興奮しているのか、目を剥いた顔とざらつく声が生理的な嫌悪感を刺激して、ぞわりと肌を粟立たせる。
「燻り出す手間が省けた。ヘルミーナ、ヘルミーナ――ツヴァイクへ帰るぞ」
体を揺らめかせながら一歩ずつ近づいてくる男爵は、片手におそらく火打石だろう石を握っていた。背後で御者が持たされているものがランタンで、その中に油が入っていることを思い出して、予測はしていても寒気がした。
逃げ出した娘一人のために伯爵家の山を燃やすなど正気の沙汰ではない。
「お父様、ここが私の嫁ぎ先だと申し上げたはずです」
「お前が帰れば燃やす必要はなくなるだろう? 燃えたらお前のせいだ」
めちゃくちゃな言いがかりだが、男爵の論理で言えばヘルミーナの持ち主である父親に管理責任があるはず。しかしこういう発言をする人間は、自分に都合の悪いところは無視するものなのだ。
「私は戻りません。私はフェルベルクで生きます。お父様はどうかユリウスとツヴァイクで――」
「モノが勝手なことを!」
ヘルミーナが思わず恐怖と、それから恐怖を上回る怒りに肩を震わせたと同時に、男爵は手を振るった。
咄嗟に前に出て庇ったテオフィルの腕に火打石が当たり、切れた手の甲から一筋の血が流れ出る。
テオフィルと、そして周囲の騎士の纏う空気が一気に剣呑なものになる。
ヘルミーナからすれば守られていることはありがたいが、あまり時間はないようだ。もし彼が何とかしてくれたら、暴力的な手段でないとしてもヘルミーナにとって望ましいものとはならない。
(ここで何とかしてもらったら、もし火を付けようとでもしてここで斬り捨てられたら――私はきっと父親にとって財産のまま)
相手を冷静にさせなければと顔を上げてしっかりと相手を見据える。
連れていた二人の使用人が怯えた様子を――おそらく、男爵と騎士と双方に対してだろう――隠せない中、父親は両肩で不自然なほど荒い息を吐いていた。
王都ではオーダーメイドの服に身を包んでいたが今は旅装はあちこち土と葉に汚れ、シャツは一部枝にでもひっかけたのか破れている。
そんな格好になってまで財産を毀損されたくないという執着はどこから来るのだろうと考えて、観察して。
そこで、ヘルミーナは見た。
裂けてまくり上げたシャツから覗く両腕についた無数の傷跡を。
ミミズ腫れのような蛇行した線に盛り上がったそれは、おそらく古い鞭の跡。恐ろしくて、それでも理解してしまった。
思い出した。ヘルミーナは殆ど祖父母と接点がなかったが、たまに祖父の部屋へ向かう父親の顔に何の感情も浮かんでいなかったことを。
ヘルミーナの境遇と性格が父親に作られ、前世の記憶のおかげで逃げられ、ウィルヘルムの優しさで今の自分のかたちが作られつつあるように、父親もまた祖父と時代の影響から逃れられていないのだと。
本人はたとえ指摘しても気付かないだろうが。
(ただ……憎ませてくれれば楽なのに)
ヘルミーナは口にしようとしていた糾弾めいた事実の指摘を、咄嗟に変更した。
「確かに、貴族にとって、娘は、財産です」
奥様、とアロイスの心配が入り混じった、珍しく咎めるような声に首を振る。
「……ですが私はこれから、自分で収入を得ます。そこからボルマン伯爵から得られるはずだったお金をお渡しします。
でもこれは私が金銭で自由を買うのではない。これは、取引です」
一歩、男爵が踏み出しかけた足を止める。靴底で踏んだ石が地面にめり込んだ。
「取引だと?」
「ご存知でしょうか、フェルベルク領には近く女王陛下が視察においでになられます」
女王陛下、という言葉は効き目があったらしい。ぴくりと眉が上がり目に正気が徐々に戻ってくる。
「私の存在がツヴァイクの“汚点”であることは理解しております。お父様の顔に泥を塗ったと。
ですが――もしご訪問前に、ツヴァイク家を出奔したという噂が上塗りされれば、どうでしょう。
女王陛下の古くからの家臣であった伯爵の家に、敵対する家から出奔した私を認め和解した寛容な父親、になりませんか」
「それだけでは威厳が――」
威厳。そう、父親はすべてを支配下に置きたがっており、コントロールできないと思われることも非常に嫌っている。だからこそその印象を挽回できるなら交渉に乗ってくる可能性はあると思っていた。
「フェルベルクが生産した品々は王都でも好評でした。おそらく競合します」
ヘルミーナは王都で調べたツヴァイク家の品目でこちらに有利そうな競合品をひとつひとつ、挙げていく。それに対してどのような反応を貴族たちや商店がしたかということも。
「陛下がこちらにいらしてくださるならなおさら、これらの目新しい商品にツヴァイク家の品々が押されていくことは商人のお父様ならお気付きになられていることでしょう」
「……そうだ」
「しかしこちらも商売では新参者に過ぎません。手広く商売をしているツヴァイク家の販路を使用させていただき、商品の代金から手数料をお支払いします。悪い取引ではないのでは」
甘いとは思うが、これでツヴァイク家の商売を圧迫し過ぎてしまったら――捕らぬ狸の皮算用だが――恨みを買うだろうし、それに、ユリウスの留学話もなくなってしまうかもしれない。
勿論、困ったらいつでも引き上げることもできる。
「ツヴァイク家はもともと商人。商売人としての家名と名誉と、何より誇りは失えません」
沈黙が満ちた。
風の音が木々を揺らしてごうごうと鳴り、湿った風が吹き付ける。
頭上をいつの間にか黒い雲が覆っていた。
返答のあるなしに関わらず、もう帰らなければならない。
ヘルミーナがテオフィルの伺うような視線に頷きかけた時だった。
割れたような声が男爵の口から放たれた。
「……癪だが、考えておいてやる」
背後の使用人二人は、ほっとしたように胸を撫で下ろしているのが見える。
「ありがとうございます。無事にお帰りいただけるよう、お送りしましょう。誰か、先に三人をお送りしてください」
気が変わらないうちにと即座に応えれば騎士から半分ほどが隊列から離れて、挟むようにして男爵と使用人たちに先を促した。
完全に客人ではなく犯罪者に対する扱いだが、実際したことを思えばそれで良い。
ヘルミーナは言わなかったが、あくまで先の交渉は罪を償った後の父親に対するものだからだ。ギルマンの誘拐未遂や領内での放火未遂についてはウィルヘルムが対処してくれるだろう。勿論ボルマン伯爵に要求されている違約金などはこちらの関わることではない。
「痛かったでしょう、ごめんなさい、テオフィル」
「奥様は、これで宜しいのですか」
ヘルミーナが荷物につけた、予備の革袋の水でテオフィルの手の甲を洗い流しながら謝れば、彼は気遣うような顔をする。
「……いいの。どこかで落としどころを作らなければならないのだから。テオフィルこそ怪我をしてるでしょう」
「大したことありません。こんなこと自分でしますから」
「でも、血の匂いで獣が寄ってくるでしょう。すぐ済むから」
前髪や包帯が風にあおられて作業がし辛い。自分の体を風除けにして手早く手当てを終えた。
「ありがとうございます」
「いつも助けてもらってばかりだから、少しは返さないと」
「そんなの部下なら当然ですよ。早く降りましょう、雲行きが怪しくなってきました」
確かに空を見上げれば、雲は分厚く空を覆い、今にも雨が降り出しそうだ。近くの山では雲を積み重ねているようにも見える。雷雲だ。
エメリヒの提案で雷に備え一刻も早く戻った方がいいと判断し、一行はペースを上げて採石場まで戻る。
「もし大雨になるようでしたら、そこに作業小屋があるので雨宿りだけでも……」
狩人の女性が提案した時だった。
――その時、一瞬にして閃光と闇が入れ替わる。
視界が奪われ、目を瞑る。
程なく、巨大な音が頭上で割れた。
音からして落ちたのはそう遠くもない場所――そう思った瞬間にパラパラと空から雨粒が落ちてくる。
それから再度空が鳴った。
小屋に走る。
足元が痺れて、体が傾ぐ。
「……奥様!」
テオフィルの声がした。
足元が揺れる。
音もなく、ヘルミーナの体は地面から投げ出された。
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