第40話 道なき道を歩く
目が覚めると、ヘルミーナの身体は地面に横たわっていた。腐葉土の上だったのか、ザックを背負っていたおかげか、頭も背中も痛くない。
指先を動かしてみる……動く。身じろぎすると、四肢も思うように動いた。
ゆっくりと上半身を起こして空を見上げれば、分厚い雲が広葉樹に雨を打ち付け、枝葉の合間から雨粒がぽたぽたと上着を濡らしていた。
……中には染みていない。おそらく気を失っていたのは短時間だろう。
「奥様! ヘルミーナ様!」
「テオフィル様は早く山を降りてくださいよ。そんな匂いさせてちゃ狼が来ますよ」
「アロイスこそその剣を捨てろ。金属の付いた長いものは全部だ」
遠く、上方からテオフィルやアロイス、エメリヒの声が聞こえてヘルミーナは首を回した。
「……皆、どこにいるの!?」
「奥様、ご無事ですか。お怪我はありませんか」
声を張り上げているだろう方向に歩けば、声が少しだけ近くなる。とはいっても、どこからか反響しながら聞こえてくるだけだ。雨音がもう少し強かったら聞き取れなかっただろう。
姿を探して周囲を見回したが、木々と茂みが鬱蒼と茂っておりどこにも見えない。
「……大丈夫よ、怪我もないし歩けるわ。皆は?」
「良かった――斜面を大分転がられたようです。こちらは無事です」
これはアロイス。
「何があったの? 気を失っていたみたいだけど、どれくらい?」
「近くに落ちた雷が岩場を走ったようです。あれから10分も経っていません。……奥様、出来るだけ近くの、雨の当たらない場所を探して、そこから動かないようにお願いします」
これはエメリヒ。
「大よその位置は分かっていますが、声が反響して探しにくいので」
エメリヒに続いて奥さんの声が響く。
「それから、必要な時以外は声を出されないでください」
「分かったわ」
彼女は言わなかったけれど、それが魔物や獣を呼び寄せる可能性があるということは判断ができた。
「――どうかご無事で……」
テオフィルの、叫ぶような声が聞こえる。普段から冷静でシニカルな面もある彼が平静を失っていることに驚きつつ、自分の状況は相当悪いのだなと――恐れと同時にどこか冷静になる自分もいた。
(とりあえず、どうしよう)
立ち上がって体の痛むところを探す。さすって痛みを感じた場所を見るため衣服を捲り上げたが、少し青痣になっているところがあるだけだ。不幸中の幸いというものだろう。
落雷で山火事が起きなかったのも幸運と考えれば絶望するには早い。
「……そうだ、フィーダは?」
周囲を見回すと、マイペースなノスリは側の浮き出た木の根の上で足元の雨水を貪っていた。
「良かった、無事だったのね」
近づいて腕を伸ばすと、いいところなのに邪魔された、というような顔をしながらトントンと腕に登ってくる。
羽についた水滴ぶるるっと振り落とされて、まとめた髪や上着の表面に水が散った。
それをヘルミーナは再度手で払って、空を見上げる。
目覚めてからの短い間にもう雨脚は徐々に強まりつつあった。
登山で濡れるのは厳禁だ。服の透湿性を気にするのも汗で濡れるのを防ぐためだし、綿も便利なのにあまり利用されないのは、乾きにくいからだ。
水は容易く体温を奪い、低体温になると思考力が著しく低下します――ウィルヘルムが以前教えてくれた言葉を思い出して、荷物から出した皮の外套を羽織る。
水を弾くように油を滲みこませているが、重くて透湿性もないのが欠点だ。
「濡れないところに行かないと」
移動しますと上に声を投げるが返事はなく、もう届いたとは思えなかった。
荷物から防寒にと持ってきた手編みのマフラー――ウィルヘルムに贈るつもりのマフラーの試作品――を取り出すと、毛糸を一本抜いて枝に括り付ける。
昔母親の枕元で聞いた童話の子供がパンくずで目印を残したように、探しに来た人に見付けてもらえることを期待する。
「雨でごめんなさい、獣や魔物がいたら教えて。あなたが頼りなの」
フィーダに干し肉をほぐして与えると、利口な彼女は頭上に舞い上がって木の枝に留まった。ヘルミーナの歩みに合わせて枝を渡って着いてくる。
この辺りには広葉樹が多く、雨に対しては傘になるが視界はあまり良くない。
(思い出して、考えて。思考できるのも健康も時間も全部資源だから、なくならないうちに)
手札が何かないか頭の中で総ざらいして、そうだ、と思い出して荷物を探ると羊皮紙に描いた地図があった。あくまでフェルベルクの山岳地帯全域のものだから詳しくはないが、大よその地形は分かる。
採石場の場所は記してないがヴォーツェン山の記名はある。だいたいこの辺りで、標高1500メートル前後といったところだろう。
声が反響する、ということは少し谷になっているのか。雨が流れ込みやすいというテオフィルの言葉を思い出して背筋が冷たくなる、その恐怖を首を振ってすぐに追い払う。ここで恐れて冷静さを失うのは駄目だ。
水はまだある――雨もある。だから万が一にも沢に下ってはいけない、戻れなくなるから。
とにかく、まだ明るいうちに安全に
(安全に……どうやって?)
稜線に出れば見つけてもらいやすいが、そもそもの転がってきただろう方向を見れば、怪我しなかったのが不思議なほど急斜面だった。降りることはできても上がることのできない厄介な角度。これではテオフィルたちも容易には降りようと思えないだろう。ロープか何かの準備が要る。
ヘルミーナは無理に上がろうと考えず、なるべく水平方向で屋根のある場所を探すことにした。
木の根があちこちに広がってうねる足元は雨で濡れて足を取られそうだ。転倒して骨折でもしたら洒落にならない。
それも、徐々に夜が迫ってきていた。そうなれば月と星明かりしか頼りにならない。一応ランタンを持ってきてはいるが、火を熾すのも不慣れだから真っ暗な中での作業は難しい。
視界があるうちに、濡れる前に、どこか近くて雨宿りのできる場所――都合のいい願いを山がそうそう叶えてくれるわけではない。
考え事をしているとふいに足が石を踏み、それが傾斜を落ちていく。1メートルほど視線で辿れば、絶壁といっていい岩肌の急斜面が目の前に現れた。その更に下に細い水の流れが見える。
細いとは言っても雨が降りこんで、蛇がのたうつように水を下流に押し流していた。
「……」
一歩後ずさり、濡れた地面がまだぬかるんでいないものの滑りやすいことに気付いて喉を鳴らす。
考え事ばかりしていてはだめだ。慎重に。
(……大丈夫、歩き方も、植物の見分け方も、森のこともウィルヘルム様に教えてもらったのだから)
フィーダが鳴けば獣の気配を感じそこを避け、時折枝に印を結び付ける。
方向を確かめようとして荷物から縫い針を取り出す。小さな水たまりに小さな葉を浮かべると、絹の端切れで針先に向けて擦って乗せた。雨風から庇うように外套で覆うと、静かな水面を針が葉ごとくるくる回り、針の先がおおよその北を示す。
悠長だが、頼れるコンパスはこれしかない。
「……フィーダ、来て!」
途中立ち枯れているピケアを見てまた思い出し、フィーダを手首に留まらせると、木に向けて放つ。首を樹皮の割れ目に突っ込まれて、灰穴虫がバタバタと散っていく。
ヘルミーナはピケアに近づくと、まだ濡れていない樹皮をナイフで剥ぎ取って荷物に突っ込んだ。
火を熾すときの着火剤である火口は持ってきているが、薪はない。ピケアならもう枯れて水分が出て行ってしまっているので代わりになる。
全部の樹皮を剥いでしまいたかったが、重くなるだけなので適当なところでやめる。もし鉈か斧があれば――と思ったが、筋力のないヘルミーナでは立っている樹を伐ることは難しかっただろう。
樹皮を剥がし、地面に残っていた細長く固い実――いわゆる松ぼっくりを拾い、食べられそうな木の実や草を採り、毛糸を結び、そういったことを続け、何十分歩いただろうか。
視界の先の岩壁に小さな洞窟、というより小さな岩穴が開いていたのを見付けて小さく歓声を上げそうになる。
フェルベルクで有毒ガスが出ると聞いたことはないが、中を覗き込むと奥は1、2メートルほどで見通せる。
中には石ころと草が吹き込んでいるだけで、危険な動物などが暮らしていた跡もない。
ヘルミーナは洞窟の入り口、かろうじて雨のかからないところにピケアの樹皮を三角になるように立て、上には拾った小枝を乗せて小さな焚火を作る。
テントのような形のその中に、火口箱に入れておいた木の繊維を少しと松ぼっくりを入れ、側で火打石を打ち付けた。
何度か打ち付けると煙の臭いと火花が起き、それが小さな繊維にぽっと燃え移ると指先程の炎になった。
それが松ぼっくりに燃え移る。含まれている松脂のおかげもあって、もう少しだけ大きくなった。
(慎重に……)
急いで樹皮を追加し、消えないように火を育てる。繊維から松ぼっくりへ、松ぼっくりから樹皮へ、樹皮から小枝へ。
やがて炎が大きくなってきたころ、洞窟の外に向けて煙を煽った。
狼煙だ。今は雨で見えないかもしれないが、止めば気付くだろう。それに獣は火を嫌う。
一安心してしまって脱力したヘルミーナは、背負っていた荷物が急に重量を増した気がして、背中から降ろすと岩壁にもたれた。
……はあ、と白い息を吐いて火に向けて足を延ばすと、体が思ったより冷えていたことに気付く。
外套と上着を乾かしながら、残ったマフラーを首に巻いて体を縮こまらせながら次はどうしようと考える。
水も、非常食も簡単な着替えも鞄の中にある。さっき食べ物も追加した。一晩くらいは耐えられる――魔物が来なければ。
フィーダが火を避けて飛んできて、疲れたように隣に座った。水鳥でもなし、激しくなる雨の中これ以上飛ばせるのは酷だろう。
「そうね、少し休んだら、火を消した方がいいかもしれない。追加の薪も、雨が止んだ隙に取ってこないと……」
そう言いつつ、いつの間にか目を閉じて黙っているフィーダを見ていれば眠ってしまったのだろう、ヘルミーナも眠気に誘われる。
まだ体が動くうちに、と水をひとくち飲み、固く焼きしめたビスケットと小さな赤い木の実を口に運ぶ。
山の恐ろしさを知ったばかりだけれど、きっと皆来てくれると信じていた。大した距離ではない――ああでも、今雨の中捜索しているのなら申し訳ない。
誰も危険な目には遭わないで欲しい。大丈夫だから。
(それに、ウィルヘルム様にも。今頃高熱で苦しんでいるのだから、こんな報告で心配をおかけしていないといいのだけれど)
手足の寒さも、お尻の下の寒さも硬さももうあまり感じないほどに瞼が重くなってきて、ヘルミーナは目を閉じた。
その直前に瞼の裏で、黒く小さな山になった焚火の、小さな炎が揺らめいた気がした。
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