第41話 凍える夜

(……さむい……)


 眠るには厳しい寒さに瞼を開けた時には、ヘルミーナの体は芯まで冷え切っていた。

 そう、知らぬ間に眠っていたらしい。そして本当に目を開けたのかも最初の十数秒は定かではなかった。何故なら、視界は真っ暗だったから。


(今、何時かしら……)


 鈍い思考でそんなことを考える。

 目の前の焚火はいつの間にか消えてしまっていて、バラバラという雨音だけが岩屋に反響している。

 寒さにぶるりと体が震える。特にお尻が冷たくて痛い。ここから体温が吸い取られてしまったのだろう。


 記憶を掘り起こしながら雨音のする方を耳で辿る。そちらにお尻で這うように移動すれば、岩屋との境界が、雨が降っていてもなお月明かりがぼんやりと届く少しだけ明るい空が見えた。

 幸い、雷の鳴る音はもう聞こえない。


 目を暗闇に慣らしてから、ヘルミーナは濃淡の闇の中から手探りで火口箱を探し出した。革手袋を嵌めてなおかじかむ指で火打石を掴むと、力を込めて何度か打つ。

 ぱち、と起こった火花は周囲を照らすには全く足りないが、二度、三度と繰り返しながら焚火跡に近づく。

 火口箱に残る最後の繊維をひとつまみ乗せ、一瞬火が点った隙を狙って松ぼっくりと樹皮で急いで小山を作る。

 ……うまくいった。


 周囲を赤々と照らし始めた焚火の炎を、今度こそ絶やさぬようにと細長い樹皮の先で掬い上げると、ランタンの覆いを上げて火を移した。中の油の量からいって数時間は持つはずだ。

 四角いランタンの武骨な金属は、これも雷を引き寄せた原因だろうかとも思ったが、火の明りに当てて体を良く見れば、黒ずんでいるのは革のブーツの底だけだった。


 乾いていた上着や外套を着る前に、防寒用のニットと着替えを重ねてしまう。濡れた時のためにとっておいたが、今はここで夜を明かすことが最優先だろう。

 何度も靄のかかった頭で考えてから、きっとウィルヘルムならそうする、と思った。


(標高と緯度を考えて、この辺りの季節の最高気温は晴れでも10度少し。雨で夜だから0度近く……)


 これだけなら何とか朝まで耐えられそうだが、外では風が吹いている。体感温度はもっと下がる。

 焚火を絶やせないが、薪を取りに外に行って濡れることもできない。


 何か他に道具や燃やせるものは、とザックの中身を覗き込むと、荷物の底から袋や上着と同生地で作られた大きな布が出てきた。すっかり忘れていたが、こういう時に使う簡易テントのようなものだ。

 本当ならロープを張って使うが張れる場所がないから、上から被ることにする。

 その前にと丁度良さそうな丸い石を焚火に投げ入れる。

 それから空の袋に、入り口に堆積していてまだ濡れていない葉や落ち葉、土を詰めて口を縛り、クッションの代りにしてそこに座ると、上から簡易テントの布を被った。

 石が程よく熱されれば、木の枝で寄せてテントの中に入れる。直接火にあたりに行くには距離の限界があるが、温めた石は保温材代わりになる。


 ひとまずほっとして再び荷物の中身を検めれば、水は、飲用の水袋に半分と傷を洗うなどに使うものが三分の二程度。何となれば雨水を沸かして飲むことになる。

 食事は余分に、館のキッチンで焼かれたビスケットが10枚ほどと、干し肉、ナッツ、蜂蜜を砂糖と煮詰めて固めた飴が幾つか。それに先ほど取ってきた木の実と草。

 体温の維持にも必要だが、何とか明日の朝、念のためそれ以降も見据えて保たせよう。


 気がかりなのは雨だ。ここが川に近くないのか、沢がないのかは気になるが、今確かめる方法はない。耳を澄ませても川の水音がしないことを信じるしかなかった。


(もし沢の近くだったら何が何でも、坂を登らないといけないけど……)


 留まっていて流されるリスクと、夜中の遭難リスク、どちらが高いかは正直賭けだ。今のところは後者の方が危険だと判断しているに過ぎない。いや、もし危険があっても、体力的にここを出るだけでも保たないだろう。

 火にかざした指先がまだ冷たい。


「……これからどうしよう、フィーダ……フィーダ?」


 気が付いて見回せば、傍で眠っていたはずのブラウノスリの姿が見当たらなかった。食事か水でも探しに行ったのだろうか。


(朝になれば)


 火を限界まで焚いて、夜を乗り切れば。朝になれば無理をしてでも燃えるものを探しに行こう。

 狼煙を上げれば誰かがきっと気付いてくれる、テオフィルが焦るほどじゃない――きっと。


 絶対に生きなければ。

 やっと居場所ができたのだから。

 まだちっとも、彼と家族としての時間も過ごしていない。


 また会いたい。

 館の皆とも、行ってきますと挨拶をしたテレーゼとも、弟のユリウスとも。


 燃えては黒くなってゆく松ぼっくりを樹皮を枝を少しずつ、足していく。

 寿命を蝋燭に例えることがあるが、これは文字通り命に直結する炎だ。だが、あまり多くの薪は使えない。




 時間と共に一本、一本、ストックが減る。

 あとは明日の分だけだ――明日があるなら。いや、絶対に来る。

 ヘルミーナは炎が消えてしまった焚火の、まだちらちらと赤を残す炭の近くににじり寄る。


 また眠ってしまっては、とヘルミーナは目を開けていた。

 雨は降り、風は小さな岩屋の中にも吹き込んできて、炭の温かさなどすっかり消え去ってしまう。

 頭まで布に包まり、手足の指を動かし、末端の血流を良くしようと試みる。

 飴を舐め、割ったビスケットを空腹をごまかすように少しずつ腹に入れる。帰ったら、作ってくれたお礼を言おうと思った。




 どれくらい時間が経ったのか、意識が朦朧として分からなくなった時、空が少し白み始めたような気がした。

 雨の音も聞こえない。

 炭に残る赤は消えていた。


 ヘルミーナは凍える手をのろのろと伸ばすと、まだ残っていたランタンの小さな火に細長く裂いた樹皮を差し入れた。何度もやってみたがふらふらと揺れる手がうまく差し込めず、差し込めたと思ったらかちん、と向こう側のガラスを突いてしまう。

 更に何度か試みて炎を移すと、残るわずかな木切れで焚火を起こした。


(……眠い)


 体は思ったように動かず、今にも倒れてしまいそうだが、そうなれば地面に体温を奪われるだけ。

 あと少しだけ。

 この火が絶えたら終わりだ。

 燃やすものがなければ、服を燃やそう。


 焚火を見つめていたはずの間、意識は、何度か途切れた。

 夜から朝にかけての底冷えする空気は小さな岩屋の中を蝕んでいた。


 どこかでフィーダが鳴く声がした気がする。

 魔物か、獣か。

 ヘルミーナは確かめようと、少しでもましになるよう、太陽の光を求めて、立ち上がった。

 体も強張って痛むし、ふらふらする。歯の根が震えて合わない。

 でもゆっくり、石壁に手を突き体を支えながら数歩の距離を進む。

 進んで、がくりと膝が折れ、そのまま地面に突いてしまう。

 強烈な眠気が意識を絡めとっていく――甘美で恐ろしい気配がした。


(……駄目。もし、間に合わなかったら、あの人はきっと……)


 脳裏にウィルヘルムの顔が過ぎった。

 彼は、陛下の前だからかもしれないが「フェルベルクにとって以上に、わたしにとってとても大切なひと」とまで言ってくれた。

 嬉しかった。

 けれど、だからこそ再び家族を山で失うことに耐えられるだろうか。責任を感じずにいられるだろうか。


(もし――もしもこれがゲームなら、リセットして、私を消してもいい)


 一瞬そんなことまで思い浮かべて、祈ってしまって。

 それでも、なかったことにしたくない、忘れないでとヘルミーナは思ってしまう。

 それくらいなら、軽率だったと私を責めて欲しい、と。


 ヘルミーナの革手袋の指先が石肌を滑り、体は緩やかに大地にうずくまる。

 視線の先に、岩肌の割れ目から芽吹いた柔らかい緑があった。


 会いたい。

 声が聴きたい。

 責めてもいい、叱ってもいい。

 嫌ってもいい。

 だからどうか。

 あの優しい緑が、もう二度と昏い色を宿さないように。

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