第42話 木漏れ日と言の葉
感覚のない指先に、そっと何かが触れた。
じんわりと伝わってくるそれが暖かさで、覚えのある温度であることに安心して、ヘルミーナはそっと瞼を持ち上げる。
森の綺麗な木漏れ日が、日を遮る木の葉の重なりが見えた。
雨は止んだのだろうか、と思ったら、雫が零れた。冷たさを覚悟したのに、頬に落ちたそれは温かい。
もう少し目を開けば、それが見慣れた深い緑色の瞳だったことに気付く。
それからヘルミーナの肩から腰が暖かいもので包まれていて、それはフェルベルクのウールでできたブランケットの、匂いと肌触りがしたこと。
少しだけかさついた手で、素手になった両手を包み込むようにされていることにも。感覚が戻ってきた指を動かしてみれば、その人はぎゅう、と手を一度強く握ると、今度は両腕を開いて毛布ごとヘルミーナを抱きしめる。
「良かった……本当に……」
耳に落ちた声がじんわりと冷えた耳に暖かく、懐かしくて、ヘルミーナは今までの一部始終を思い出す。
気が付けば日はとうに落ちていて、辺りは真っ暗だった。ウィルヘルムの顔が見えたのは、側に
ずっと抱きしめていてくれたのだろう。
「今日は、二日目、の夜、ですか?」
「いえ、あなたがいなくなった当日の夜ですよ、ヘルミーナ様」
「さっき、空が、白いような気がして」
「たぶん瘴気がそう見えたのでしょう、雨の後、風に乗って一斉に飛びましたから」
たしかに雨の後に花粉は飛びやすかったし、濡れた花粉は細かく砕けてはじけるなんて言われていて――瘴気の灰色だったのか、と今更思い出す。体力がもう少しだけ残って外に出ていたら、危なかったかもしれない。
「瘴気……瘴気なら、ウィルヘルム様……どうしてここに……」
聞きたかった声と温もりに包まれて、ヘルミーナは恥かしさよりも安堵と心地よさに身も意識も委ねてしまいたくなりながら、それでも状況と互いの立場を思い出して問いかける。
「一人で山の中に放っておけなんて仰るのですか。……頑張りましたね」
切なげに、それから続く労るような声音。
ヘルミーナは、それはウィルヘルム様に知識をもらったからですと肩口でこぼして、その服越しに感じる肌の熱さに改めて驚く。
「お熱は」
「あなたにいただいた薬のおかげで、少し良くなりましたので」
「でも、まだ熱い……です。瘴気で悪化されたりしてませんか」
ヘルミーナはたぶん自分は冷え切ってしまっているけれど、おそらく測れるのなら高熱の範囲ではないかと思った。
「あなたを暖められるのだからそれで良いでしょう?」
「……良くないです。私……私など……探しに来て、領主様に何かあったら……」
「……本当はね、熱のことなど忘れていました。そんなことが……どうでもよくなるくらい、あなたのことが心配で……」
落ち着いている少し低い声が、かすれて、途切れ途切れに想いを伝える。
「……あなたが生きていてくれれば、何でもよかった」
声が耳朶を打った瞬間、ヘルミーナの胸が詰まり、まなじりから涙がこぼれた。
「……お嫌ですか?」
首を小さく振る。
「困らせてしまいましたか」
「……分かりません、私、駄目だって分かってるのに……」
喉が小さく震えて、次第に上下する。
「助けてくださってありがとうございます。でも、こんなことになって、巻き込んでしまって済みません。だから……今度はもう無茶をしないでください。どうか、生きてください、領民のため……違う、危険な目に遭わせてごめんなさい。私は本当に、私が、ウィルヘルム様に無事でいて欲しいのです」
泣いたら困らせてしまうと解っていても止められなかった。雫は頬を伝い、顎から落ちていく。
「……でも、分かっているんです、合理的でないって、でも、駄目なんです。とても嬉しくて……嬉しいって思ってしまいます」
「……大丈夫ですよ」
安心させるための優しい声が、嬉しくて、どうやってここまで来たのだろうと、探しに来てくれたことが嬉しくて。
「わたしだって非合理ですよ。あなたがいなくなったと知った時に――領主は私でなくてもきっと務まると思ってしまいました。もしかしたら、父もこんな気持ちだったのでしょうか。一人にさせたくない、共にいたいと」
「……」
「以前お話ししたように父と同じになることは恐ろしかった。……けれど、それよりもあなたを失うことに耐えられなかった。でも」
「でも?」
「こうも思いました。まず同じ状況にはならないだろう、と。
あなたとあなたのお父様が違うように、わたしは父ではない。あなたが生きていれば、わたしには共に生きて帰るだけの経験がありました……瘴気症に感謝したのはこれが初めてです」
きっと、とウィルヘルムは続ける。
「そう思えたのも、わたしがここまでこれたのもあなたのおかげです。あなたが領主としてのわたしも、そうでないわたしも支えてくれたから」
ヘルミーナはそれで、震える声で告げた。
「それなら私、お話ししたように別の人の記憶があって……だから。だから私、そんなに尊敬されるような人ではないのです……私ではないのです。私にはそんな能力なんか何もない」
「そんなことは関係ありません」
ウィルヘルムは体を少し離し、視線を合わせた。もう泣いていない彼は、いつものように優しく微笑む。
「わたしはあなたが照れた時の表情も、笑ってくれた時の声も、真剣に書物を辿る目の灰青も、支えてくれた時の手のひらも、全部があなたを形作っていると思います。記憶だけじゃない」
「そんな、ことは」
「わたしの手を好きだと言ってくれた時のように……頑ななほどの決意も、契約結婚を提案してくれた時に慮ってくれた優しさも、何度も登山をした努力も、」
ひとつひとつ思い出を辿るように、大事なもののかたちを確かめるように言葉を紡ぐ。
「山と森のために、何よりご自身のためにお父様に立ち向かった勇気も、フェルベルクを守ろうとしてくれた想いも、それはあなたのものですよ、ヘルミーナ様」
「……ウィル、ヘルム、様」
「もうわたしは十分、あなたから色々、いただきました。本当にたくさんのものを」
ウィルヘルムは恋をしないと知っているのに、まるで本当の妻を見るような愛し気な眼差しで見つめられたら、心臓が痛い。
「それに、領地の役に立たなくたっていい――いてくれるだけで嬉しいのです」
その言葉に。
痛くて痛くて、抱えられなくなった気持ちがヘルミーナの唇から零れる。
「私……これは私の勝手な言葉なのですが。契約違反だと、裏切りだと、困らせてしまうだけだと判っているのに」
ヘルミーナの声に涙が混じる。
それからまたふわりと抱きしめられたことが分かって、ぽたりぽたりと、目から零れ落ちたものがウィルヘルムの服を濡らしてしまわないように、しゃくりあげたヘルミーナは、涙を手の甲で拭う。
「違います、全部自分のためです。ここにいたかった。いつの間にか、あなたの側にずっといたくなっていたから」
ウィルヘルムはいつも、ヘルミーナのひとに見せられないような柔らかいところにそっと触れて撫でてくれるから。
困った顔をさせてしまうかと様子をおずおずと窺えば、まるで泣き出しそうな声が耳に届いた。
「それなら、もっと嬉しい。あなたが一人で泣くことがあるのなら、わたしの腕の中であればいいと願ってしまいます。……好きなのです」
その言葉に今度こそヘルミーナは小さく声を上げて泣いた。そんなことをしたのはとても遠い昔のことだった気がする。
「恋だとか愛だとか、他人がどう名付けるかは分かりません、でもあなたが傍らにいてくれることが、共に歩いてくれることが、もう二度と訪れないような幸運だと――それだけで嬉しいのです。笑った顔も、困った顔も、怒っていても、泣いていたって、全部」
ウィルヘルムの漏れ落ちるような言葉の一葉一葉が降り積もり、やがて山を豊かにして木々を育てるように、ヘルミーナを生かしている。
多分、初めて会った時からずっとそうだった。
「私は……好きでいて、いいのでしょうか」
「済みません。あんな風に恋などできないと言っておいて。あの時は自分の気持ちにも気付いていなかったのです。
訂正できないままに、あなたに惹かれていって――臆病で、卑怯者だと
左腕で抱きしめられ、背中をあやすように撫でられる。
右手の指が絡み、生きていることを確かめるように手の甲や指先を辿られる。
「……まだ冷えていますね。何か暖かいものを飲みましょうか」
「あともう少しだけ、このままで」
心配の滲んだ微笑の気配に、ヘルミーナは自分だけのために我儘を言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます