最終話 伐採令嬢とお花畑伯爵のたぶん平穏な新婚生活

 ヘルミーナは指先の感覚を取り戻してからしばらくそのまま肩口に顔を埋めていたが、ふいにこの姿勢はウィルヘルムが辛いのではないかともたれていた体を起こした。


「もういいのですか?」

「はい、甘えてしまってすみま……」

「謝らないでください。むしろ、頼っていただけて嬉しかったです」


 そっと手が伸びてヘルミーナの頬のあたり、アッシュブラウンの髪に遠慮がちに触れると、ウィルヘルムは慣れた手つきで傍らの自分の荷物から金属製の網やコッヘルを取り出しお湯を沸かした。

 お茶と、パンにチーズとハーブ入りの腸詰めヴルストを軽く炙って挟んでくれてそれを二人で食事にした。

 ヘルミーナの冷えた胃の中を温かいものが通る感覚があって、それから体の内側からじわじわと熱が広がる。

 長時間かけて体が冷えた時は同じくらいの時間をかけて温まった方が良いんですよ、と教えてもらいながら、大きな布の中で体を寄せ合っていると、しらじらと夜が明け始める気配があった。

 少しずつ、外に吹く風が弱くなっていく。




 頃合いを見計らって二人がいつの間にか岩屋の内側に入ってきたフィーダと共に、数十分ほどかけて採石場の小屋に戻れば、一斉に皆が振り返って歓声を上げた。

 一気に二人に殺到するものだからウィルヘルムがヘルミーナの肩を抱くようにして庇えば、それでまた騒ぎになった。

 一晩中心配をかけたとヘルミーナが言えば、ウィルヘルムが補足する。


「あなたが見付かった時点でグリートに手紙を持たせましたので大丈夫ですよ。テオフィルがここで、待機していたので」


 あの大きな雷は採石場の近くに落ちたのだそうだ。

 むき出しの岩場の濡れた表面を雷が広範囲に走った。その衝撃で倒れたのはヘルミーナだけではなくテオフィル含む複数人だったという。足首を捻ったテオフィルは小屋で待機せざるを得ず、連絡役になったという。

 

 ウィルヘルムの方はといえば、ヘルミーナの父親・ツヴァイク男爵を館へ連れて来た騎士から落雷の報を聞き、すぐに採石場まで来た。

 熱を押して登山する彼を館ではクラッセンが、事情を確認しに寄った村でも、小屋では勿論テオフィルも、一度戻って捜索状況を報告し合っていたアロイスもエメリヒも、他の騎士たちも――皆猛烈な勢いで止めたが、誰も彼を諦めさせることはできなかったのだそうだ。


 初めに折れたのはテオフィルだったという。

 ウィルヘルムがあれだけ必死になったのを見たのは本当に久しぶりだったそうだ。後日「ここで止めたら今度こそウィルヘルムは立ち直れないと思ったんです」と小声で話してくれた時の顔は、彼の幼馴染のものだった。


 そしてウィルヘルムと騎士たちが手分けして木に付けられた毛糸の印を辿るうち、空を飛ぶグリートに、眠ってしまったヘルミーナの代りにフィーダが気付いてくれたおかげで、それにランタンの灯りで彼女を見付けられたのだそうだ。 

 二羽のノスリはその後しばらくの間、ご馳走を与えられて満足そうだった。




 山を降りたヘルミーナは、ウィルヘルムに改めて山であったこと、父親とのことを話し、ウィルヘルムは男爵の一件を王城に報告した。

 爵位はダミアンから剥奪となり、男爵位はまだ若い弟のユリウスが継ぐことになった。留学を控えていることもあり、領地経営の実務の補佐と後見人として、ウィルヘルムとヘルミーナも名を連ねることになった。

 ダミアンと部下のギルマンらは罪の重さからしばらくは牢に入ることになった。絶望も憎しみも、だが刑期が終われば商会の長としてはフェルベルクという取引先が保証されているので、さほどではないだろうとヘルミーナは見ている。最悪は避けられている。少なくとも破滅的な行動をとってしまえば次はどうなるか判断できるくらいの理性は残っているはずだ。

 その後二人は王都で弟のユリウスと再会して様々な事後処理などを話し合い、侍女だったテレーゼともお茶をして彼女の結婚の予定を聞いて喜んだ。


「どこまであなたのお父様と争うか迷っていたのですが、あなたからツヴァイクの森を奪いたくなくて」


 と、ウィルヘルムはヘルミーナに話した。妻を害そうとしたこと、フェルベルクの森を未遂とはいえ燃やそうとしたことは決して許すことはないが、ツヴァイク家がなくなってしまえば彼女が育った森を奪うことになる。

 落ち着いたら一緒にお母様のお墓参りに行きましょう、と彼が提案した時には、ヘルミーナはまた泣いてしまった――どうも最近ウィルヘルムの前では涙もろい自覚がある。


 王都で商売のために顔を出したパーティーでは、元婚約者のゲオルクも可愛らしい婚約者と参加していた。会話こそなかったが、目が合うと彼は微笑んで「良かった」と口が動くので、ありがとうとヘルミーナも口の動きだけで返した。

 彼らもそれなりに上手くやっているようだ。

 あの別れの後でも、騎士として王城での騒ぎを知った彼は、その後ツヴァイク男爵の動向に注視して、王都にいる間はウィルヘルムへ報告してくれていたのだと知った。


 それから、王家からは今まで過分に認められていた家長の権限を制限する法律改正が議会に提出され、審議に入っている。ほどなく、賛成多数で可決される見込みだ。




 ――王都では季節が春から初夏に移り変わったある日のこと。

 ブラウにある泉の館クヴェレの青い屋根を染め、空を覆う薄い灰色は、ヘルミーナが初めて山を訪れた時に比べて薄くなっていた。


 花粉のピークは過ぎた。

 ピケアの伐採が少しずつ進み、また瘴気の原因となる魔物の始末や虫の排除などの対処が進んだ。更にそれによって残るピケアも瘴気に侵される頻度が減り、花粉と一緒に排出する必要が減りつつある。 

 瘴気が最も減る冬には女王陛下が視察に来ることになったが、いつかこの景色もその冬くらいの色合いに戻って、それからもっと良くなるに違いないという確信がある。


「あと数日でウィルヘルム様のお誕生日ですね」


 二人きりでお花畑にある別邸の周囲を散歩しながら、ヘルミーナは口を開いた。

 足元にはウィルヘルムが話していた青い鈴蘭のような花が、あちらこちらで可憐に風に揺れている。高山地帯のここは春が遅く、長い。


 一週間ぶりの再会だった。

 ウィルヘルムはやはり春の長時間の地上暮らしは難しく、花畑の家に上がったからだ。でも、手紙のやり取りは続いているし、それでも会いたくなった時にはこちらから会いに行くからそれでいいとヘルミーナは思っている。

 冬になれば花粉も飛ばず、冬山登山の危険を避けてウィルヘルムは地上に暮らすからそれまでの少しの我慢だ。

 そう、それが我慢だと思えるくらいにヘルミーナは我儘になった。


「お誕生日はここで過ごされますか?」

「そのことなのですが、誕生日は下に降りて館で過ごすつもりです。それから、聖ゲルトラウデの薬草や薬はわたしにも効果があるようでしたから……夏からはなるべく地上で過ごすようにします。できれば、毎年」


 どこか遠慮がちにウィルヘルムが言うので、ヘルミーナは嬉しくも少し心配になる。


「……お体に差し障りがあるのでは?」

「無理はしません。わたしがそうしたいのです。今年は夏にはあなたを紹介したいので、各地を視察に回りたいですし……以前お約束したように、各地の産業をご覧になりたいでしょう」

「はい。楽しみです」

「見せたいものも沢山あるんですよ。夏の湖面に秋の紅葉、冬には湖に花のように咲く氷もありますし……」


 ウィルヘルムはフェルベルクのあちらこちらのことを楽しそうに語った。今まで隣にいるということが当たり前ではなかったから、これから一緒に見られるということが、そう思ってくれることが、ヘルミーナにはとても、とても嬉しい。


「そしてそれまでに、この前お話ししたようにちゃんと披露宴をしたいなと思っています。代替にはなりませんが、結婚式がああいったものでしたから」


 そこで一度言葉を切った後、目を少し泳がせて。


「それから、少しずつ……その、もっと夫婦らしくなれたらと」

「夫婦らしく、ですか?」

「館を改装したり……あなたの執務室を作ったり、その……部屋の配置を……模様替えをしたり……」


 言い淀むウィルヘルムが何を言いたいのか察して、ヘルミーナは徐々に頬にのぼる熱を感じた。


「それは、その、あの……」

「つまり寝室を一緒にしたいなと――もちろん嫌でしたらご意思は尊重しますし、その日から何かが突然変わるわけではない……つもり、ですが」

「いえ、一緒にいられる時間が増えるのは、とても嬉しいです」


 ヘルミーナは遠慮がちな言葉に即座に返答してから、恥ずかし気に付け加えた。


「ただあの……希望を言っても良いですか? 私、カーテンは深緑が良いのですが。フレナグの花も飾りたいです。ウィルヘルム様がお部屋にいなくても思い出せるように」


 その言葉にさあっとウィルヘルムの耳と瞼と、それから頬が紅潮した。


「ああ、ええと……そう、そうですね。いいと思います……」

「ウィルヘルム様のご希望は?」

「部屋というよりも……一番の望みは目覚めた時にあなたが側にいてくれて、わたしの名前を呼んでくれること、でしょうか」

「……ではウィルヘルム様の名前を呼ぶために、ずっと健康で健脚で、長生きしますね」


 ヘルミーナが頬を染めながら優しい春の風を胸いっぱいに吸い込んで稜線の上に広がる空を見上げれば、その先には抜けるような青が広がっている。


「今はお花畑だけで見れる青い空ですけど、この景色が山の下までずっと続くようになるまで、何年でも何十年でも生きて……ウィルヘルム様が春にブラウで息を思いっきり吸い込む姿が見たいです」

「……それだけ長いのでしたら、今少し、視界をわたしだけが独占してもよろしいでしょうか」


 返事をする間もなく優しく手を引かれ、頬に触れられる。何度かの触れ合いで覚えたウィルヘルムの平熱。

 優しい香りが胸を満たす。花畑の香りだ、とヘルミーナは思った。


 視線が自然と引き寄せられれば、柔らかく微笑む深い緑の瞳に映る自分は幸せそうに微笑んでいて――そして灰青の瞳もまた、彼に見せてくれているだろうか。


 あなたと、あなたの森を。






『伐採令嬢とお花畑伯爵のままならない結婚生活』了

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伐採令嬢とお花畑伯爵のままならない結婚生活 有沢楓 @fluxio

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