第26話 森林限界へ

 登山靴にウールの靴下、久々のズボンに、ウールの下着をはじめとした透湿と体温調節を考えた重ね着レイヤリング

 新しい登山服はプロに仕立ててもらっただけあって、突っ張らず自然に体に寄り添うので動きやすい。

 今日はやっと山に登れる日だ、と思うとヘルミーナの心臓が緊張と期待で騒ぐ。


 花の祭り翌日出発を予定していたウィルヘルムの山への帰還は、彼がヘルミーナを誘った予定外によって――体力の回復他もろもろのためと、これ幸いと結婚のお祝いをかねて泉の館クヴェレに詰めかけた街の名士との打ち合わせが増えたため、それから雨が降ったために数日延期になった。


 その分ヘルミーナは登山の準備と打ち合わせをしたつもりだ。今度こそ高山病で途中下山なんてことは避けたい。

 テントや雨具の使い方も火のおこしかたも学んだ。お花畑は一見美しいだけに見えるが、雨天に加えて風が吹けば低木しかない分吹きさらしで、体温をどんどん奪っていくのだという。

 それから簡単な登山計画書も執事に渡した。内容は誰がどの山にどこから登る、おおよそこの時間にどこに到着する――というもので、万一遭難した時に役に立ってくれるだろう。これは今後領地のシステムとして取り入れたい。


「足は痛くありませんか?」


 登山を開始して少し、ウィルヘルムに問いかけられて頷く。

 登りは紐を締めすぎないようにすると足首が痛まず、帰りは逆に足首まで固定すると靴の中で滑らないと良い、とのアドバイスに従って自分で紐を結んでみたが、たぶん大丈夫だ。


 以前より運動で体力が付いたのか、実家よりバランスの取れた食事のせいか、二回目だからなのか。以前訪れた山村は前回よりも早く見えてきた。

 休憩のたびに体調は、頭痛は、呼吸はどうかと尋ねるウィルヘルムに、「お城の中を歩き回った甲斐がありました」とヘルミーナは答える。

 するとその時、バサバサと翼を羽ばたかせたブラウノスリが一羽が舞い降りてきた。ウィルヘルムが手袋――肌を隠すためのものではなく、鷹狩用の革製のグローブを少し持ち上げるようにするとぎゅっと捕まるように留まる。


 下山してきたときに彼が連れ帰ったブラウノスリのグリートだ。領主である以上は普段の世話を村や部下に任せてしまっているが、長い付き合いで互いに慣れている。

 魔物が周囲にいないか偵察に出しており、羽根をそっと撫でると満足そうに小さく鳴いた。


 ラーナ村に入ると、小屋で小休憩ののちに村長たち村人と計画の相談に入る。

 伐採を始めるにあたって村人の力を一番初めに借りることになるからだ。作業に使用する山道の選定から新たに道を引く場所、伐採を開始する場所を決めて、初めての製材を村所有の製材所で行うことになる。

 差し当たり村の人々とウィルヘルムたちで見学する日の詳細な予定や、騎士団や林業関係者で大規模な調査を行う日の調整などなど具体的に進んでいく。


 ヘルミーナは、地図の縮小版を広げて自身の案が修正されながらも通っていくことに嬉しさと、そして緊張を覚えていた。

 専門用語を交えて行われる会話の内容はあっちに飛んだりこっちに飛んだり、けれど全て筋が通っている。彼女自身は取りこぼしながらなんとか最低限の筋を追うだけで精いっぱいだ。経験不足を実感しつつ、それが採用されるとなれば怖気づく自分もいる。

 専門家に相談するし、最終的な責任は自分が取る――とウィルヘルムは言ってくれたけれど。大規模な林業が無事故とはなかなかいかないだろう。

 領主という立場の重みがずしりと自身の肩にものしかかるようだった。

 ヘルミーナは王都や屋敷の中で合理的に振舞うことはできても、こうして実際に顔を突き合わせてなおやり通すというのは、覚悟がいるのだなと実感する。

 それも時には自分よりずっとある種の経験豊富な、年上で、体格の良い、声が大きい男性たち相手には。


「領主様が決心してくださって良かったですよ。ご結婚されて覚悟が決まりましたか」


 ゲラルトという、鷹匠で村人のリーダー格であるという白髪交じりの男性がウィルヘルムの肩を叩いた。


「実は妻が背中を押してくれました」

「ほほう」


 ゲラルトが面白そうな声を上げると、その場にいた村人たちの視線が、端に座ったヘルミーナに一斉に向く。

 可能なら注目を集めたくなかったが、向いたのならば言いたいことはある――というより、黙っていられないことを分かってウィルヘルムは紹介してくれたのかもしれない。

 ヘルミーナは喉を鳴らすと、


「森林へのアクセス向上は山の状態を良くし、登山や林業以外の安全性も高めてくれると期待しています。

 私も視察させていただければと思いますが、今後私のように山に慣れない人間のために、登山道や道の看板や共通の印を使うことで遭難などを防げればと思うのですが……。

 それから、瘴気が木材に残す影響と、皆さんが瘴気症にならない習慣などに心当たりがないか伺いたく……」

「……そんな訳ですので、彼女にもブラウノスリを一羽あげたいのですが」


 ウィルヘルムが長くなるヘルミーナの言葉を柔らかく遮れば、ゲラルトは更に笑い声をあげた。


「確かに、ふつうのご令嬢は登山などしませんな。ええ、お好きな鳥をお選びください」

「ありがとうございます」

「ブラウノスリは非常に賢い子ですよ。主の顔をしっかり覚えますし、忠誠心に篤く気性も穏やかです。他の鷹より重くありませんしな」



 会談が終わった後、ヘルミーナが鳥小屋を見て回っていると、訓練中だという一羽の若いノスリに目が留まる。

 一般的に猛禽類はオスよりメスの方が大きいと聞くから、この子はメスなのだろう。


「この子、青い筋がちょっと飛び飛びなんですね」


 羽根を広げて水浴びをしていたノスリが、こちらを向いてからふい、とそっぽを向く。

 どのノスリも羽根の内側に一直線に青が引かれているが、このノスリはちょっと途切れていて、筆でわざと絵付けされたようにも見える。


「機嫌を損ねてしまったでしょうか。個性的だなと思っただけなのですが」

「少しずつ慣れていきましょう。フィーダ!」


 村人が扉を開けて、慣れたように呼んだ。素直に彼の方を向いたノスリは誘われてやってくる。ヘルミーナをじいっと見た後、仕方なさそうに彼女の革製のグローブをはめた腕に乗った。

 ずしりと、命の重みが腕にかかる。

 そっぽを向く鳥と目線をどうにか合わせての胸毛のあたりをくすぐるようにすると、ノスリはクゥと小さく喉を鳴らした。まんざらでもないらしい。


「……フィーダ、これから宜しくね」


 少し慣らしたところで一旦村人の青年に預ければ、彼はフィーダを連れたまま一番近くの立ち枯れの木へ連れていく。

 腕を伸ばし、木に向けて腕を強く振る――その勢いに乗って飛び立ったフィーダは風を翼に受けて木に一直線に突っ込んでいく。

 衝突するかと思われた瞬間、飛び散るように虫が吹き出た。ぶわりと広がった虫の黒が遠くには飛べずピケアの周りをくるくると旋回して様子を伺っているようで、その中をフィーダが舞い、戻ってくる。

 そのくちばしには器用にも一匹の虫を咥えていた。

 村人が虫を受け取る代わりに器から肉の切れ端を与えると、つんと澄ましながら頬張って飲み下した。


「虫を見せていただいても? ……この虫は若いですね」


 ヘルミーナは手袋をはめた手のまま村人から虫を受け取ると、初めて生きている虫をじっくりと観察した。

 魔物の虫とはいってもそれらしいまがまがしい形はしていない。小さな黒いゾウムシか何かのようだ。おそらく体の先にあるくちばしか鼻のような器官で穴を開けるのだろう。羽根には薄く灰色の瘴気が付いていた。


「村ではこの虫を何と呼ぶのですか?」

「灰穴虫です。由来は樹にあけた穴から木屑などの灰色の粉を出し、ピケアの花粉も灰のように変化させるからです」

「灰に変化……以前いただいた木材のサンプルは樹皮でしたが、小口が見てみたいですね」

「それなら切株がこちらに」


 すぐ近くに何の用で切り倒されたのか、ヘルミーナの膝くらいの高さの切株があり、ピケアの断面がはっきりと見えていた。

 近づいて屈めばぼろぼろの樹皮に小さな穴が開き、それから年輪の側の、道管や師管がありそうな部分も食われている。

 そしてそこを中心に黒い色がもやもやと、水に墨を落としたように同心円状に広がっているのだが、中央の心材と呼ばれる部分には何も異常が見られなかった。


 静かに観察していたウィルヘルムは変色部分を指さし、


「黒い部分が瘴気のようですね。心材に影響がないならこの辺りは木材として使えそうですが」

「心象と価格を考えると、見える形では抵抗が大きそうですね」

「ええ。やはり薪にした方が安全でしょう。……そうですね」


 顎に手を当てて考え込む様子のウィルヘルムに、ヘルミーナが視線を合わせて続きを促す。


「神話や伝承は非合理と言われるかもしれませんが」

「いいえ、お聞きしたいです」


 伝承と呼ばれるものの中にも、実際は化学でも裏付けられるものが含まれているということはあるかもしれない。それにこの世界では数少ないが聖教による奇跡を起こす人々も魔法使いもいる。ごく少数で、王家でもなければ滅多に関われないと言われているが。


「瘴気はそもそも、地下の混沌の王よりもたらされた魔物が肉体を構成するための魂かのようなものだといいます。魔物の中にしか本来存在せず、死してはゆっくり肉体と共に地下に帰ると。ですので、魔物の虫と呼んでいたのですが……」


 思い当たるといって語り始めたのは、この前聞いたフェルベルク領の歴史にも重なる話だった。

 歴史上、この辺りは何度か魔物との戦いの舞台になったという。ウィルヘルムの曾祖父母の時代にも魔物が突如として現れて、人々は国王の下に一体となって戦った。

 この山は防衛拠点として多くの魔物を倒し、その際に多くの樹木が伐採された。建物を作ったり、家具を作ったり、防衛のための柵を作ったり。

 植えなければはげ山になってしまうから植樹が必要だが、その際には成長が早くまっすぐ育つ樹種として、扱いやすいピケアの比率を増やした。これには王の要請もあったようだ。


「ここまでは亡き父から聞いたことがあります。それから、魔物の死体は人と同じように分解されるが、その際に瘴気を出す。少しずつ大地によって浄化されるが、それ以外では燃やすしかないと……」

「……ウィルヘルム様のご両親が、他界されたのは……」

「ちょうど10歳でした。……だからでしょうか。先の二つの話の中に魔物の死体が存在しないのは」


 言葉を切って、ヘルミーナが捕らえている虫を見る。


「……この虫を単独で飼育する価値はあるかもしれません。灰穴虫は魔物でなく、死体と樹を媒介するだけなのかもしれません」


 おそらく貴族の女性に聞かせるには恐ろしい部分を意図的に外して、ウィルヘルムは虫を受け取った。


「虫が樹に注入するのか、死骸が土壌を汚染するのか、両方か。

 となると……先王が危惧していたのはこの山の保全というより死体の管理なのかもしれません」


 まだ子供であったウィルヘルムに、執事にも詳細を伝えずに領主夫妻は他界した。だが先王はそのようなことなど知らずに婚姻を要求していたのだろう、というのがウィルヘルムの見立てだ。


「……恐ろしくありませんか」


 それからウィルヘルムが遠慮がちな声でヘルミーナに問いかけたのは、嫁ぎ先が恐ろしい場所で後悔したかということだろう。

 だがヘルミーナは首を振り、微笑する。


「死因はともかく、過去を遡れば死体の埋まっていない場所など存在しないと聞いたことがあります。魔物に限らず、動物、戦争、病死……最近のことでもないですから」


 全く気にならないといえば嘘だが、それでフェルベルクの山を全部嫌いになるようなことはない。

 それよりも、生まれただけで勝手に負わされるものがどんどん増えていく領主という立場は大変だと思って、重荷を分け合える信頼を得たい気持ちの方が強いだけだ。




 その後小屋で休憩を取り、ヘルミーナたちは登山を再開した。

 勾配は少しきつくなり、登山道は両側から浸食する草によって、それ以外や獣道との区別をあいまいにする。

 自分一人で登ったらあっという間に遭難してしまいそうだ。

 それでもこの道に、急斜面やロープで渡るような場所、沢、石で埋め尽くされているような不安定な場所はなく、比較的登りやすい。


 適宜休憩を取りながら歩くたび、ひんやりと肌に触れる空気が冷たさを増し、空から降り注ぐ光が明るくなり、視界に入る木々の数が徐々に少なくなる。そしてある時一気に視界が開けた――森林限界を突破したのだ。

 

 足元の草花の様相が変わり、見たことのない花が咲いている。

 高木が消えて低木と膝丈ほどの草が増える。


 ロープウェーの黒い線が空の低い場所を切り取っているのが見えた。終点に見える小屋が、荷物を受け渡すための小屋兼倉庫兼、山小屋だという。


 もうすぐですよという言葉通り、その木の小屋の側に立った時、視界の先に一軒の家が現れた。

 以前ウィルヘルムは小屋だと言ったが、王都の一軒家ほどの大きさはある。木造りの素朴で優し気な佇まいが隣に立つ人を思い起こさせた。

 そしてその周囲には、色とりどりの花の絨毯が広がっていた。

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