第27話 お花畑の家

 まだ沈むには早い太陽が、流れゆく雲の合間から高地を明るく照らし出していた。

 あちらには白、こちらには青、そして向こうには黄色やピンクの花弁が揺れる。緑色に広がる絨毯の上で布を継いだように花々が視界に飛び込んでくる。

 同じ色がまとまっているかと思えば、丈の低いクロッカスの種々の色もあり、フレナグの花も群れて咲いている。白のほかに濃淡のピンクや紫、穂先だけ染まっているものなど様々な丸い花が見えた。


「地上より春が遅いので、これからもっと見事に咲きますよ。青い鈴蘭のような花がとても綺麗で……」


 ヘルミーナが景色の美しさに見とれているのを認めて、ウィルヘルムはマスクを取る。彼が新鮮で汚染のない、ほのかに甘く香る空気を遠慮なく吸い込んで吐けば、ヘルミーナはついと視線を向け、初めて見る姿に目を瞬いた。

 ゆっくりと胸が上下して緩んでいく頬には何の忌憚もない笑みがさざ波のように広がって、光の入った虹彩に新緑が見えた。


「王都で呼ばれるわたしの“お花畑伯爵”という名は揶揄だとは分かっていますが、……それでも。この景色を見たことがある貴族がどれほどいると思いますか?」


 少しだけ自慢げに感じるのは気のせいではないだろう。様々な芸術や文化が集まる王都にはない自然の――厳しさを含んだ美しさがここにはあった。移り変わる空の色も流れる雲も、遠くに見える山々の稜線も、花々の香りも。


「フェルベルク領は南と違った高山植物が咲くのですが、かつての聖人がたもこれらの植物を使った薬の処方を書き残しています。平地より交配が遅いのか、古い種が多いのも特徴です」


 ふと新緑に見とれていたことに気付いたヘルミーナは、無意識に口元に手をやって何とか言葉を返す。


「植物がお好きなのですね」

「……ええ、ひとよりは多少。それでは参りましょう」


 そう返す表情にはにかんだものを浮かべたまま、ウィルヘルムは小屋を目指してヘルミーナと歩調を合わせながら歩き出す。

 下部を石積み、その上に木と漆喰で作られた家は素朴ながら貴族にふさわしい上品さも備えていた。

 

 迎えてくれた屋敷の管理人トビアス・ノックスは屈強な体躯の40代の男性で、てきぱきとしていて規律正しい雰囲気があった。聞けば元騎士だという。

 共に行くことは手紙で伝えてあったので、彼によって既に全員分のお湯も食事も用意されていた。

 屋敷の中は清潔で居心地よく作られ、地上の人々の暮らしと何ら遜色がないように見えるのはロープウェーのおかげだろうか。

 凝った装飾や高価な家具もないが、防寒のためのタペストリーや絨毯、それにブランケットなどの織物がそこここに配置されている。

 石造りの暖炉には既に火が赤々と燃えており、ぱちりと火が爆ぜると扉から吹き込む空気の涼しさをかえって実感する。


 荷物の整理と一通りの部屋の案内をされた後、夕食を囲んだ。

 ウィルヘルムは勿論、テオフィルもエメリヒも、トビアスも。ここでは使用人も同じ食卓を囲むことが多いのだそうだ。

 温めたパンとチーズ、それに焼いた豚の塩漬け肉と鮭、焼いた太い葱リーキ、キャベツのスープは心まで温かくなる。暖炉で炙ってとろけたチーズをパンに乗せて、口の大きさに余るそれを頬張れば、ウィルヘルムもテオフィルもわざともっと大きな口を開けて食べたので、ヘルミーナは小さく声を上げて笑ってしまった。


 思ったより豪華な食事に普段はどうしているのか聞いたところ、屋内には食品類は勿論、生活必需品・医薬品が揃い、地下にも倉庫がある上、ロープウェーの小屋も山小屋としても使える蓄えがあるため、何かあっても複数人で一月以上は耐えられる程度の備蓄があるのだという。

 冬の大雪の日などはロープウェーも動かせないので、その備えの薪や防寒具、修理道具……諸々、備えてある。

 伯爵でありながら、ウィルヘルムも山暮らしの一通りの仕事はこなせるそうで、食事後に家の中を案内してもらいながらヘルミーナは薪割りも体験させてもらった。


 それから執務室の机の周囲には、山の上とは思えない量の書籍や書類が整理して並べられていた。

 執務室兼会議室といった趣で、テオフィルたちと打ち合わせをするのだろう会議スペースも置かれている。


 そして夜。

 執務室の続きになった寝室のベッドに、ヘルミーナは一人で座っていた。

 どうにもお尻が落ち着かない。

 何故なら一応壁で区切られているものの、扉がない。

 それで朝まで、テオフィルら従者の部屋にウィルヘルムを追い出してしまったからだ。本来の主人に譲ってもらうというのは何とも居心地が悪かった。


 足指や傷、体調の不良を確かめて何も問題ないことを再確認すると、ヘルミーナはうんと足を延ばして床に降り立った。

 軽いワンピースにウールのカーディガン、その上にブランケットを何枚か羽織ると、夜の闇が忍び寄る窓際からランタンを持ち出し、そっと部屋を抜け出す。

 なるべく静かに階段を降りると、玄関脇の椅子で護衛に務めるエメリヒと目が合った。普段と違う革製の鎧なのは、金属鎧が重くて寒さにも雷にも弱いからだ。

 彼にちょっとそこまでと告げる。

 ――と、眉をひそめられた。


「そこまで、とは奥様らしからぬあいまいさですが、ご用事なら申し付けていただければ」

「……じゃあ入り口で待っていてくれる? ほんのちょっと景色を見たいだけだから、視界から外れるところには行かないわ」

「かしこまりました」


 扉が開かれると、ひゅうと涼しい風がヘルミーナの髪を揺らした。風に乗るようになびかせながら、段差を駆け降りる。

 迫る夜の闇と太陽の沈む前のオレンジ色、それに薄い青が空の中で溶け合って、刻々と昼と夜を交代しようとしている。

 まだ光に照らされている植物の花弁が艶めきを失いつつある。

 背後を振り返れば明かりを持ったエメリヒが立っているのが見えた。


 なるべく離れないように、良い感じのロケーションを探す。

 少し先で白い七枚の花弁に黄緑色の中心が可愛らしい高山植物、たしかウィルヘルムがクラウトと呼んでいた花が群れて風に揺れている。

 その近くに水のかすかに流れる音がして1、2メートル先を辿れば、ちろちろと鳴る小さな流れの水面が光っているのが見えた。

 せいぜい足首ほどの深さの流れだ。

 浸してみたいという衝動に駆られるが、夜を目前にするのは初心者には愚行だろう。


(また今度、もう少し暖かくなった昼、青い花が咲くころに取っておこう)


 ……と、思っていたのは甘かった。


「あっ」


 見えない草地の中に大きめの石を踏んづけてしまったヘルミーナは、体が傾いだ。一方の手にはランタンがある。

 万一割れて草に燃え移ったら、いや水があるし湿っているからそこまででも、壊したら――と考えるうちにバランスが崩れて、持つ手を掲げながらもう一方の手と、そして膝が着水しそうになって。


 腰を支えられたヘルミーナは間一髪、倒れずに済んだ。


「エメリヒ? これは別に調子に乗った訳ではなく……」

「大丈夫ですか――まさか、ご気分でも悪いのですか?」


 慌てて振り向けば顔に程近い場所に、深緑の瞳があった。つい近くにいたエメリヒが駆けつけてくれたものと思っていたのだが、どこにいたのだろう。


「旦那様、でしたか」

「……エメリヒの方が良かったでしょうか?」


 そっと両腕の体温が離れていき、ウィルヘルムがほんの少し困ったように微笑む。


「一人で抜け出してきたものですから。旦那様はお仕事中かと思いまして……旦那様で良かったです」


 慌てて弁解をしながら、ヘルミーナは何故弁解しなくてはいけないのだろうと思いつつ、やはり彼の素顔が見られて――感情が少し捉えやすくなって良かったと思う。

 マスクだけではない。領主という立場のせいか、城館の中でも見られることを意識して感情の制御をしているように見えた。


「……ここなら旦那様が思うように息ができるのですね」


 視線を投げた遠くの、ここよりも標高の低い場所は黒々と木々が茂っていて、ただこの周りだけは緑の草地が続く。

 明日の朝は、灰がかっていないもっと綺麗な空が見られるだろう。

 こんな景色を知ってしまったら地上に戻るのも億劫になるだろうなとは思う。瘴気症だけでなく、領主の立場も、王都の好奇や蔑みの目も、領民や城館の人の目すらない。

 それでもきっとウィルヘルムは立場を投げ出していないけれど。


「地上でも少しずつそうなれば良いですね」


 ウィルヘルムの肌は以前より赤みやぽつぽつも少し薄くなっている気がする。そんな風に良くなっていけば、きっと心持ちも領地も良くなっていくに違いない。

 伐採と植樹が終わるには長い時間が必要だが、きっとこれからもっと良くなる、そんな気がする。

 外は陽が沈んで徐々に闇の帳を下ろしていくけれど、深い緑の目に今は昏いものは見えない。

 

「……どうかされましたか?」

「いえ、本当に、済みません。なんだか最近は以前よりお元気そうで、本当に良かったなと……」


 安堵の息が漏れて口元が自然に笑ってしまったので、ウィルヘルムは首を傾げた。


「ヘルミーナ様こそ、自然に笑われることが増えた気がします。フェルベルクが気に入っていただけて嬉しく思います」

「そうですね。ブラウも好きですし、山だって何回でも登ります。登って、ここからの四季も見たいです。

 そして離婚してもこの領地のどこかで暮らす許可をいただけたらなと……そうですね、二、三年したら……ここを退いて、お仕事のお手伝いか、修道院にお世話になると思います」

「……離婚、ですか」


 固くなった声に気付かず、ヘルミーナは空を見上げる。


「ええ」

「あの、あなたに何か無理をさせるつもりはありません。……結局のところ領主を続ける結婚が条件、というのは後継の問題に直結しますので、こちらは養子を取ることになると思いますが。

 それに、もし、……あなたに好きな方ができたなら、遠慮なく話していただければとは思いますが」


 声にどこか湿ったものが混じった気がして、ヘルミーナはウィルヘルムの方へ顔を向けた。

 何故だか困ったような顔をしているように見える。


「確かに寝室が別の件は気を遣っていただいているとゾフィーから聞きました。でも、それは違います。私の事情ではなく」

「済みません。……契約結婚である意味安心してしまって、今後の後継ぎのことは決めていませんでしたので」


 おかしい。

 まだ彼の心は元婚約者にあるのではないか。あるいは、その件を秘密にしているくらい線を引いている関係だったら、早く離婚した方が彼のためになるのではないかと思っていたのに。

 そんな風に思いながらどう話せば良いのか言葉に迷う。


「ですから、違います。というより以前からお話ししていたように、私はお邪魔になると思います。旦那様に好きな人がおられたら、できたら――」


 ウィルヘルムの凪いだ言葉が少しずつ波立ってくるようで、ヘルミーナは急いで言葉を継ぐ。

 そこに今までで一番きっぱりとした言葉が辺りに響いた。


「好きな人はできませんよ」

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