第28話 家族
「好きな人はできませんよ」
「それは、どういった意味の……」
ウィルヘルムは真剣、というよりどことなく思いつめた視線でヘルミーナの焦燥から戸惑いに変わる顔を見つめ返す。
「わたしには恋はできません。してはいけないのです。
政略結婚が主流のこの貴族の間でこれが欠点になるとは、先日の女王陛下のご結婚まであまり想像していなかったのですが」
「……」
そこまで話してから不味いと思ったのか、ウィルヘルムの視線がわずかに泳ぐ。
「その……あなたは、以前の婚約者と……申し訳ありません」
「いえ、尤もなことです。私が旦那様に口を出す資格はありませんでした。私と婚約者の……ゲオルクの間に愛はなかったのですから」
そっと、ウィルヘルムの口から吐息が漏れた。
寄せられた眉に苦悩が見て取れるのは、話すことではなく思い出すことが苦痛なのだろうか。
唇を噛み、開けかけては閉じる。
ヘルミーナが何か一つ間違った言葉をかければもう何も話してくれなくなりそうで、黙って続きを待った。
沈黙が耳に痛くなりそうになったころ、彼はヘルミーナのランタンをそっと取って、傍らの平らな岩に置くとそこに腰掛けた。
軽装のチュニックの上から羽織っていたブランケットを岩の上に広げて促すのは、そこに座って欲しいという意味だろう。
ヘルミーナがそれに従って腰を下ろせば肩が触れた。
「……わたしの両親が他界したことは、隠すことでもなかったのでご存知のようですが、他に詳しいことを誰かから聞いていますか?」
凪いだ声だった。
「ええ。クラッセンさんから、山の中で馬車の事故で亡くなったと……」
「14年ほど前リュッケン山という……まだ見えるでしょうか、そちらの山で事故がありました」
ウィルヘルムの素手の指先がなだらかな山のひとつを指す。
「あの月は大雨が長かったことを覚えています。地盤が緩んでいたのか落石があり、避けたはずみで馬車が転倒し、斜面を滑り落ちた、と護衛の騎士が報告してくれました。
あの時馬車に乗っていたのは三人。御者はほぼ即死、母も重傷を負いました。
馬で護衛していた騎士数人は幸いにも滑落も落馬もせず、軽傷だったそうです。斜面の下に転がった馬車の中から『事故を報告して救援を呼べ』という父の声がしたとある騎士は答えています。
子としてはすぐに助けて欲しかった気持ちもあります……勿論二次遭難も起こらず、彼らがいたからこそ遺体を発見できたのですが」
山のくぼんだ所に落ちてしまえば、声が周囲に反響して位置が分かりにくいのだという。結局発見したときには、父親はもう息絶えた後だった。
淡々と話すのは、苦しさを押し込めているように見えた。揺れる緑がきっとその日の夜の山の緑を映しているのだと思ったとき、ヘルミーナの胸が苦しくなる。
手が自然と伸びて、背中にそっと触れた。
「……父は母を抱きしめて死んでいました」
その時、喉が震えるように声が吐き出された。
「数日、その場で生きていたようです。焚火の跡や重症だった母の手当てをした様子もありました。
ひとりだったら生き残れたでしょう。父は生き延びることより母を選んだ。領主としては正しくなかった……かもしれません。同時に母を助ける夫としては理想的でした、寄り添っていたのだから」
「でもそれでは、あなたは……」
「……息子のことはあまり頭になかったのかもしれません。まあ、わたしは瘴気症のこともあって安全な館にいましたから。
母を見捨てたら父を軽蔑していただろう、そう思うのに……わたしのために生きて欲しかったと思う自分もいます」
それでも、寂しくないはずはなかっただろう。ヘルミーナは背中をさする手が役に立っていないことが口惜しかった。
ヘルミーナは父に見捨てられた母を思い出す。日に日に弱る母を、薬草でも医者を呼ぶお金を作ることもできずに助けられなかった無力も。ただ、突然ではなく互いに別れを惜しむ時間を作ることはできた。
「ですからわたしは恋をするのは恐ろしいのです。今大事なものが、大事だと思えなくなるかもしれない。支えてくれたテオフィルやクラッセンやラーレや、皆を裏切るかもしれない。
……父のように、領地も家族も全てを捨ててしまうかもしれない」
政略結婚であれば愛は芽生えないだろう……が、ないとも言えない。それも、もしかしたら領主の仕事としてでも、結婚にがむしゃらになれない理由だったのだろうか。
「その時、だから瘴気が蔓延するのは罰だと頭のどこかで思いました。神か悪魔か分からない誰かの、領主と領主が見捨てた土地への……全く論理的でない発想ですが。
それにどこか、事故の現場などを直接見ることになるのが恐ろしかった。子供で、事後のことを含めてほとんど伝聞で進みましたから。
だから山の手入れに本腰を入れられなかったのかもしれません。
結局領地の経営で忙しく、後回しにしてしまっていたのは嘘ではありませんが、……あなたのおかげで先に進めました。ありがとうございます」
ウィルヘルムの声には徐々に温度が戻ってきたが、ヘルミーナはゆるゆると首を振る。
「お礼なんて」
「あなたご自身は気付いていないかもしれませんが、ご自身に降りかかってきたことを、全部変えようとしてしまっているんですよ」
「……そうでしょうか」
「家を出て、わたしに申し出てくれた。フェルベルクも自分ごととして変えようとしてくれた。
わたしはずっと、このままがいいと……変わることを恐れていました。あげくに遠縁に任せても領地がやっていけそうなら、それで良いのかもしれないと諦めていました。
そのせいで直前まで、領地の人々の信仰も、平穏も――自分自身が領主としてしたいことを、愛着を、ただの責務だと思い込んで、全て失おうとしていたのにも気付かなかった」
「仕方ないと思います。人は強くばかりはいられません」
「最初に気付いたのは、あなたが『そうしたい、のではないのですね』と訊いてくれたからでした」
ウィルヘルムは静かにその頭をヘルミーナに向けて下げた。
「それで人を利用したのが、あの結婚の契約でした。あなたにあんな契約の仕方を、仕打ちをして……許していただけないでしょうが。急いでいるとはいえ、せめて花嫁衣裳くらいは用意すべきでした」
「納得の上です。怪しまれるのも当然ですし、領地の皆を守ろうとして慎重になられただけです」
「あなたは強くて優しい方ですね。つい、甘えてしまう」
優しい声に過分な評価だとヘルミーナは首を振る。前世の記憶がなければ、破滅を知らなければそうしなかっただろう。そう思えば、フェアではないと胸がちくりと痛む。
しばらく背中を撫でていた手を放すと、ウィルヘルムは顔を上げてヘルミーナの表情を伺って、先ほどよりも何故か心細げな顔をする。
「……変な話を聞かせてしまいましたね」
「いえ。聞かせていただいて良かったでです」
「ですが、……あの、不安げな顔をされているので。先ほども転びそうでしたが、体調はいかがですか」
「そうですか? 大丈夫です。何も悪いところはなくて、むしろ……元気ですよ。空気も景色も綺麗です。食事も美味しかったです」
ヘルミーナの鼓動は少しずつ早くなる。
どぎまぎする気持ちは見透かすまでもないだろう、理由は自分でも気付いていた。知ってしまったから。
嬉しいのか、悲しいのかも良く分からない。
――ウィルヘルムは恋をしない。
「気持ちの方は?」
ラーレに訊いたあの元婚約者の話とか。微に入り細に入り、可能な限り何でも本人に確認したい、という自分の傾向は知っていた。それが衝動のままに仲が良かったのかとラーレに聞いてしまった意味を、今、自覚してしまう。
自分が契約上の夫に抱いている感情を他人に知られる前に、自分で名付ける前に、何とかしなければならない。
惹かれてはだめだ。いずれウィルヘルムに相応しい女性が、こんな感情を抱かない――もしくはそれを覆せるような女性が現れた時に離婚するのだから。
適切な距離でなければ、この領地から出ていかなければ奥様に申し訳ない。ここにいられなくなってしまう。
「最近、何となく……どこかに行ってしまいそうな気がしていまして」
「大丈夫です、私……」
「契約結婚だからと言って、わたしから離婚するつもりは、だから、初めからなかったのです。
むしろあなたのおかげで、地上にもう少し降りてみようと思いました。瘴気もただの現象で、何とかなるのではないかと、していいのではないかと思いました。
あなたが妻になって支えてくださって、一人ではないのだと。本当に助けていただいていて、だから。本当に感謝しています。
……あなたこそ好意を抱く人ができたら、他にも何かあったら些細なことでもわたしに全部話してください」
どこかぼんやりと答えた言葉に返ってくる想いに、今度はヘルミーナは安心させたくてもう少しだけ力を込めて頷く。
信頼してくれることが嬉しいし、恋愛以外のことで頼っていいなら、もう十分頼っている。
「大丈夫です、本当に」
「よかった」
ほっとしたように微笑む顔は、何故か泣きそうに見えた。ヘルミーナの手を取ってそっと重ねる。大きくて暖かくて、骨ばった男性の手のひらだ。
ヘルミーナはあからさまに慌ててしまう。
「だ、だ、旦那様!? ええと……旦那様の方が、心配ですよ。ずっとどこかに行ってしまうのではないかと、何も話されないままでどこかにと私……も、テオフィルさんもきっと」
「心配をおかけしてばかりで、駄目ですね。あなたがどこかに行ったらこんなに悲しい気持ちになるのに……。……済みません、また家族を失うと思ったら……」
ためらうように一度視線を彷徨わせてから、もう一度口を開く。
「……初めはいてくださるだけでいいなどと、あなたの覚悟を軽く見ていました。今度こそ共に――あなたが共に生きたいと思う男性が現れるまでで良いのです、家族として崖の上を歩いてくださいませんか」
懇願するような問いかけにほんの一瞬だけ迷う。いなくなった方が良いと思っていたから。
そして必要としてくれるなら助けたいけれどこんな不誠実な自分でいいのか、と。
それでも隣りにいられるという幸せにはもう抗い難くなっていた。
「……どこにも行きません。……かぞく……ですから」
認めてもらえたことが嬉しくて、でも言葉をなぞればちくちくと舌が痛い。ちょっと前までなら、こんな風に家族になりたいと思っていたはずなのに。
「では、……手紙だけでなく、名前を呼んでいただけませんか」
「……ウィ……ウィル、ウィルヘルム様……」
ヘルミーナはあの時は誰かのつもりで読んだ名前を、音にして、唇に乗せて呼ぶ。もう一度、ほっとしたように笑うウィルヘルムの瞳がどこかまるで愛しいものを見るような眼差しだったから、思わず顔を俯ける。
「……そ、それでそろそろ手を……」
「す、済みません。急に馴れ馴れし過ぎますね」
日が落ちてから空気はずっと寒くなっていく一方なのに、頬から耳まで赤くしたウィルヘルムは手を放すと、もう一度、今度は紳士らしく手を差し出した。
「ヘルミーナ様の手も少し冷たくなっていました。そろそろ小屋に戻りましょう」
「……はい」
そっと手を取り直し、ランタンを前に向けて小屋に向けて歩き出す。
温かい窓からの光と、寒さに待たせたエメリヒも待っている。
いつの間にか空は藍色に染まり、星のささやかな光が地上に降り注いでいた。
一筋、山の向こうに流れ星が見えてヘルミーナは胸の内で祈る。
自分に忍耐が欲しいと。どうかこの気持ちに気付かせないで欲しい。
――しかし階段を上がった時、ふと、声を上げてしまった。
登山に使っていた靴のつま先も紐の部分も灰色の花粉がびっしり付いていたはずだった。けれど付着したままの花粉が色を変えていたから。
あのうんざりするほど見たことのある、馴染みのある薄い黄色だ。
「ウィルヘルム様……! この山に死体が埋められた理由が分かるかもしれません。
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