第29話 伐採開始
お花畑の小屋での一泊後、ヘルミーナは山を降りることにした。
このまま外界と切り離されているところにいると、ウィルヘルムと離れがたくなっていつかボロが出てしまうかもしれないというのが理由のひとつ。
もうひとつは、小屋と山村を行き来するウィルへルムの代わりに、
指示と手紙だけなら彼女が村まで上がらなくとも運ばれてくるが、灰穴虫と瘴気の件、伐採の件で早急に確認したいことがあった。
加えて、譲ってもらったブラウノスリのフィーダを飼う練習も村でする必要があった。村人の腕から飛び立つノスリを受け止める練習、餌をやる練習からはじまり、世話も最低限できるようになってから、館に来てもらうことになる。
ヘルミーナは以前より熱心に仕事に邁進した。
山を登るのも、全く苦にならないと言えば嘘だが少しずつ好きになっていた。
ただ時折雑念が顔を出してしまう。きっとウィルヘルムは小さな頃からこうしてこの景色を見てきたのだろうと思うと、領内の全ての季節、全ての都市を両眼に収めたくなっていた。
(……私って、こんなに欲深かったかしら)
フェルベルクに来てからはしたいことばかりだ。それも叶ってしまうから次々思い付いてしまって際限がない。
念願であった伐採も、騎士団やラーレの村人と連携した調査が進み、遂に始まった。
まずは作業の邪魔になりそうな場所から木々が伐られ始めた。人と物資、材木を運ぶ山道を作りつつ、土砂災害の危険が高いところのピケアから優先的に間伐を行う。
木々の立ち枯れ自体も、瘴気の影響はあるものの直接的には虫が水を吸い上げる管を噛み切ってしまうことが原因だと判った。
村の鷹が虫を追い出し、摘まみだし、伐採した木からも虫を拭えば、その後の丸太はすぐに製材所に送られて切られ、薪になる。枯れて時間が経った木は乾燥させる工程を経ずに利用できるからだ。
今のところ、事故は起こっていない。
伐採でも、土砂災害でも、山での遭難でも。
起こさないためにヘルミーナも山での生き方を少しずつ学んで、自分でも体験――お遊びみたいに思われるかもしれないが――してみた。
ウィルヘルムは教えを請えば実地で本人や村人を通して教えてくれた。
倒れても危なくない程度の細い木で伐採もさせてもらった。倒したい方向に、くの字型の受け口という切り込みを入れてから、反対から水平に刃を入れると、木がくの字の方向に倒れるのだ。
口で言えば簡単だが、刃の入れ方や強風によって思った方向に倒れず下敷きになったり、太い木が地面で跳ねてぶつかることもある危険な作業。そんなときはくさびを使ったり予めロープを張ると安全に倒しやすいという。
自分の腕の太さほどもない木を伐るための小さい斧でも自分で握れば随分重い。
携わる人たちに尊敬の念を抱き、道具の配備にも気を配らなくてはと思うと同時に、それほど太くないウィルヘルムの腕が軽々と扱う様子を見れば、やはり山で育ったのだなと改めて実感した。
事故についてはウィルヘルムの心情を考えれば、なるべく――いや可能な限り起こしたくなかったため、実は山から館へ降りて真っ先に彼女がしたことは前領主夫妻の事故現場だけでなく、過去に落石や地滑りが起きた記録を当たって、地図にまとめることだった。
伐採その他山で活動するにあたって気を付ける場所やものごともまとめた。
それで、道迷い防止や伐採の手順共有のため、木には色ごとに編んだ紐を付けることも決めた。
看板や道標は勿論作るが、手間と限度がある。
ラーナ村の人々が、色糸を細く編んで自分の家の印などを作り、辺りに結び付けて道標として使うと聞いて、参考にさせてもらったのだった。
伐採予定の木には、優先度の高い順からオレンジ色の濃淡のグラデーションで。道案内には青、崖や登山道外に出てしまう立ち入り禁止の場所には赤、など決めれば判りやすい。
そして過去の土砂災害を調査したのは――その周辺に、瘴気の発生源である魔物が埋まっている可能性が高かったからでもあった。地上で卵を産む灰穴虫が媒介しているなら、おおもとは地表に露出していなければならないから。
伐採と調査を進めていけばいずれ突き当たるだろう。
ヘルミーナが予定を立てたり勉強をしようと手帳や書籍をめくると、ふとフレナグや他の花が現れる。萎れる前にと、重しで挟んで紙に貼って栞にしており、ウィルヘルムから贈られる花が増えるたびに栞も増えるので挟むものに事欠かなかった。
あれから彼と顔を合わせるのは一週間に一回というところで、一般的な家族という距離ではないかもしれない。けれど彼女のノスリを飼う練習がてら、ウィルヘルムのグリートが手紙を運んでくれるから不思議と離れている気がしなかった。
足に結ばれている小さな革のケースに丸まっている入っている紙には、仕事に関わる重要なことは書かれていない。
他愛無い雑談と、草花の話とスケッチだ。
咲く季節、薬効があるとか、毒があるものとか。きれいな染料が取れると聞いたときにはロープウェーで沢山送ってもらって、それで布や毛糸を染めてみたりもした。
全ては順調に進んでいる。
けれど。
「……製材所を新設する場所の検討を始めた方が良いかもしれませんね」
執事の執務室でクラッセンに言えば、
「旦那様にご相談しましょう。書類は次の便で……」
と至極当然な返事が返ってくるのだが、最近はこれが少し気にかかっていた。
領主はウィルヘルムで、経験も豊富だ。しかしちょっとしたことでも決済も契約も全て彼の名で行われるせいで、書類仕事やそのやり取りが全部彼の負担になり、ヘルミーナはちっとも役に立たない。
結局のところ、伯爵夫人であっても妻という立場は弱いものだと思う。
この国の普通の貴族夫人は社交と家政と子供の教育が主な仕事だから、男性の領域にはなかなか入れない。男性と女性の役割が決まっているので――女性であっても爵位を持っているかどうかで違うが――どうしても。
決済だけでなく、おそらく今後もウィルヘルムが話すものと違って真剣に受け取ってもらえないことも度々あるだろう。
時々持ち込まれる領内のトラブルは執事が処理してしまうが、たまに居合わせた時に無視するとか預けてしまうとかはしたくない。
(ウィルヘルム様ならどうする……?)
同じように振舞うべきか、それではやっていけないのか。大したトラブルでなくてもそう考えてしまう。
――そんな風にして書面で結婚してから二月が経った頃、思わぬ来客があった。
その時はアロイスにもうちょっと待って、と情けない返事をしながら、修道院長宛ての手紙で、薬のレシピの詳細確認と、聖人やそれらの知識を書籍として残す際の売り上げの取り分の相談を書いていたところだった。
あの花畑で過ごした夜に分かったことのひとつは、山の水源に瘴気を浄化する力があるということだった。そして流れの側に群生していたあのクラウトの花が修道院で見た聖ゲルトラウデの冠のそれだということも。
彼女が残した薬は瘴気症に対して役立つ可能性があった。
「奥様、フーバー男爵家からお客様がお見えです」
わざわざクラッセン部屋に尋ねてきていつになく動揺を隠せないでいる姿に、ヘルミーナは嫌な予感がした。
頭の中のリストにその名はある。確かフェルベルク伯爵家の遠縁だったはずだ。
「ゾフィー、奥様のお召替えを」
「……旦那様は今日は夕方に山から戻られるはずでは? 私でおもてなしできるかしら」
ウィルヘルムが普段屋敷にいないことはブラウの領民は皆知っていたし、他所からくる場合は事前に日程調整をしている。
だから急に、クラッセンにも手に負えないような事案が――それもヘルミーナが対応しなければならないような“貴族的な社交が必要な”出来事は起こらないはずだった。
ヘルミーナの手には負えない可能性が高い。ウィルヘルムが戻るまで時間稼ぎできるか、と頭の中で計算する。
「それが、ご一緒に戻られまして」
戸惑うようなクラッセンの言葉に合わせるように窓際でノスリのフィーダがこちらを見る。
机の背に引っ掛けてあった革のグローブをはめると、パタパタと腕に移って来たので、ご褒美の干し肉を器からあげればむしゃむしゃと食べた。
「……小屋に戻っていてくれる?」
窓を開いて身を乗り出し、手を振るえば、フィーダは騎士団の鳥小屋まで飛び立っていった。近くにいる騎士の誰かが入れてくれるのを見届れば、クラッセンの声がヘルミーナの瞳を揺らした。
「お二人は山の近くでお会いになったようです。ラーレから聞いておられるでしょうか。お客様のお名前はフーバー男爵家の長女、マルガレーテ・フーバー様です」
それは、ウィルヘルムの元婚約者の名前だった。
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