第30話 元婚約者の思わぬ訪問

 ヘルミーナは急ぎ首まで詰まった濃紺のドレスに着替えると、何度か深呼吸をしてから応接室に足を踏み入れた。


 ソファに優雅に座っていたのは華やかな雰囲気の女性だった。旅用のかっちりしたドレスは深みのある赤で、華やかな刺繍が入っている。

 ウィルヘルムより若干年上に見える彼女は、豊かな、ウィルヘルムよりやや明るい黒髪をゆるく巻いて垂らしていた。長い睫毛に縁どられた猫のような目でヘルミーナを見上げると、立ち上がる。


「ヘルミーナ・フェルベルクと申します」

 

 ヘルミーナは動揺を悟られないよう微笑しながら自己紹介するが、同じように挨拶を返す彼女は全く緊張していないように見える。


「フーバー男爵家の長女、マルガレーテ・フーバーと申します」


 再度、ローテーブルを挟んで着席した二人の間に、少しの沈黙が落ちる。ゾフィーの手によってヘルミーナの前に紅茶が置かれ湯気がくゆった。

 マルガレーテも殆ど自身のカップに手を付けていないのは、緊張でなければこれから話が長くなるからなのか、推し量ろうとしてみるがよく分からない。


「夫とは旧知の仲でいらっしゃるとか……」

「その通りです。使いも寄こさずに尋ねてしまった非礼はお詫びしますが、その弁明も伯爵様がいらしてからさせてください」


 ヘルミーナには何も話すつもりがないらしいということが分かって、それで彼女はお茶菓子を勧めたり天気の話をしたりしてみたのだが。

 当たり障りのない話よりも何故かヘルミーナの自身のことを聞きたがるような素振りだった。


「伯爵様とはいつ頃ご結婚を?」

「……先々月のはじめ頃です」

「披露宴を開いてくださるなら参列しましたのに。どのような素敵な出会いをされたのか、なれそめを伺っても?」


 ヘルミーナは微笑してかわそうとした。そういった質問は非常に、困る。

 大抵あいまいに答えてしまえばよかったので、ウィルヘルムと打ち合わせをしていなかったのだ。

 けれどマルガレーテは興味本位ではなく明確な意思を持って聞いていることは明らかだった。からかうようなものでもなければ、元婚約者を心配したり敵意を持っているようにも感じられない。


 婚約者時代には度々ここに来たのか控えているクラッセンらとも知り合いらしく、時折差し出された彼の助けの手に、マルガレーテが館の最近の様子を尋ねれば、それもヘルミーナは部外者のように感じてしまう。

 知らない川、庭、知らないブラウの店。知らない昔話、処分されて見ようもない絨毯やカーテン。

 心の中に溜まるもやもやの正体に自分に嫌気が差す。


 微笑を絶やさず、彼女の振る舞いと訪問の意図が何なのか探りつつやんわりかわす――というまどろっこしいことを続けているうちに、応接室の扉が開いて見慣れた黒髪が見え、ヘルミーナは胸をなでおろした。


「改めてお久しぶりね、フェルベルク伯爵」

「遅れまして申し訳ありません」


 二人に軽く挨拶をして、登山服からラフなジャケットの姿に着替えたウィルヘルムは、顔に着けていた薄いグレーのマスクを外した。

 ヘルミーナが最近作ったマスクはフェルベルクの植物を煮出して染めたものだ。真っ白より目立たず、また貴族たちにマスクについて尋ねられた時に話を逸らせるだろうかと思い、そうした。


 猫の目を少し見開いたマルガレーテだったが、何年ぶりかもわからない再会だ。それが常なのか判断が付かないせいか、見慣れぬマスクにあからさまに触れるような無礼はしなかった。


「お久しぶりです、マルガレーテ嬢。先ほどはフーバー家の馬車と行き合って驚きました」


 ウィルヘルムの口から初めて出るその名前にヘルミーナはどきりとする。ただ彼はヘルミーナの隣に座る。沈む座面が心強かった。

 彼は新しくお茶の注がれたティーカップに口を付けながら、口調も振る舞いも普段と変わらない。


「こちらは妻のヘルミーナです。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません」

「……そのことなのですけど。館の皆も、奥様も、あなたも、ヘルミーナ様がフェルベルク伯爵夫人と仰るの?」

「……あの、私、席を外しましょうか」


 マルガレーテの声に詰問のような調子が混じって、ヘルミーナは腰を浮かしかければ、ここにいて頂戴と彼女は言った。


「伯爵様とそうね、クラッセンも平気でしょう。侍女も? ……実はね、先日王家から父である男爵に、フェルベルクの伯爵位はどうなっているかという確認が来たんです」


 やっと紅茶に手を付けたマルガレーテは、淹れ直そうとするゾフィーをいいわと手で制した。


「伯爵が25になるひと月後までに結婚しなかったら、爵位が親戚に譲られる……なんてそこで私は初めて知りました。伯爵は、次に我がハーバー男爵家に爵位が来る可能性が高いことはご存知でした?」

「ええ」

「それで使いが来たから、父は――嫌々ではあったけれど、自分が伯爵になるなら娘の私を後継にして、あなたと結婚させれば双方の領地経営も上手くいくのではないかと言い出して……」

「何故そんな話に?」


 ウィルヘルムは普段通り、穏やかな声ではあった。あったけれど、若干の不信といら立ちが混じっているとヘルミーナは感じた。それはマルガレーテではなく、別の何かに対して。


「それでどうなっているのか、見に来たくて。父はを根に持っているし、使用人を出せば止められるでしょう? それで友人のところに行くと言って、途中で行き先を変更させたの」

「それは、また……マルガレーテ嬢は以前と変わりませんね」


 ウィルヘルムの声に驚きが混じった。目の前にある猫のような愛らしい貴婦人像と、実家を簡単にだましてしまうような姿、お転婆な子供時代のイメージが徐々に重なる。


「父が頑固なのがいけないのよ。でも到着したらもう結婚しているとクラッセンも奥様も、伯爵様もそう話しているの」


 不可解だわ、と言ってから、どこまで知っているようなそぶりをしたらいいのか戸惑うヘルミーナを見てから、


「……ええと伯爵は、奥様に私のことは?」

「話していませんが」

「……では改めて。フーバー男爵家はフェルベルク伯爵家の遠縁で、私は元婚約者だったの。といっても私の年齢が両手の指で足りる頃には破談になりましたけど。

 私がここに遊びに来たときにね、川に行くと言ってきかなくて飛び出して、伯爵様はぼんやりして私をエスコートできなかったのです」

「ぼ、ぼんやり……ですか」


 絶句するウィルヘルムに、ぼんやりでしょうとマルガレーテは追い打ちをかける。とはいえ自分のことを「言ってきかなくて」というくらいだから、責めるような調子はまるでなかった。


「それで当時はお転婆だった私が川で転んで、石で額を切ってしまって、血が出たって驚いて大泣きしてしまって。怒り狂った父が瞬時に連れ帰って破談にしたのです」


 ――傷。

 ヘルミーナはきゅっと手を握る。淑女の顔に傷を付けたとなれば結婚で責任を取ってもおかしくないほどのものだ。


「……謝って許していただけるとは思いませんが……」


 頭を下げるウィルヘルムは口元を引き結び心から反省しているように見えたが、マルガレーテは手を振った。


「大丈夫よ、傷は確かにできたけど一週間もしたらきれいさっぱり消えたわ。大騒ぎしたのは父だけ。父は信じられないことに慰謝料をふんだくったし、私は私で恥ずかしい思い出だし、もう話題にもなさらないで」


 それでね、とマルガレーテは続ける。


「そういう訳で、王都からの打診があって念のため来てみたらもう結婚されているとか。届け出はされたのでしょう?」

「教会で結婚しましたし、書類も王都に送りました。……陛下の返答が遅いのは即位でお忙しいと思っていましたが、……流石に。親族には返答があってから報告をと思っていたので……」

「それはつまり、陛下に受理されていないということですね」


 ヘルミーナは話を整理しようとようやく口を挟んだが、どこか言葉は空虚に響いた。


「そうなりますね? もしくは受理されても眼を通すところまでいってないのね。横から差し止めする方法はあったかしら」


 ウィルヘルムが考え込むのを見届けたように、マルガレーテは紅茶を飲み干した。


「そうね、確認した方がいいですね。今日は泊めてもらえます? 川魚でもごちそうして頂戴」

「……ええ、急ぎ用意させます。ありがとうございます、マルガレーテ嬢」

「いいえ。それよりお二人ともご結婚おめでとうございます」


 艶のある笑顔で微笑むと、彼女は二杯目の紅茶と共にお菓子に手を出した。


「あらこのクッキー、ラベンダーの香りがするわ。こちらはポピーシードかしら」

「どうぞお召し上がりください。ゾフィー、マルガレーテ様のお部屋にもお菓子をお願い」


 お茶の時間に突入する彼女を見てから、ウィルヘルムがクラッセンと目くばせをし合って部屋の外に連れ立って出ていく。

 多分忙しくなるのだろうと、ヘルミーナは彼女の相手をすることにした。

 しかし父親がウィルヘルムと結婚させようとしたということは、未婚なのだろうか。美人でどこか素朴なのに華もあり、失礼ながら体のラインもおそらく男性を惹きつける。ヘルミーナよりよっぽど引く手数多だろう。


 その疑問はマルガレーテの赤い唇が弧を描くと、ほどなく解消された。


「……奥様……ヘルミーナ様とお呼びしても宜しいかしら?」

「はい」

「私のことは気にしないでくださいね。私、どうせ政略結婚するならうんと私のことを好きになってくれる人がいいのです。人間にはほら、相性っていうものがあるのですから」

「あの、マルガレーテ様はウィルヘルム様と結婚する気がおありでしたでしょうか?」

「私が? 伯爵様を?」


 当然聞かれておかしくない話なのに、意外な質問だったらしい。猫の目が丸くなると、少し幼い印象で可愛らしくなる。


「本当ならここに来たくなかったわ。クラッセンもラーレにも、水に落ちて泣き喚いた私を見られたのよ?」


 マルガレーテは肩をすくめる。


「それに、もし私がウィルヘルムと結婚したら愛人が二人増えるわよ」

「え?」

「私のことが好きな愛人と、ウィルヘルムの愛人になるヘルミーナ様と。四人の納得が必要なうえ、相続や使用人のことを考えると面倒くさいことこの上ないわね」


 ヘルミーナがあまりの発言に固まりかけてゾフィーに視線をやれば、控えていたゾフィーもトレイを持ったまま硬直しているのが見えた。

 お転婆とは本人も言っていたが、なかなか破天荒というか別の意味で強い女性のようだ。


「大丈夫よ、そんなことに絶対ならないわ。一目で分かったもの、伯爵様がヘルミーナ様をとても大事にしてること」


 自信ありげに励まされた気がするけれど、それは家族としてであって、恋愛ではないのです――ヘルミーナはそう言いたかったが、立場上口に出すことはできない。

 それからマルガレーテの子供の頃のお転婆な話やウィルヘルムが振り回される話などを聞いて少し打ち解けたかも、と思ったとき、ウィルヘルムが何時になく真剣な表情で部屋に戻ってきた。


「急ですがヘルミーナ様、近々ハウプトに出立しましょう。今王城に使いの早馬を出しました。現状の確認と、この際陛下へご挨拶に伺おうと思います。

 マルガレーテ嬢、申し訳ないのですが男爵には……」

「ええ、父には手違いの可能性が高いと伝えておきますけど、できたらワインか何か持たせてちょうだい。しばらく機嫌が取れるでしょう」




 翌朝マルガレーテが何本かのワインと蜂蜜酒ミード、魚の干物、それにキッチンのお手製の菓子をバスケットに詰めて出発してから、ウィルヘルムとヘルミーナらは近く詰まっていた予定を全て白紙に戻して王都行きの準備に備えた。

 王城の役人から面会許可の返事があってすぐに馬車を走らせる。伯爵夫妻を乗せる紋章付きの馬車ともう一台、テオフィルとゾフィー、荷物を乗せた馬車、それに護衛の騎士が馬で続く。

 今までで一番仰々しい外出だ。


 何時になくがたがたと揺れる座面に急かされるように、ウィルヘルムは道中、再度王家からの承認の重要性について説明してくれた。


「結婚自体は教会の許可でなされますが、慣習として陛下に許可を戴かなければ私人としての結婚となり、爵位の継承・移動が非常に困難になります」

「あの、マルガレーテ様のことは……」

「元気そうでほっとしました。怪我のことを聞いても何も男爵に教えていただけず、あの時止められなかったことを、後悔していたので」


 細められる目に浮かぶ色は確かに後悔だが、本人の許しと様子のおかげか深刻なものではなかった。


 ――行かないで、マルガ……。


 ウィルヘルムの寝言を思い出せば、意味が静かに腑に落ちていく。

 きっとずっと気にし続けていたのだろう。未婚であることを知っているなら、なおさらそれが原因だと思っていたかもしれない。


「男爵が激怒したのは事実ですが、すぐに傷が治ったことを教えなかったのは……負目を持たせるつもりも、あったかもしれませんね」

「そんな」

「男爵はかなり直情的なので、マルガレーテ嬢が来てださって助かりました」


 それよりも、とウィルヘルムは言葉を続ける。


「移動中カーテンは開けないでくださいね。王都では可能な限り護衛と一緒にいてください」

「……父、ですか?」

「あなたが嫁ぐ予定だったボルマン伯爵から違約金を請求されていると噂を聞きました」


 それからヘルミーナは喉に重いものが押し込まれたような気分のまま、車窓の春の領地を見ることもないままに馬車で揺られた。

 途中で一泊し、無事に王都に着いてから貴族向けの宿を取り準備を整えて王城に入る段になって、ウィルヘルムは今まで付けていたマスクをそっと取った。


「……ウィルヘルム様」

「あなたとなら怖くありません」


 人目が恐ろしくないのかと案じて問えば、頼りなくも柔らかい微笑みに、ヘルミーナは微笑み返すことしかできない。

 入り口付近の部屋で緊張した面持ちで待つテオフィルとゾフィーとに軽く頷いて、ヘルミーナは初めて伯爵夫人として王城に足を踏み入れた。

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