第三章

第31話 王都、再び

 王都ハウプトが王都たるのは、王城の存在のみならずそこに集う人々、とりわけ貴族とその社交場であるからだった。

 瘴気を含んだ風や足元の石、茂みに潜む蚊、灰穴虫やピケアなどに囲まれていた日々から一転、警戒すべきものは自然から振る舞いや人々の噂話になった。

 地面は舗装され、石造りの建物が立ち並ぶ。宿を取った白鹿区には貴族の住居が多く、人の手の中の農具は扇にとって代わり、守るべきはマナーや利益、名誉になる。身に着けるものはドレスや宝石、化粧などの薄くて軽い鎧だ。


 ヘルミーナも普段より高価なもので着飾るのは好みだからではなく、フェルベルク家の名を汚さないため、それから圧し掛かるプレッシャーを跳ね返したいからだ。婚約者がいて適度な社交をしていれば良かった娘時代ではない。

 フェルベルク伯爵夫人としての立場があり、その地位が認められるかどうかの瀬戸際にある。


 王城の入り口から事務仕事が行われている区域まで、通り過ぎる文官や貴族たちの視線を受けながらも、フェルベルクの利益を損なわないように、かつての淑女としての自分を思い出しながら歩く。

 案内された部屋は、狭いながらも貴族たちが話し合うために用意されているものか、シンプルかつ上品な家具でまとめられた部屋だった。

 ソファで待つと程なく、爵位関係を担当する事務官が現れた。役人といっても王国中枢の役職者は貴族またはその出身者で占められている。この場合も相手方は伯爵だった。


「書類は申請時に受理されております。されてはおりますが、まだ陛下のお手元には届いておりません」

「理由をお聞かせ願えますか。通例ならばこれほど時間がかかるとは思えませんが」

「通例ならば、ですな」


 ウィルヘルムの、表向きは柔らかい声音に譲らないものを感じ取ったのか、壮年の男性は白いものが混じった眉をひそめると、ウィルヘルムとヘルミーナとを交互に見やった。


「そちらのご令嬢……ミス・ヘルミーナ・ツヴァイクに関しましては、お父上のツヴァイク男爵から誘拐との申し立てを受けており、保留させていただいております」

「……誘拐」


 ヘルミーナは思わず絶句しかけて、即座に否定する。


「誘拐などあり得ません。もしそうなら、夫と共に登城するわけがありません」

「妻の申し上げた通りです。貴族のご令嬢が誘拐された疑いがあるのでしたら、真っ先に騎士団よりフェルベルクに聞き取りがあってしかるべきでは。こちらは婚姻時の修道院の書類も添えておりまして……」


 ウィルヘルムの抗議はもっともだったが、事務官は途中で言葉を遮った。


「また、その修道院が聖教として異端である可能性があると、ツヴァイク男爵より聞いております。どうも過日、その件で修道院長が教区の司教と話し合いをしたとか?」

「……」

「平民ならともかく貴族であれば、ことは重大。もしこのまま進めても良いことはありませんよ。もし異端と認められれば、婚姻の無効もしくはあなたがた、いやフェルベルク家、それとも領地丸ごと異端の烙印を押されることになります」


 どれが異端とされるパターンでも望ましくなく、別の厄介ごとが持ち上がることは容易に想像できた。


「……だからといって他の教会で結婚をし直せば、それこそ異端だと領民に対して示すことになります」


 ヘルミーナは咄嗟に口を挟む。

 信仰や正当性を領主が正面から否定したとなれば、領民との間に深い溝ができてしまう。

 今ちょうど、領地ではその件について慎重に進めようとしているところだったのだ。

 すぐ否定したのは、自分が思う以上の厄介ごとをフェルベルクに持ち込んでしまったと思いたくなかったからかもしれない。

 視線を膝の上に落とす姿に、ウィルヘルムはもどかしげに言葉を引き取る。


「まず、異端という話も誤解です。修道院長と司教の間は平和的な話し合いがもたれておりますし、異教ではないと認めていただいております。教区の司祭の手紙が必要であれば、すぐご用意いたします。

 陛下へのご挨拶が許可いただけずとも、認可を持って帰らなければなりません」

「そうは言っても」

「爵位の継承に関して猶予がないのはご存知でしょう」

「まあまあ、こちらとしても爵位の継承に関しては慎重にならざるを得ないだけです。

 ……だからこその保留なのです。という選択肢を残されるために。ご連絡が遅くなったのは当方の不手際で――」


 まだ少し湿疹の残るウィルヘルムの頬が白くなっていく。


「爵位のために新たに妻を探せ、と?」


 喉から発せられた声はヘルミーナが聞いたことがない程に固かった。

 事務官は面倒くさそうに書類の束を机の上に示して人差し指でとんとんと叩く。


「まず誘拐の疑いは晴れておりません。家族の保護の義務は家長にあり、結婚に関しても通常は家長の――」

「――法の上では、両者の合意で問題なかったはずです」

「通常婚姻は家と家の間柄を結ぶものです。家出となれば家長の――」


 ヘルミーナは机の上に飛び交うやりとりに、次第に苛立ちを感じてしまう。平静を保とうとしても、うまくいかない。

 家長、家長、家長。

 父親の支配や根回しがここまで及んでいることに、法律を超えることに、受け取らないという方法でのらりくらりとかわされることに。

 不法な手段でしか家を出られなかったことに、正しくあればここにはいられず嫁がされていたことに。

 自らで決めた法ですら――法が絶対的に正しくないとしても――曲げようとする不誠実さと誇りのなさに。

 そして非合理に。


「……法令の話はご令嬢には退屈でしょう。あちらでお待ちいただきましょうか?」

「妻はフェルベルクにとっても大事な人材で、当人に関わることです。妻自身が嫌がらない限りは同席して欲しいと思っています」

「ふむしかし、フェルベルク伯はどのようなかたちでお知り合いになったのか、詳しくお伺いもしなければ。父親の同意のない令嬢と結婚となると駆け落ちですが、失礼ながら伯爵はそのような大恋愛をなさるようにも……」

「――失礼ですが」


 容姿に対する揶揄を感じて、ヘルミーナはたまらずに事務官を見据えた。

 実のところ二人は契約結婚ではある。だがそれとこれとは別の話なはずではないか。


「論点をずらして話を引き延ばすのはおやめください。面会の時間はわずかしかとっていただけていないのに、このような雑談で時間を浪費するわけには参りません。

 それにお言葉ですが、夫の魅力に気付かない方が多かったおかげで結婚していただけたのです。私にとっては幸いなことに」


 ウィルヘルムの手の甲に自身の手のひらを乗せて、にっこり笑ってみせる。

 嘘ではないから後ろめたさもない。ウィルヘルムの優しさも強さも、一目見て分かるようなものではないというだけのことだ。

 いくら揶揄されようが、父親かそれより年上の男性に、若い女性にとっての魅力など分からない、というのもよくある話だ。最近の若い女はと言って気が済むのならいくらでも言わせておく。


「ご心配はありがたく思いますが、夫とは以前から交流がありました。父は私を遠くに嫁がせようとしましたので困ってご相談したところ、ご縁がありまして。

 教会から破門されていない以上は正式な婚姻であり、女王陛下への書類をあえて留めておくことは陛下への背信と取られてしまってはお困りでしょう」


 笑顔は武器だ。

 ヘルミーナは笑う。社交の場で笑うのがあまり得意ではないウィルヘルムの分まで。


「代々の国王は即位の際に法に従うことを誓われるのです。私たちはシュトラーセの法の忠実なしもべですわね?」


 愉快ではないが、負けたくない。その思いがヘルミーナを気丈にさせる。


「さようですな。ではお疑いを晴らすに全力を尽くしていただけると。……別室で女官からの聞き取りに応じていただけますか?」


 ヘルミーナはウィルヘルムを見る。深い緑の瞳が気遣わし気に揺れて軽く首を振るが、ヘルミーナは事務官に向かって頷いた。


「承知しました」

「ではこちらに」


 そう言って彼が手を叩くと、待ち構えていたように扉が開いて女官が現れた。




 別室に連れて行かれたヘルミーナは、机を挟んでの聞き取りに、失踪してからのことを素直に答えることにした。

 勿論、逃亡の方法、結婚が契約であることは伏せて。

 ボロは出さなかったが、女官は通り一遍のことを聞き取ると説得しようとしてきた。

 曰くあなたは一度家に戻って親を説得するべきだ、このままでは親不孝である、結婚は祝福されるべきであって、子供ができたら祖父母の顔を見せないと互いに不幸だ、身勝手に子どもを巻き込むのか。


 だがそれは、彼女の父が、母を殺したようなものであることを考えれば、空虚で白々しいものに聞こえる。

 ヘルミーナはなるべくそのありがたい話を聞き流して耐えようとして――だが熱心さに違和感を覚えた。

 時間を稼ごうとしているのではないか、と。


「このくらいで宜しいでしょうか……夫が心配しますので」

「お待ちください」

「失礼いたします」


 引き止めるのを無理やり立ち上がって踵を返した時、目の前で扉が開いた。

 見たくもない姿の名を、後方から女官が呼ぶ。


「ツヴァイク男爵」


 振り返ると、女官は何故だかほっとした顔をしていた。笑顔が広がるとともにヘルミーナの胸に絶望が満たされていく。


「お父様はあなたのことを大変心配なさって――」

 

(なんという、ことを)


 ヘルミーナは息を詰めて正面を向き、赤銅がかった髪色の男を見た。

 幸いなことに久々に見た父親はここが王城だからか――場所が実家という閉ざされた、そして上から下まで使用人をも支配した場所にいないせいか――記憶よりは背丈が小さく見えた。

 しかし、不自然な笑顔を張り付けた顔の猫なで声が首筋をひんやりとなぞる。


「ヘルミーナ、探したぞ。きっと王都に戻ってくると思っていた」

「……」

「お前の服が質屋に流れていたのを見つけてな。まさかあんな山がちの場所にとは……。迎えに行くのには妨害が入るが、逆に結婚を邪魔してしまえばこちらに来ると思っていたのだ」


 じり、と一歩距離を詰める父親から後ずさる。

 誘拐されたなどと言ってはいるが、この口ぶりからすると本心では微塵も思っていない。


 出入口は一つだ。逃げるにはどうすればいい。

 ……油断させて逃げる方法も考えたが今更誘拐されました、とでも発すれば言質を取られるだけ。

 ならば第三者がいるうちにはっきり言っておいた方がいいかもしれない。この女官が買収されている可能性も考えるがおそらく直接の動機はだ。


「お久しぶりです、お父様。大変ご心配をおかけしたことはお詫び申し上げます」

「……お前のせいでボルマン伯爵から違約金を相当請求されていて困っているんだ。先方との縁は流れたが、他にも良縁なら山ほどある」

「お言葉ですが、私は縁あってフェルベルク伯爵夫人となりました。どうか不出来な娘のことは忘れていただきたく……」


 頭を軽く下げて、ヘルミーナは自然に傍らをすり抜けようとして、


「……待てヘルミーナ、逃がさんぞ!」


 腕を取られ、ひねり上げられる。


「ぼ、暴力はおやめください」


 背後から叫んだ女官が間に入ろうとするが、意に介した様子はない。男女の体格差で頭の上に掲げられたヘルミーナの腕はぎりぎりと痛む。

 逃れられないことと暴力への恐怖が胸に押し寄せるが、このまま無事にこの格好で王城から出られる確率はそう高くないだろうと冷静に考えてもいた。


 それよりも、力ではどうやっても敵わないこと、家名に縛られてしまうことがどうしても嫌だった。

 確かに父親はツヴァイクの家名から逃れられないだろう。けれどボルマン伯爵に売り渡そうとした、勝手にヘルミーナの家名と所有権を変えようとした父親が、今まだツヴァイクだからと強弁して全て決めてしまうものだろうか。

 ……娘はモノで、売り渡されて、その家長の下でしか生きられないのだろうか。


「もう私はツヴァイクではありません。ヘルミーナ・フェルベルクです」


 そう言い切る自分が家名を使って結婚し、家名を盾にするしかできないことにも悔しさを感じつつ、抵抗する。


「王城での暴挙を許すのは、陛下への不敬ではありませんか? 助けを呼ばないのなら、ここで叫びます!」


 女官に呼びかければ、彼女が青ざめた顔で扉の方に走る。待て! と父親の声が響いたとき、遮る形で飛び込んできた影があった。

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