第32話 家名

「奥様、ご無事ですか」


 飛び込んできた影は、控室で待っていたはずのテオフィルだった。

 ヘルミーナを掴むツヴァイク男爵の腕を難なく取って、捻りを加えて引き剥がす。王都で金を数えるばかりの中年貴族と、若く剣を嗜む使用人では場数が違った。

 テオフィルは男爵の腕を放すと、青あざのできた腕をさする女主人を背後に庇い、対峙した。


「使用人風情が貴族の話に口を出すな」

「男爵こそ、フェルベルク伯爵夫人に対する態度ではございません」


 男爵の顔がみるみる怒りに歪む。

 心底嫌な指摘だっただろう、とヘルミーナには容易に想像がついた。フェルベルクはたんに爵位が上というだけでなく、ツヴァイクよりずっと歴史のある、正当な血筋の持ち主だ。


「ヘルミーナに今までどれだけ金をかけたと思っている? 伯爵だろうが盗人だ」

「お父様、フェルベルク伯を侮辱しないでください」

「生意気な!」


 掴みかかるように手を振り上げた男爵の一撃を、テオフィルは軽く腕で受けて流す。よろけた男爵は勢い余って背中を壁に打ち付けた。


「ツヴァイク男爵、王城での暴力はお咎めを受けます!」


 焦る女官の声がして、男爵ははっとしたのか、忌々し気に吐き捨てる。


「覚えておけよ……ヘルミーナ、お前の結婚など認めん」


 吐き捨てて、男爵は足を踏み鳴らしながら去っていった。

 足音が遠くなって本当に近くにはいなくなったのだとヘルミーナが確信を持てて、やっと彼女の身体は呪縛から解き放たれたように肩が下がった。


「……テオフィル、大丈夫?」

「大したことはありません、剣をろくに振ったこともないのでしょう。奥様こそお怪我はございませんか」


 ヘルミーナが問えばテオフィルの視線が彼女の手首に向く。青く変色したままの手の跡を痛ましげに見て、腰を折る。


「申し訳ございませんでした」

「そんな、待っていろと言われたのにここまで来てくれただけで……」

「目を離すなと、何かあれば責任を取ると仰ってくださったのはウィルヘルム様ですから」


 どうやら控室で大人しくはしていなかったらしいテオフィルは女官に向き直ると、


「これがのやり方、ということで宜しいですか?」


 女官はヘルミーナやテオフィルの倍ほどの年齢であり、彼女自身もまた貴族出身だろう。それを相手に物怖じしない視線は、彼の怒りを如実に伝えていた。


「古くからフェルベルクの山々を治めてきた伯爵家に対して敬意に欠けるのでは」

「……も、申し訳ございません。これは私どもの独断で……」

「もちろん、そうでしょう。諸侯の無駄な反発を招くようなことを、即位されて間もない今なさるとは思えません」


 ……あ、と手を口元にやる女官は、おそらく男爵がここまでするとは思っていなかったのだろう。

 ぐっと唇を噛みそうになるのを堪えて、ヘルミーナは無言で礼を取ると部屋を出る。

 周囲を警戒しながらテオフィルは出口に向けて彼女をいざなう。


 ヘルミーナの手首はまだずきずきと痛む。

 謀られたせいか、隣にウィルヘルムがいないせいなのか、事務官に対して啖呵を切ったのに、急速に不安が押し寄せてくる。


(私、契約結婚の役に全く立ってなかった……)


 それどころかウィルヘルムの邪魔になっている。そのことが胸に痛い。あんなに領地を想っている人から、結果的にそれを取り上げる理由になってしまう。


「……旦那様はまだお話し中のはずですが、先に馬車に戻りましょう。護衛と一緒の方が宜しいかと。……奥様?」


 ヘルミーナが人の途切れた廊下で立ち止まると、彼もまた立ち止まって訝しむ。


「医者を宿まで呼びますか」

「……テオフィル……新しい、新しい奥様を。……今からでも探すことは、できませんか」


 青い手首をぎりりと掴んで、ヘルミーナは視線を床に落としたまま声を絞り出した。睫毛が耐えるように震えている。


「爵位が認められる期限までもうひと月もありません。フェルベルクの修道院が異端と言われたとして、婚姻が無効になるようなことはできませんが。……離婚して新しい奥様を探すことなら」

「本気ですか」


 テオフィルの声の調子が変わった。フェルベルク家に仕える従者としてのものではなく、ウィルヘルムの友人としてのものに。


「……私の貴族としての名が、必要なら。私である必要など……」

「奥様は……あなたは今まで何を見ていらしたんです? あのウィルヘルム様がそんな器用なことできるわけないじゃないですか」


 テオフィルの顔は見られないが、声は明らかに怒っていた。

 それでもヘルミーナは反論する。そう、最も合理的で正しそうな答えを言うために。


「……普段なら、どうにかしようと思います。でも、時間がないでしょう。この間にどうやって教会や父を、国を説得するなんて」

「だったらなおさらそんなことウィルヘルム様ができるわけないんですよ。ご存知でしょう? 前の婚約破棄から何年かかっても奥様を見付けられなかったんですよ。たった一か月で――」

「今のウィルヘルム様は布も取られ、以前より変わられました。鼻水の回数だって減ってます」

「違いますよ、ウィルヘルム様はあの頃手を取ってくれる人を本気……いや、本気で、でも必死になって探していたんじゃない。あなたがあの人の手を取らせたんです。取ってもいいと思わせた。

 まさか……本気ではないですよね? だったら何故そんな泣きそうな……こんな場面を見られたら、後で俺はこっぴどく怒られますよ」


 ヘルミーナが指摘されてそっと目尻に手をやると、指先に冷たいものが触れる。涙交じりの声がそれでもテオフィルに反論した。


「……ウィルヘルム様は人をこっぴどく怒ったりしませんが」

「解っておられるじゃないですか。でもこっぴどくは誇張にしたって、怒られるのは確かです。ご自覚がないかもしれませんが――」


 くしゃくしゃと頭をかく気配がした。


「ウィルヘルム様は大変不器用で鈍いから誤解があってもしょうがありませんが、とにかくあの人が奥様以外の女性に微笑むとか今更無理です。そんなこと泉の館クヴェレの誰も信じやしません」

「……」


 その言葉に、そうでなければいいのにという理性と、そうであったら嬉しいという感情がないまぜになってヘルミーナの胸を締め付ける。


「それを除いても、今奥様が奥様でなくては困ります。やっと瘴気問題も解決への道筋が付きそうですしフェルベルクは奥様を必要としています……って、ああ、あの、本当にここでは困ります」


 必要。

 テオフィルのその言葉にヘルミーナの目の端から雫が溢れてぽろぽろと零れる。

 ……嬉しかった。

 自分のやって来たことが、初めて実を結びかけているようで。ウィルヘルムの大事な人たちに認めてもらえた気がして。


 静かに声もなくヘルミーナが泣いていると、前方から早足で歩いてくる、さっきまで一番会いたくなかった男性の姿があった。

 

「――ヘルミーナ様? ……テオフィル、何がありました?」


 テオフィルがばつの悪い顔をすれば彼は目を細め、


「ヘルミーナ様、何かありましたか? それともテオフィルが何か失礼を……」

「ち、違います。助けていただいただけで……」


 咄嗟に青い手首を後ろに回し、もう片方の手で拭った目尻で確かめるように視線を投げれば、テオフィルはすっと背筋を正した。


「その通りです。神と女王陛下とフェルベルクと、それからウィルヘルム様に誓って」

「テオフィルのお祖母様にも誓って?」

「……はい。祖母にも誓って」


 静かな問いかけに鋭いものが混じり、答えるテオフィルの声からも緊張が伝わってくる。ヘルミーナはテオフィルの祖母がどんな人か、後で聞いてみようと思った。

 ウィルヘルムは肩の力を抜くと、


「そうですか。事情は後で伺いましょう。ゾフィーを迎えに行って、早く馬車に戻りましょう」

「……」

「きっと手があるはずです。ですからそんな顔をしないでください」


 声を出せないで俯いてしまえば、ウィルヘルムの手が伸びてハンカチが渡される。無理に聞かれないことが今はありがたかった。

 もしこれ以上優しい言葉をかけられたらいたたまれない。


 ヘルミーナが涙を拭って視線を上げれば、王城の豪華なお仕着せを着た男性が三人の傍らにいつの間にか立っていた。女王陛下に直接仕える、格式の高い服装だ。ピカピカの靴を揃えて、トレイに乗った手紙を差し出す。


「女王陛下からのメッセージです」


 ウィルヘルムが折りたたまれた紙片を開き、一瞥して返答する。


「……『参上いたします』とお伝えください」


 


 王城のある中心街から白鹿区へ車輪が滑らかに石畳を進む。

 先程のメッセージカードには明日行われる小規模なパーティーにて会いたい旨が書かれていた。


「女王陛下は質素倹約を旨とされるそうですが、即位したばかりで貴族との顔合わせなどパーティーで人脈を繋ぐ機会も多いのでしょう」

「どのような目的で招かれたのだと思われます?」


 訝しむ、といったテオフィルの表情。


「書類の返答と先ほどあったことの謝罪ですが……結婚の経緯、ツヴァイク家の現状、それともお花畑と揶揄されるわたしがフェルベルクを継ぐに相応しいか見るつもりか、幾らでも思い付きますよ」

「あるいは私が誘拐されていないとご心配されているとか。チャンスをくださっているのかも。

 ……ウィルヘルム様、試されているということはここで陛下の言葉を勝ち取れば、父も手出しできないはずです」


 ヘルミーナは膝にかけたショールの下で、青あざのある部分に触れる。

 テオフィルとゾフィーの目が痛ましそうにそれを見て、ウィルヘルムは一瞥する。彼の唇は少し震えていた。


「私は……ご迷惑だと思いますが……」


 喉につっかえた言葉を出そうとしていると、そっと痛む手首の上から、ショール越しに一回り大きな手が乗せられた。

 かさつきも赤みももうほとんど消えてしまった、ペンと剣とその他いろいろなものを握ってきた手だ。

 ヘルミーナはそれで、勇気を出して喉の奥から声を絞り出す。


「……フェルベルクにいたいのです」


 その答えを聞きたかった、というようにウィルヘルムは頷くと、矢継ぎ早に指示を出した。


「テオフィル、一番早い馬で教区の司祭に手紙を届けて返事をもらう手はずを付けてください。わたしは今から王都の教会へ行きます。

 それから護衛はヘルミーナ様を宿へ送り届けるようにお願いします」

「かしこまりました」


 手の温かさを感じながら、前世を思い出したい、とヘルミーナは自分からねがった。

 そして腹をくくった。


(私はここにいたい。たとえ女王陛下であろうとウィルヘルム様から、私からフェルベルクを奪わせない)


「ウィルヘルム様。陛下は味方の少ない中で領地経営の手腕を認められ、後を継いだ方。貴族的な言い回しが苦手な私たちでも戦いようはあるはずです。それこそ泣き落としよりよっぽど」

「ええ」

「実際のところ、認めるか認めないかは利益になるかどうか。フェルベルク領をこのままにしておくほうが益がある、と“思わせれ”ば勝ちなのです。あるいは反陛下の派閥である父をそのままにしておく――いえ、私を許すことで、反対派にも寛容だと周囲に思わせる効果だってあるはずです」


 そう、ヘルミーナがいる領地を価値のあるものだと認めさせるようなものを用意すればよい。ゲームでだってそうだった。交渉は口先より材料が必要だった。

 頭の中が急速に落ち着いていく。考えをある程度まとめてから顔を上げ、真っすぐ見つめればいつだって彼は、彼女が口を開くのを待っていてくれる。


「宿の前に見ておきたい場所があるのですが宜しいでしょうか」

「……どちらです?」

「大きな商会です。何かしたいときは自分から動く、のが良いですが……叶わない時には相手からせざるを得ない状況に追い込むという方法も取れます」


 あまりしたくないが、なりふり構っていられないならそうする。


「ツヴァイク商会の最近の主要な取引を調べ、対抗します」

「護衛と離れないよう約束していただけますか」

「必ず」

「分かりました。くれぐれもお気を付けて。本当はご一緒したいのですが……」

「大丈夫です、時間がありません」


 馬車はテオフィルを馬車の駅へ、ウィルヘルムを教会へ送り届けると、商業地区へと向かった。

 ヘルミーナはゾフィーと護衛の騎士であるアロイスとエメリヒと街を見て回った。

 現在の食事や衣服、その他文学や音楽などの流行は人気の商店を見れば大きな流行の流れは分かる。最先端である必要はひとまずない、というのはツヴァイク商会は成り上がりのため、流行を生み出すような大貴族の屋敷に出入りする格がまだないのだ。

 実家の商売のことは殆ど知らないが、裕福な市民や同格の貴族に対してちょっと気の利いた食品や雑貨などを売っていることは知っている。その物品を頭に入れて馬車の中で書きだす。


「奥様、少し休憩いたしましょう」


 急ぐヘルミーナの手首に軟膏を塗り、包帯を巻き終えたゾフィーが気遣えば、


「ええ、若い方に人気のお店に行ってみましょう。平和になってこれからお茶会が増えると思うの」

「でしたら王都にいた時の気に入りの店をご案内します。フェルベルクの砂糖菓子を扱っていまして、お口に合うと思いますよ……そうですね、砂糖菓子もいいかもしれません」


 奥様に感化されましたね、とゾフィーがどこか安心したように微笑を浮かべたので、ヘルミーナも応える。


「待っていてくれてありがとう」


 何となく、ただいまと言いたい気分だった。

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