第33話 女王陛下のお誘い
馬車を降りる直前。
絹の手袋をはめた手をそっと腕に添えれば、近づいたウィルヘルムの強張る肩から緊張が伝わってくる。
「きっと大丈夫です」
ヘルミーナは、緊張と不安が入り混じる横顔にそっと声をかけた。
ウィルヘルムは今日もマスクを付けていない。
昨夜念入りに手入れしたらしい肌は今までで一番滑らかで、さっきは鼻をしっかりかんで、花粉除けになるよう鼻の穴に少しだけ鉱物油を塗ってもらった。
ウィルヘルムはヘルミーナに小さく頷く。表情が少し緩み、良かったと思う。
テオフィルに言われたのか、少し伸びていた前髪を切り、長めの睫毛の下の瞳はブラウの山を思わせる深い緑で、見ていると穏やかな気分になる。
瞳の色に合わせた黒に近い濃緑色のコートが華やかながら落ち着いた雰囲気を引き立たせている。
他の貴公子たちと比べても遜色がない――勿論、ヘルミーナは比較などでなく、彼自身のそんな落ち着いた、穏やかな雰囲気が好きだ。
それを消してしまうようなことが、今日、起こらなければいい。
貴族が集うような場所で今までどんな声をかけられてきたのか具体的に聞いたことはないが、想像はつく。黒い布を顔に巻いた姿は異様に映ったろうし、痒みからくる涙も止められない鼻水もくしゃみも、あっただろう。結婚の相手となる若いご令嬢は特にそれを忌避しそうだ。
けれど相手の言動をヘルミーナが事前に盾になって全部防ぐことはできないだろうから、少しでも負担が軽く、自信が持てるようになればいいと思う。
「素敵ですよ。本当に」
素敵というのは見目だけではない。彼が過去を乗り越えてここに立っている、ということが素敵だと思うし、嬉しく思う。
「ヘルミーナ様も素敵ですよ、ただ少々、男性の視線が気になりますが」
ヘルミーナの装いは、元々持参していたベージュのシンプルなドレスに、漆黒の宝石――珪化木を磨いたネックレスを合わせている。
珪化木は樹木の化石のひとつで、様々な色合いがある。フェルベルクでも以前から存在が確認されてはいたが、道が徐々に整備されるにつれて新たに発見され、考えられていた以上の品質と生産量が見込まれていた。
ツヴァイク商会の主力商品のひとつには装飾品がある。つまり競合商品だ。
ウィルヘルムが指摘したのは、ふんわりした袖に広がりが少ないシルエットのドレスは一見可愛らしいが、宝石を引き立てるために少しだけ胸元が開いていることだった。漆黒だから肌の白さが際立つ。
とはいえごく普通の範囲だ。普段かっちりと胸元はおろか首まで詰まっているドレスを着ることが多いから珍しいのだろう。結婚式ですら普段着のようなワンピースだったのに。
下品にならないように、ゾフィーが彼女自身王都にいたときに友人と良く訪れていた仕立て屋のアドバイスを貰っている。
ちなみに、その仕立て屋には優先的に珪化木を回すように取引をした。
「無理をなさっておいででは?」
「フェルベルクの……いえ、私の居場所のために、私がしたいことなのです。
今はまだ瘴気を気になさる方もいると思います。何を売るにしても良いイメージはないでしょう。でもそれも、実際に見たことのない噂話です。目で見た印象や香りというのは、思ったより強く残るものですから」
「香り?」
「修道院お手製の浸出油です。フレナグの花と、贈っていただいた高山の花の」
添えた手と反対の手で、少しオイルを付けた髪の辺りに触れて笑えば、ウィルヘルムの耳が見る間に赤くなる。
「……そ、そう……ですか」
「良い香りで気に入っていますし、山やウィルヘルム様が守ってくれるような気がして」
――そんなやり取りを馬車を降りたところでしていたので、従者と侍女は顔を見合わせた。
「……心配になってきました」
「大丈夫です、奥様がご一緒ですから」
テオフィルとゾフィーが好き勝手なことを言っているので、後ろで護衛のアロイスとエメリヒもまた顔を見合わせる。
四人が初心者夫婦を王城の馬車止めで見送ってから、二人は久々に小さなホールに通された。
ウィルヘルムが衛兵に名乗った時、ヘルミーナもまた一瞬だけツヴァイク、と名乗るべきなのか頭に過ぎってしまったのは昨日のできごとのせいかもしれない。それから陛下がどのようにフェルベルクの宗教を見ているか。
だが結婚したのだ。迷うことはないと堂々と先へ進めば鮮やかな布の洪水が目に飛び込んできた。
一時は国内の争いのためにあまり行われていなかったパーティーだが、陛下の即位に伴って少しずつ再開されている。
女王としての議会の出席の他、陳情などでも相当数の貴族と顔を合わせるが、貴族同士の食事を交えた席も必要だからでは、とウィルヘルムは推測を話した。
何しろ女王即位までは各地の有力者が我こそは国王だと名乗りを上げていたのである、それこそ割り切れる感情だけではなく仲が悪かったりもする。
これらをまとめ上げるのに必要だからだろう。
雰囲気はカジュアルでほっとする。規模に応じて今までの伝統を意識した堅苦しいものではなく、高位の貴族以外の人々とも気楽に話せる会が増えていると聞いたことがあるが、これもそうらしい。
あの染料は隣国の、あちらは南方の織り方で、と参加者の衣装についてこっそりウィルヘルムが教えてくれる。皆、ヘルミーナと同じように広告を兼ねているのだろう。
テーブルに並んでいる食事も陛下が参加するパーティーには簡素だが珍しいものが多く、来ている貴族も新しもの好きのようだった。
それでもホールに足を踏み入れれば、何人かの老獪な貴族の品定めや好奇の、若い令息令嬢の物珍し気な視線、囁き声が聞こえてくれば居心地が悪い。
あのぐるぐる巻きの伯爵が、とか、肌がとか、見慣れない令嬢だとか、フェルベルクの瘴気の話とか。
ウィルヘルムの喉が鳴り、瞳が少し揺れる。不安か、それとも過去のことを思い出してしまったのか。ヘルミーナは盾になるように体の位置をずらしてから、ほんの少し手を引くと、微笑んだ。
「私が、います。視線がお嫌でしたら私を見ていてください」
「……大丈夫です、済みません。今更少し思い出してしまって」
「嫌なことは簡単には忘れられないものですよ。特に何度もあったことなら怒るのも恐れるのも当然です。忘れることが正しいなんてことはないはずです」
変な話かもしれない。でもそうでなければ、ヘルミーナはフェルベルクで生きることができる幸せを感じたり、失うことが怖いなどと思わなかっただろう。
「……非合理のようですけど。そのように人間ができているのなら、それはそういうものが自然では、と思うのです。無理をして倒れてしまう方が非合理、のような」
「……ありがとうございます」
「私も、面白い話ができたら良いのですけど……」
そんな時にちらりとウィルヘルムが視線をやったのは、二人に話しかけたそうな、いくらか年上の男性の貴族だった。
しかし視線はウィルヘルムというよりヘルミーナに向いている。ウィルヘルムは彼女にしか気付かれない角度でほんの一瞬だけ目を眇めてから、貴族の顔になって微笑を作った。
「卿、お久しぶりです」
「ああフェルベルク卿。美しい奥様を迎えられたそうですな」
ヘルミーナは自己紹介をして笑顔で胸元だけに向かう視線をかわしながら、この宝石のおかげでしょう、とか何とか領地を売り込むことに精を出すことにした。
領地内では商業が発達しているアーテムでも、国内での存在感はない。商売人にはとにかく目新しいものを売り込んでおきたい。
やがて、ざわり、と人々の声がしたかと思うとホールは一斉に静かになる。
人の波を分けて、いや人々が潮を引くようにさっと道を開ける。
女王陛下は王女時代は不遇と言われただけあって、ほとんどのパーティーに出席していなかったか、顔見せくらいですぐに場を去っていたから、ヘルミーナはちらりとしか見かけたことがない。
けれどその顔を知る者も知らない者でも、彼女を見ればすぐに陛下、黒薔薇姫と呼ばれた方だと理解できた。
怜悧な美貌の男性に手を引かれてホールを訪れた小柄な美女は、艶やかな黒髪を生花で飾っていた。黒曜石のような瞳にほんのり色づいた白い肌。
一見すれば無害な美しいご令嬢に見える、しかしその立ち居振る舞いからあふれる神々しさとでも言って良い、人をひきつけてやまない力は美しさだけではない。
美しくもたおやかであるのとは違う、まるで少し触れれば刺されてしまう、棘がある黒薔薇のような、どこか孤高の雰囲気をまとった人だった。
身分の高い者、縁戚であるもの、重要な役職者や支持者らが真っ先に集って挨拶に行くが、その中で視線ひとつの動かし方で人々を魅了し、いなしているようにすら見える。
隣に立つ貴公子が王配だろう。陛下と対になるような金の髪に切れ長の瞳の男性だが、常に陛下の周囲に気を配っている。ふとした時に陛下に向ける視線がとても優しく甘いのを見てしまって――振舞っているだけなのかもしれないが、こちらが赤くなってしまいそうだ。
と同時に、噂通り本当に恋愛結婚をされているなら――そうでなくても、かもしれないが――こちらの契約結婚という仲などすぐ見通されるのではないか、という気もした。
人の波が去った時を見計らって、ヘルミーナたちが近づけば、王配は何事か陛下の耳にささやき、彼女は花が綻ぶように笑ってからウィルヘルムたちに視線を向けた。
「……いらしてくださったのですね」
「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
ヘルミーナは思い出したが、彼女の即位の時にウィルヘルムも挨拶に一度は拝謁し、その前にも少しは話したことはあるはずだ。一介の男爵令嬢でなく、長いこと伯爵だったのだから。
「フェルベルク伯もお元気そうですね」
振る舞いは上品ではあるが格式ばった感じがないのは、彼女が王宮では不遇であったからだろうか、などと不敬なことを思いつつヘルミーナも淑女の礼を保ったまま頭を下げる。
「こちらは妻のヘルミーナでございます」
「……拝謁を賜り光栄に存じます」
「堅苦しい挨拶はいいわ、顔をお上げになって。……お二人の書類についての件は伺っています」
顔を上げる。
そして近くで見るとその美しさに畏敬と畏怖を抱いてしまいそうな女王の言葉に――結婚の祝福の言葉がない、という事実にヘルミーナはぎゅっと心臓を掴まれた気分になる。
「手短に言えば、ツヴァイク男爵がご息女のご結婚の可能性を憂慮し、先んじて異議申し立てをされておりました。手土産を付けて」
手土産、の部分で目が細まったのはそういうことなのだろう。
「手土産と言えば、フェルベルク伯からもいただきましたね」
「は」
「詳しく聞かせていただいても?」
手土産。それはヘルミーナの父親が事務官に渡しただろう賄賂ではなく、現在進めている伐採と作付け、産業振興の計画書だ。
それに異端を信仰していないという証明の司教たちからの手紙。
「瘴気対策の木材ですが、間伐で得られたもののうち、瘴気に侵された木材は薪に。それ以外については製材所を中心とした水車小屋と倉庫を建築いたします。
同時に
砂糖の生産量を増やした分はそのまま、または菓子として使用し、残る繊維質は飼料として、今後植える広葉樹のどんぐりと合わせて家畜の餌として、豚や羊などの生産を増やす予定です」
シュトラーセの砂糖の主原料は、てんさいや
特にシュトラーセ北部で生産されているが、量はそれほど多くない。特に去年は。というのも、育てやすさに反比例するように、砂糖に精製する手間がかかるからだ。
そのまま食べると灰汁が強いので煮汁を砂糖にするのだが、かなり長時間煮詰めなくてはならない。その際に大量の燃料が必要になる。
内紛のためにお茶会は減っていた上に材木需要だけはあったので、薪をそこに回すことは最近は控えられていた。
しかしフェルベルクでは暖かい地域での作物があまり育たないために砂糖大根は比較的多く植えられているうえに、今は丁度木々の伐採中。
美味しい砂糖を作るために必要な、灰汁を除去する石灰も木灰も、山がちなフェルベルクでは容易に手に入る。
平和がきて茶会の機会が増えたところで、他領で急に増産はできない。
これからの需要も増えると踏んでの増産だった。
身に着けるものや食品は献上しても毒物の可能性があるとおいそれとは受け取ってもらえないとは思ったが、一応、フェルベルク名物の珪化木の宝飾品や、花の砂糖漬けや砂糖菓子も添えて提出していた。
運が良ければ買ってもらえるだろう。
そう、これらは多少高価であればもちろん、購入する人物はお金持ちでならなければならない。そしてこの国で一番の大口契約者となればそれは女王陛下か宮廷である。
買ってもらえなくとも、ツヴァイクより見込みがあると思ってもらえればいい。
「フェルベルクは来年以降税収が増えそうね。
ところであなたがたはゲルトラウデという修道女のことはどうお考えに?」
ヘルミーナは失敗できないと緊張しながら口を開く。
「薬師にして修道女が偉大な学者であることは論をまたないと考えております。お花畑伯爵が美しい花畑にお住まいなことも、良き領主であることも、良き夫であることも両立しますように。
崇敬を集めることは自然なことかと思われます。それが感謝や敬意などによって、人の集まる教会に置かれることも。それは人の噂だけで異端と糾弾されるべきものかどうか」
つまり聖教の正式な信仰の対象ではないが偉人として崇拝されている――それが、ウィルヘルムと話し合って出した結論だった。
実態とは少し違う。解釈の恣意的な変更は正直あまり好きではない。しかし現女王陛下は聖教の支持も得なければ今の地位にはいない。内心はともかく、フェルベルクが聖教を正面から敵に回すのはどう考えても得策ではなかった。
陛下の御前にも関わらず――それはヘルミーナの言動の方がそうだったが――思わず一瞬、虚を突かれたような顔をするウィルヘルムに、女王はくすくすと笑い声を立ててから楽しそうに二人に視線を当てた。
「通常、家長もしくは公侯爵の保証または伯爵以上の複数名の署名がなければ貴族としての籍の移動を、議会にかけることはできません。過去ヘルミーナ・ツヴァイクは議会にかけられたことはなく、貴族籍から外れたことはありません」
「……」
「婚姻については二人の意思で可能。
そしてフェルベルク伯爵の爵位については先王陛下との約束として、貴族の女性との婚姻のみが条件。一度目の婚姻、としか記録にはありませんでした。フェルベルク伯爵が爵位を保つのに何ら問題はありません」
ヘルミーナはひとまず爵位の保証があったことに胸をなでおろすが、ウィルヘルムの表情は固いままだ。
「ありがたいお言葉に感謝申し上げます。ただ」
「ただ?」
「……ご覧いただいた資料の下地を作ったのは、妻なのです。妻がわたし亡きあとも女伯爵としてフェルベルクと陛下を支えられるようにお考えいただけませんか」
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