第19話 息ができるように

 図書館での調査をひとまず終えたある日、ヘルミーナは社交がないのをいいことに庭仕事をすることにした。


 登山のための体力を付けておきたいし、中庭からは騎士や働いている人たちの姿も良く見えて、交流の機会がある。

 70歳近い男性の老庭師は、中庭の植物が実用一辺倒で薔薇などの観賞用花壇が隅っこにひっそりあることを嘆いていたので、女主人が来たことを喜んでくれた。

 瘴気のせいでここで貴族をもてなすことは長年なく――必要があればアーテムの別邸で行うらしく、更にウィルヘルムの婚活は女性をこの庭に招くまで至ってなかったからだ。

 手入れしても見てくれる人がいなければ、それは確かにやる気も起きないだろう。

 その辺はヘルミーナも実用一辺倒、にかなり近い人間ではあったが、花壇を褒めれば喜んでくれたし実際に素敵な花々は気分転換になる。


 庭師は話し好きで、亡き奥様や小さい頃のウィルヘルムが好きだった花なんて話を聞かせてくれた。

 そう、薄々勘づいてはいたが、ウィルヘルムの母親である前伯爵夫人が既に他界していることを知ったのは彼からだった。おそらく前伯爵も。


 それはともかくヘルミーナの目的であったハーブを植えたいという願いは、見た目も悪くないし役に立つのでいいんじゃないですかね、と快く許可を貰えたので、早速いくつかの苗を畑や鉢に植えてみることにした。

 鼻を通すためのミント、鼻炎を改善するというネトル、炎症や安眠にいいラベンダーやカモミール。どれも春から育てられる品種だ。

 ヘルミーナ個人では精油を作るまではできなくても、浸出油やハーブティーやポプリにしたりして使える――勿論使用する人の体質に合えば、だが。


 修道院からも必要があればハーブやそれを使った薬品なども融通してくれるとありがたい回答があった。あの契約結婚した朝、ウィルヘルムが朝に顔を拭っていたハーブ水のレシピも貰った。


(ただ、正直なところ瘴気症が花粉症と同じアレルギー反応なら、ハーブも腸内環境を整える食事も、体質によるとはいえ気休めにしかならないことが多い……のよね)


 重度の花粉症だったらしい前世の自分がそう釘を刺した。

 花粉も瘴気も、おそらく一番の対策は吸い込まない、触れない、外出しない。だけれど、領主にそれを求めるのは難しい。


「アドバイスするにしても、マスクをしろとか眼鏡をかけろとか、つるっとした素材の外套を脱いでから部屋に入れとか、窓の開け閉めは最低限――なんて、他人に課すには制約が多すぎるわ」


 多分、前世の世界での花粉症患者たちは、そんな花粉症対策はそこそこやってきたはずだ。たとえば花粉の飛散状況が雨雲の移り変わりのように、視覚的に見えるサイトなるものもあったはずで、外出の予定の参考にしていた。

 でもそれは自分が根拠に納得してしていることで、他人にさせるにはそれこそ、科学的な説得力や体験が必要だ。


「マスクは手間のわりに効果が出やすいから、信用してもらえるかも……」


 見た目を気にする人もいるが、あの細い布をくるくる巻いているよりは良いかもしれない。

 そうなるとウィルヘルムの頭の周りのサイズを測りたい。ゴム紐なんて便利なものはこの世にないのだ。


「バンダナを折ると犯罪者っぽいし、帽子に半透明の布を垂らしてしまうとか……伸縮性のある織り方の布でバイアステープを作る、とか」


 想像を巡らせながら、植えた苗の根元にじょうろで水をやっていると、声がした。


「……庭師にやらせてしまえばいいのではありませんか?」


 背後の声に振り向くと、気難しそうな顔をした護衛のエメリヒが、薄く金髪の下、長いまつ毛に縁どられた薄青の目を困惑したように細めていた。

 鍛えられた体躯に細身の剣をはき、背にはヘルミーナの身長とさほど変わらない長弓を背負っている。一度「射程は」と尋ねたところ城壁の上から近づいてくる敵を撃つのに支障はないくらいという答えが返ってきた。

 護衛は普段は室外で待機してくれているが、こうやって中庭など開けた場所にいる時は側にいる。


「いえ、私がする、というのが大事なの。体力もつけておきたいし……不思議?」


 エメリヒの整った顔に困惑が浮かんでいた。


「失礼いたしました」

「失礼だなんて思っていないの。ただ、深窓の令嬢だと思っているなら事実じゃないわ」


 箱に入れられていたが、中身が大事にされていたわけではない。外に出してもらえなかったゆえの肌の白さも体力のなさも、そう見えたのかもしれないが。


「ハーブだけでなく、できることなら早く山で瘴気を出す木を伐りたいと思っているし。でも斧を振るうのは鍛えても無理そうね」


 軽口を叩くが、本心からの望みで間違いない。もしヘルミーナが屈強な山男であれば自分自身で林業を営んでいただろう。


「――交代だぞ、エメリヒ」


 エメリヒの背中越しに歩いてこちらに来たのは、長剣を帯剣したもう一人の護衛・アロイスだ。濃い茶色の髪と瞳にはつらつとした雰囲気がある彼は、騎士団長の甥っ子だという。


「ああ、分かった」

「……俺たちの仕事は奥様を可能な限り好きにさせてあげるだけだって。まだ外に出る許可は貰ってないんだから」

「聞いてたのか」

「まぁな」


 二人は騎士団の同期らしく付き合いが長いのか、時々軽口を叩き合っている様子を見かける。


「失礼いたしました。……ご実家の方が探されていると伺っていましたのでなるべくご安全にと思い」

「わざわざハーブを植えるとか山に行きたいとか、それだけお二人は運命的な出会いでもしたんだろう。あー、いいな。俺も運命的な出会いがないかなぁ」

「失礼だぞアロイス」


 ヘルミーナは苦笑した。

 自分の実家の束縛が強かったことはバレている。であればどうやって出会ったのか不思議に思うのも当然だろう。

 あまり突っ込まれたくなくて、ヘルミーナは話題を変えた。


「そういえばお二人に聞きたいことがあって」

「何でしょう?」

「騎士団やお知り合いで、実際に瘴気症になられた方は知っている? 人数と症状も。図書室では見つからなかったから、調査をされていた資料があれば見たいと思って」

「調査はされていません」


 と、答えたのはエメリヒだった。


「鼻炎や咳が増えたという症状を訴える者もいますが、そもそも庶民は医者にかかることがままなりませんので、流行病や大病でもなければ記録されないでしょう。

 とはいえ、医者や修道院で正確な数は出ないとしても、体感での話は聞けるはずです」

「そうですねぇ、騎士団や城の人間でも徐々に増えてる感じはしますが……」


 そうアロイスも続ける。

 ヘルミーナは花粉症の傾向を思い出して尋ねる。


「瘴気を吸い込む、触れることが多い地域や職業、吸い込んでいる時間が長い高齢者に多い傾向は?」

「そんな感じはありますね。まあ高齢者ほどずっとこのブラウで暮らしてる人間が多いですから」

「……となるとやはり……」

「ただ、そうなればラーナ村の人間は皆発症してておかしくないはずですが、村の人間は瘴気症を殆ど発症しません」


 エメリヒの言葉にヘルミーナは首を傾げる。


「以前村に行ったときは、吸い込まないようにしているようには見えなかったけれど。何か理由があるのかしら」


 花粉症の治療の場合、免疫が花粉が悪いものだと判断して反応して症状を引き起こしてしまうことに着目して、わざと摂取することで体に慣れさせる療法がある。

 自己判断での摂取はアナフィラキシーショックを起こす例もあるので、この世界で挑戦したいとは思えない――し、更に瘴気が魔物由来のものであればなおさら期待薄だ。村の人々が大量に吸い込んだから慣れるなんてあるのだろうか。


「私たち村の出身の人間は、代々の体質だと思っていました」

「では村に行って詳しく伺いたいわね。山の他の植物や土壌が瘴気に毒されていないかも念のため確認したいし」


 そう話すヘルミーナがよほど熱心に見えたのだろう。アロイスが意味ありげに笑った。


「本当に実地調査がお好きですね。いや、伯爵のことがですかね」


 どうでしょう、とヘルミーナは微笑してごまかした。好きだと誤解されては離婚しにくくならないかと思って。

 ウィルヘルムを助けたい、領地の役に立ちたいというのは本心だが、恋愛感情でもないし、結局は自分の存在を証明するため、この領地で生き抜くため――全部自分のためと言い換えることだってできてしまう。


 ただヘルミーナはここに来てから、あの王都の実家で浮かべていた作り物めいた笑みを完璧に再現することはできなくなっていたようだ。目ざとくエメリヒが同僚を諫める。


「アロイス、奥様が困っておられる。俺はもう行くが――」

「大丈夫、任せておけって」

「……頼んだぞ。ではそろそろ失礼いたします」




 エメリヒが去った後のその日の午後は、アーテムから来た仕立て屋によるドレスの採寸があった。

 土だらけのエプロンとワンピースからドレスに急いで着替えて、何とか伯爵夫人の体裁を整える。

 仕立て屋の夫人は上品な振舞いながらきびきび働く職人気質の女性で、手際よく肩幅や各種サイズを測っていく。

 最近緩い腰回りの服ばかりだったのでサイズは若干大きくなったが、それくらいでちょうどいいように思う。


「伯爵様からは謁見用、パーティー用、謁見用、旅装、普段着など何着かずつ作っていただくよう話を聞いておりますが、奥様のご希望は」

「登山服……の合うサイズのものですね」


 ごく最低限のもの以外何も実家から持って来られなかったので、作らせるはめになっているのが後ろめたい。


 そんな思いに気を取られつつルミーナが言えば、突拍子もない言動だったにも関わらず夫人は顔には出さなかった。登山用品を多く備えている伯爵家に慣れているとはいえ、さすがにプロである。


「それから、服ではないのですが」

「何でございましょうか」

「つるっとした、引っかかりのない布地はないでしょうか。登山の時の服のような……」


 カーテンやタペストリーに専門の業者がいることは知っている。しかし需要の関係か殆ど扱いがない。あの登山服のようなものが欲しければこちらに伝手がありそうな気がしたのだ。


「シルクか、そのシルクのタフタ織ございますが、何をおつくりに?」

「許可をいただいてからになりますが、カーテンやソファのカバーができないかなと思いまして。布の手配だけいただいて縫製はこちらでもいいですし。

 本当はシルクでも綿でも麻でもいいのですが……軽く滑らかで洗濯しやすく、帯電しな……自然素材のもので」


 こうしていくつか打ち合わせをした後、ヘルミーナはさすがに疲労を感じてソファに身を預けていた。

 目の前のローテーブルに、ゾフィーがティーセットを置いてくれる。

 ここに来て馴染んできたフェルベルク産のお茶だ。実家で飲んでいた――飲むことができた安いものではなく、ちゃんとしたお茶だ。茶園はいくつかあると言うが、今日のお茶は苦みがなくすっきりとしていて、どこかほのかに花の香りがする。


「旦那様のことを考えたら陛下に挨拶に伺うのは冬かしら。そうなったら冬にはまた冬のドレスが必要になってしまうわ」


 その分経済が回るとはいえ、である。お金は大事だ。


「奥様は無欲でいらっしゃいますね。登山用品の方が熱心で」

「登山はしたいことなの。

 そして社交はしなければならないこと。ドレスは本当は……欲しいものが何なのか分からないだけかもしれないけれど。

 今までも社交や気品を保つのに必要だからドレスを着る、必要だから宝飾品を身に着けるという感じだったの。勿論好きな色やデザインだったら嬉しいけれど……親の気に入らなければ文句を言われたから」


 予算の都合でテレーゼが髪型や着方を変えてくれ、レースやコサージュを付けたり外したりして何とかやりくりしているのに、更に親のセンスや気分で決まる脳内当てクイズに付き合わされたので、楽しんで選ぶというよりやり過ごす仕事になっていた。


「確かに、ドレス代の捻出に苦慮するお家は王都でもありますね」

「素敵だと思っても苦しくなるだけだから、諦めてきたからかもしれないわ」


 ただ、本当に欲しかったのはドレスや宝飾品でなくて、ピンの一本も、下着にかかるお金も、人の目を気にしなくていいような自由。裁量の範囲。


「本当に欲しいのは……息ができる家なのかも」


 口からふと漏れ出てしまった言葉に、慌てて首を振る。ゾフィーの顔色を窺ったが、さすがに使用人としては微笑を浮かべているしかないだろう。

 慌ててヘルミーナは、つい癖で謝罪してしまう。


「ごめんなさい。今の状況への不満ではないのです。ここでは本当に皆良くしてくださって……」

「分かります。お茶だっていくらでもお代わりをしていいんですよ」

「……ありがとうございます」

「ほら、丁寧に話されないでください。いつかボロがでますよ。もう奥様なんですから」


 くすりと笑った笑顔が優しくて、こんな人が姉だったらいいなとヘルミーナは思って実家のを思い出す。

 ――ユリウスは、大丈夫だろうか。テレーゼはどうしているだろうか。

 立派な奥様になれば、いつか二人を守れる日が来るだろうか。


「……ありがとう、ゾフィー」

「この後は宝飾品の商人が来ますから頑張ってくださいね」

「それはドレスより大変そう……お茶のお代わりと一緒に、お菓子も貰っていい?」


 砂糖の生産のおかげか、フェルベルク領は菓子類が豊富で嬉しい。保存食のジャムや砂糖漬け、それを使った料理やシロップなどなど。キッチンにはそれらを保存する壺や瓶がたくさん並んでいた。


「ええどうぞ。クランブルの乗ったりんごのケーキはお好きですか?」


 大好きだとヘルミーナが返すと、ゾフィーはにっこり笑って部屋を出ていく。


「……旦那様が帰ってきたときには、この館がもう少し過ごしやすくなっているといいのだけど」


 腕に顎を乗せながら、布でぐるぐる巻きの顔を思い浮かべた。

 多忙で出入りが多くても、少なくとも執務室や寝室は花粉の持ち込みが少ないといいな、と思う。

 タペストリーや入り口にのれんのような布をかけてもいいかもしれない。


「……楽に息ができるように」

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