第18話 地図と六角形

 朝6時の教会の鐘が鳴れば、騎士たちが起床する時間だ。

 ヘルミーナは寝間着にガウンを羽織り、窓から中庭を見下ろす。

 城壁の側には騎士たちのための食堂があり、煙がくゆっている。ずっと昔には町中の家が、ここかパン屋のかまどでパンを焼いてもらう代わりにお金を払っていた――実質税金だ――というのは、先日の見学でウィルヘルムが説明してくれた。北部で農産物の収穫量が少ないため、他領より早々に食料関係の税を大幅に減らしたのだという。


 鎧を脱いでいる騎士たちが肩を寄せ合って入っていくのを眺めながら、領主のために作られた食堂には誰もいないことが寂しく思えてくる。

 騎士にも使用人にもそれぞれ食堂があるし、使うのが自分だけであるなら閉めてしまって自室で食べた方が、掃除の手間が省けるかもしれない。

 ラーレに聞いてみようか、と思って自分で否定する。

 領主の妻らしくしておいた方が、きっとウィルヘルムも館の皆も喜ぶ。


 社交がないのをいいことに締め付けのないデザインのドレスに着替えさせてもらい、食事の時間にゾフィーに呼ばれ、がらんとした食堂の椅子に座る。

 騎士たちが食べている茶色がかった噛みごたえのあるパンではなく、ふわふわの白くて甘みのあるパン。

 異物である――そしていつか去る自分だけが贅沢をしているのは申し訳ないという気分になるのは、彼らが紹介された時に自分に礼を尽くしてくれたからだろうとヘルミーナは自己分析した。


(フェルベルク様がいる時は平気だったのに)


 今ここにいるのはゾフィーと給仕に来てくれるメイドだけ。こちらから話しかけなければしんとしていて、エンドウ豆のポタージュをすくう木の匙が食器とぶつかって立てる微かな音が耳に響く。

 館の采配がなくても、女主人という立場はこういったことだけでも気を遣う。


 食事を終えた頃、早ければロープウェーで前夜に執事が上げた館の報告に対する返事と指示が花畑のウィルヘルムから届く。ロープウェーは最低でも毎日一往復するが、書類のやり取りが激しい時にはもっと動くという。

 ヘルミーナに対しての希望や確認は執事を通してくることが多いが、手紙があればこのついでに届けられるそうだ。


「今日は特にご予定がないそうです。強いて言えばゆっくり過ごされるようにと」


 ゾフィーが食後の紅茶のお代わりを淹れるかどうか尋ねるとともにそう言えば、


「紅茶のポットはこのまま図書室へ持っていける?」

「かしこまりました」

「ありがとう。紙を使う許可はいただけた?」

「はい」

「……ありがとう! すぐに向かうわね」


 返事を聞いたヘルミーナの、瞳が輝く。その語尾が歓声に近かったので、ゾフィーも目を丸くした。

 館に付いた当初にもらった紙ではなく、机に広げられるサイズの大きな紙は待望の品だ。領地に製紙工場があることがとてもありがたい。


 食事を終えると、早速執事に鍵を借りて図書室に足を踏み入れた。

 分厚い扉に守られた高価な本は、壁際にぐるっと配置された作り付けの書棚に納まっており、直射日光が当たらないようにと本棚の上部に明り取りの窓が付けられていた。

 中央にいくつか机が並んでいたのでそれを寄せ集めてしまうと、いそいそと貰って来た細長い紙を広げて糊で繋げ、ひっくり返す。それを二枚作る。

 

「まずは準備から……上手くいくといいのだけど」


 ヘルミーナは紙と一緒に持ってきた鞄の中から蝋燭を取り出してバトンのように持つと、紙の表面に何度も滑らせた。

 追ってティーセットを持ってきたゾフィーが訝し気に問う。


「どうされたのですか?」

「一枚は蝋引きにするの」


 蝋燭の蝋を紙にこすりつけると、油分が次第に染み込んでいく。こうやって作った油紙は耐水性があって、濡らしたくないものを包む包装紙などに使うことが一般的だが、今回の目的はそれではない。


 油が十分染みて向こう側が透けた状態になったそれを一旦脇によけてから、ヘルミーナは本棚の前に立って書名を視線でジグザグに辿って全体像を把握しようとした。

 歴史の本、地図、各種図鑑、郷土史、聖教の経典、伝説、儀礼、各地の料理などなど……。当然と言うべきか、仕事に使う本が大半だ。

 子供向けの本もあるにはあるが少数だ。そもそも出版点数があまりないということもある。本は貴重品だから。

 もしかしなくても、子供の頃ウィルヘルムが読んでいた本かもしれないと興味を引かれるが、今は後回しだ。


 ヘルミーナは本棚から国内で一番信用のおける地図を抜き出すと、巨大な国内全図を蝋引きしていない紙に書き写し、その上に敷き詰められた六角形ヘクスを定規と鉛筆で引いていく。

 六角形は『黒薔薇姫のシュトラーセ』でも採用されているが、ユニットの敵味方の方向――戦闘の有利不利などが視覚的にシンプルで分かりやすいと思う。


 それから同じく領地の地図。

 紙と一緒に借りて来た帳簿と見比べながら、ゲーム上で記憶にあるだけの特産品、開発できる資源を思い出す。

 ぐるぐると脳裏でかき混ぜられた映像が俯瞰の地図を描き出す。美麗な山脈や川の風景、隠された未踏の地を前に、平地に展開したユニットが並んでいる。


 だいたいこの辺で何が採れると六角形の中に鉛筆でマークを書いてから、その上に蝋引きした紙を重ねる。

 思惑通りにうっすらと下の地図が透けたので、それに重ねるように地図の大枠を写し取って、“レイヤー”を作る。

 その上に鉛筆で斜線を描いた。


「失礼ですがヘルミーナ様、こちらは何でしょうか」

「これは瘴気で、濃いところは二重に書いたの。

 フェルベルク領だけでなくほかの領地は今後の課題……なにか瘴気の発生に共通点があるかもと思って……。ゾフィーも気が付いたことがあったら教えてくれるかしら」


 山に登ったことを思い出せば、フェルベルク領の瘴気はあの魔物の虫と関係がありそうだった。

 虫に取り付かれていない樹は健康だが、ひとたび樹皮の中に潜り込まれると栄養が届かなくなるらしく木が徐々に弱り、最終的に立ち枯れる。

 この取りつかれてから完全に立ち枯れる前の時点が、おしべから一番瘴気をまき散らしているように見える。


「……放出がおしべというだけで、汚染されているものが虫とピケアだけ、とは限らないのですよね?」

「そう。花粉――汚染された花粉を放出するのはピケアだけに見えたから、伐採すれば拡散は止められそうに見えたけれど、そう単純でもないのかも。

 虫そのものの影響、土壌に濃縮されているとか、木が変質してしまったからとか、可能性だけなら色々。そうね、確か植生の本が――」


 ヘルミーナは森林のデータを本から見つけると、瘴気のレイヤーの上に樹種別のマークを大雑把に書いてみる。

 シュトラーセの現在の樹種分布はおおよそ三つに分けられる。そのうち、瘴気が少なからず発せられるところはピケアが主な地域だった。それもこのフェルベルク領内の、ブラウの側の山に集中して、そこから広がるように他の領地にほんの少しだけ広がっている。


 ゲーム上で言えば、デバフは10パーセントほどになる。大した数字に聞こえないかもしれないが、毎ターンかかってくるときつい。ゲームでは一斉に優勝をめがけて徒競走レースをしているようなもので、高難易度になれば最高効率の動きと偶然とに恵まれてやっと他の領地を出し抜けるバランスというのだから、相当なハンデだ。

 このハンデの中には領民が瘴気症でくしゃみや不眠などの体調不良になったり観光客が減ったりというのも勿論あるだろうが、領主が直接指揮をとれない――というのも含まれているのかもしれない。


「それで川はここを流れて、運輸に使える幅広の川はここ、今ある製材所はここ。林業と全体の収支はおおまかにはこの帳簿の通り……と。少しならお金に余裕がありそうかしら」


 いったん瘴気症は横において、次は瘴気症を何とかするための――予算や労力の配分についての情報を整理することにする。


「……ゾフィー、フェルベルク領の特産品について、知ってることを教えてもらえる?」

「はい。何かなさるおつもりですか?」

「独自の交易品はいくらあっても困るものではないから。売れば勿論お金になるし、 

市場も発達するでしょう。引き換えに他の特産物を融通してもらえたり、必需品にまでなれば領を尊重してくれたり。別件でも有利な条件を引き出せると思うし、道を引く理由になるから」


 何をするにもお金は必要だ。

 道は物資やお金を運んでくるけれど、輸送日程の短縮を目標にレンガで舗装などすれば建設のほか維持費も莫大だから、簡単に引くわけにはいかない。

 他の教育施設も文化施設もそうで、生産性や生活の質の向上に資するが維持費が高い。だからといって放置すれば、これもじりじりと領を支える体力がなくなる。

 騎士にしても、もし平和だと解体しても再度人を集めるのは時間がかかり、徴兵で逆に高くつくかもしれない。

 全てはバランスだ。


 それだけでなく、なんとなれば特産品は他領に対して引き上げるという脅しの材料にもなる。

 今まで普通に使えていたものが領主の不手際などで得られなくなった、となれば他領の領民に不満を抱かせることだって――と、思いついたことをこれは印象が悪くなりそうなのでゾフィーには黙っておく。

 ゲームの上での合理性を追求すると、人としてどうかという行動と思考になりがちだ。たとえば知っている顔をクビにしたり戦いに送り込んだりなんて、できる限りしたくない。


 ゾフィーはそんなことをヘルミーナが考えているとも知らずに少し思案してから、


「木材です。建材に薪に、製紙にと多用途ですね。以前は……前の領主様の時は今よりずっと盛んでした。今生産量が落ちているのは、立ち枯れてしまった木が増えて価値が下がっているからです。労力をかけても儲けにならないとかでかなりの数が放置されていますから」

「補助金を出せば何とかなるかしら。他には?」

「畜産物です。羊と牛の肉や羊毛・毛皮、それから加工品です。

 農作物は山がちですから南ほど発達はしていませんが、麦ですね。それに砂糖大根ビートが多めなので砂糖も生産量が多めです。

 他には規模が小さいながら、修道院でハーブや蜂蜜を使った雑貨やお酒、薬を造ったりしています」


 ゾフィーはこの領地出身らしく、ヘクスの上をこの辺りですと指さしてくれたので、ヘルミーナは先に書き込んだものを修正しながら全体像を把握する。


(ゲーム的に考える――すべてを単純化・概念化して考えると)


 フェルベルク領は山岳地帯だ。ユニットは動かしづらく何をするにも時間がかかる。農作物は豊富とは言えず、養える人口も少なくあらゆるところに人手不足になりがちだ。

 この欠点は、公共事業として農作業用をはじめとして様々な建築物をどんどん建てて技術の発展や集約化で補うしかない。

 同時に、森林を伐採して新たに道を作り、各地へのアクセスと作業・建設・生産速度を速める。


 比較的価値の高い特産品を他領地に販売して金を稼ぎつつ、相手に依存させるように動き、得たお金で人を雇い、製材所を建てて主力の木材の生産力を伸ばして次に繋げていく。

 資源が枯渇しない限りはそれなりに有効なはずだ――あくまでゲーム上で、しかも難易度が低ければ、の話だが。


 ヘルミーナは思考をまとめるためにティーカップを手に取った。いくらかの沈黙の後、


「……やはり、まずは伐採から」

「え?」


 決意を込めた言葉に、ゾフィーが顔を上げる。


「瘴気の森の木々を、可能な限り伐採したいの。とにかく放出する瘴気は一時減るから他の作業もしやすくなるはず。

 それに近づいてはいないけれど木が立ち枯れているのであればもう水が吸えないでしょう。お金にならないからと放っておいても、ピケアは元々根が浅く張るそうだし、土砂災害に弱い樹種だそうだから、倒れた木々で被害が拡大する可能性もあるわ」


 六角形を穴が開くほど見つめながら、どのタイルから手を付けようか考える。


「材木の使い途の検討と、伐採の悪影響は旦那様含めて専門の方に見ていただく必要があると思うけれど」


 ……それから、多分、思い入れのある森を伐ってしまうことに対しての、許しも。


「ヘルミーナ様」

「はい」

「……お体が心配ですから、そろそろ戻られては? ほら、また資料を集めようとされているでしょう?」


 ティーカップを空にして本棚に向かうヘルミーナは、咎められたので振り向いて苦笑する。


「……あと少しだけいい? できるだけのことはしたいの。

 無理をするのもきっと一年か二年くらいのことだし、突然現れた私があまりに役立たずで見当違いな振る舞いをすれば、旦那様と伯爵家の評判を落としてしまいかねないでしょう?」


 評判はここで働いている人たちにも関わる。たとえばツヴァイク家の侍女のテレーゼがヘルミーナにいくら良くしてくれても、他の家であの家の侍女をしていたのだから、と心無い言葉を言われていることだってあり得る。


「そこまで急がれなくても」

「早く瘴気をなくして瘴気症も軽減出来たら、旦那様も楽でしょうし、好きな方ができた時に、その方が嫁いできてくれる可能性も増えるかと思って。もし離縁が5年後だったら旦那様の外聞が良くないでしょう」


 勿論、領地の状態など関係なく嫁いできてくれるかもしれないし、そんな人だったらいいな、とは思うけれど。


「その時のためにも頑張らないと」

「……ヘルミーナ様では駄目なのですか」

「契約結婚ですから」


 困ったようなゾフィーの顔にその言葉を向けた時、ほんの、ほんの少しだけ胸が痛んだ気がしたが、ヘルミーナは気が付かないふりをした。

 第一、もしヘルミーナがずっと前に彼に出会っていて好意を抱いたとしたって、立場が違いすぎて結婚には至らなかっただろう。そんな遠い人だったのだ。


「……さあ、今度は木材の加工と流通、瘴気症の症例ついての資料を集めましょう。手伝ってもらえる?」

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