第17話 お飾りの妻と花畑からの手紙
「私はこれから、何度でも手紙を書きますし、何度でも山を登ります。よろしくお願いいたします、クラッセンさん」
それはテオフィルに向けてのお願いでもあり、決意でもあり、自身への宣言でもあった。
「……ですが、仰ったのはその意味ではないですよね」
テオフィルはウィルヘルムの従者で、今後おそらく父親の跡を継ぎ執事としてフェルベルク領を長く支えていく存在であることは想像がつく。
おそらく、プライベートでも彼の親しい友人のひとりだ。
二人の間どころか使用人たちの間でもまだまだ異物である――あるいは、妻の座を
今後明け渡すことがあるならそちらが正しいのかもしれない――ヘルミーナとは違って長い時間が育んだ信頼があるだろう。
「奥様の事情や背景は伺っております。ウィルヘルム様と違って私は――俺は疑り深いので、今まであれこれ観察させていただきました。領地に関する質問についてはウィルヘルム様もかなり苦戦して……ああ、正直に答えていましたけど、あなたの知識や態度を推し量ろうとしていた」
「守るためなのでしょう?」
ヘルミーナの頭がテオフィルの一人称と口調の変化と、それ以上の声音の痛いくらいの率直さに冷静さを取り戻せば、彼女の声に緊張が混じる。
「そう、フェルベルク領を。あなたの動機はともかくその点はウィルヘルム様や俺と一致できそうだ、と思います。質問は確かに性急で多かったけれど無駄はなかったし、領地運営に必要なことばかりだった」
一応合格点はもらえたらしい、とヘルミーナは安心する。けれどテオフィルは一度ためらうように視線を泳がせてから、射抜くような瞳で彼女を見据えた。
「ただ使用人でない俺としては、領地とウィルヘルム様のどちらかと言えば、後者を優先して欲しい」
従者ではなくただの友人としての品定め。そちらの方が余程彼にとって重要なのだろう。
ヘルミーナはゆっくり、噛みしめるように想いを言葉に変換する。
「その意味で役に立ちたいか……ですか。そうですね、旦那様は……優しい方です」
いつ怒られるかびくびくしないでいい、目を付けられなくて良い。するなと制限されず、何より質問にちゃんと答えてくれる。
「私には、たとえ人が忌むような瘴気が吹き付けてくるような場所でも、実家よりずっと呼吸しやすいのです。
ですから領地の運営だけでなく、恩返しとしても、旦那様にも呼吸しやすくなって欲しいと願っています。
ただ、契約外のことで安易に触れて良い方でもないと……」
(傷付けてしまいそうで)
山頂から風が吹く。灰が舞う。
この景色もウィルヘルムは今まで何度も見てきたのだろう。
余所者の自分にとっては“そういうもの”の風景。
でももし自分の故郷であるツヴァイクの森が徐々にこうなったら悲しいと思う。
彼も愛すべき風景と少しずつ灰色に侵されて寂れていく街と、それすら瘴気症によってなかなか近くでは見られない自身をどう思ってきたのだろうか。
あの瞳の深い緑を思い出す。
口に出して良いのか迷って濁すが、テオフィルもまた似たようなことを考えていたらしい。
ただ心配の滲む言葉が小さく届く。
「……ウィルヘルム様は、ずっと山に囚われています」
無事下山して使用人たちに出迎えられたヘルミーナは、侍女にお風呂に入れられ、医師の診察を受けさせられ、寝室に「しばらくゆっくり、眠られていてください」と押し込められた。
その後一眠りして真っ先にしたことは、紙とペンと手に取ることだった。
迎えにきた執事のクラッセンに何とか質問をひとつだけ許してもらったところ、手紙や領主が処理する書類は、生活必需品その他の荷物と一緒にロープウェーで上げ下ろししているのだという。
前世の記憶からすれば随分現代的な代物な気がするが、車輪とロープと
この城館の隅と山のラーナ村の外れ、そしてお花畑付近に管理用の小屋がそれぞれあって、その間を小さいゴンドラが一日に一度は行き来するのだという。
そこで早速シンプルな便せんに今日山へ同行させてくれたお礼と謝罪、テオフィルや護衛を付けてくれたことへ改めて礼を書き――ぴたりと手が止まったのは、手紙の表書きではなく中に書く宛名。
フェルベルク様、とかウィルヘルム・フェルベルク様――では他人に見られた時におかしいと思われるだろうか。
「ウィルヘルム様……とか? 馴れ馴れしくないかしら」
(ひとの前ではヘルミーナ様、と呼ばれているのだからおかしくはないはず……)
20分ほど悩んだ末に特別丁寧にその綴りを書いて、間違ってはいないか何度も見返して、封をしようとして。
その直前に思い出してこっそり庭に出ると、庭師に花を切ってもらった。
――ということがあったのが昨日のこと。
その後、夕食の伺いがてら様子を見に来た家政婦のラーレに不在を見付かって探し回られた結果、執事と彼女にだいぶ絞られたヘルミーナは、今日は最低限の用事以外、寝室から出ることを禁じられた。
昨夜の夕食も、翌朝の食事も寝室に運ばれてきたほどだ。
病人ではないのだし、と抵抗してみたが「病人です」と許してもらえなかった。
「しばらく高地に体が慣れるよう、なるべくお休みになった方が……」
朝食後のお茶をいれながら遠慮がちに口を開いたのは、侍女のゾフィーだ。
赤みがかった茶色の髪を上品にまとめ、オリーブグリーンの瞳が落ち着いた雰囲気の、ヘルミーナより幾つか年上の女性だ。伯爵家の遠縁の血が流れているという。一時は王都に行儀見習いに出されていたそうだ。
ヘルミーナの
今までは適切な距離を取ってくれようとしていた彼女だが、今日は部屋を全く出て行こうとしない。お目付けとして居るのは明らかだ。
「慣れてしまうとそういうものだと思って、きっとベッドから起き上がれなくなると思うの」
ヘルミーナはふかふかの天蓋付きのベッドから筋肉痛の足を出すと、飴色の床板に降り立った。
これでも二度寝してなるべくゆっくり動くようにしているのは、あんな思いをもうウィルヘルムにさせないためだった。
自分のために熱を出しても山の中に留まらせるような無理をさせてはいけないと。
「それに、部屋から出さないのはやりすぎでは……?」
「放っておくと動き回って仕事し続けるだろうからと、伯爵様がクラッセン様にお伝えされたそうですよ」
「しようと思えばベッドの上でも読書は続けられるけれど……」
「……あまり困らせないでください」
本当に困ったように眉を下げてゾフィーは微笑する。
「……では、少しだけなら?」
「何もしないのも落ち着かないだろうと、仕事は頂いています。
気分転換に短時間中庭に出ることは許されていますが……あまり好ましくないと思います。まさか視察はなさらないように。それからお一人での外出はおやめください」
ゾフィーのいう仕事とは、部屋と日常生活の必需品や何やらをリストにすることだった。
なるほど、部屋から出ず、椅子の上でできる仕事。
館に初めて到着してすぐウィルヘルムから「部屋の調度品他必要なものを揃えたつもりですが、何分急でしたので不足があれば執事などに申し付けてください」と言われていたのだが、それを後回しにしていたから、ちょうど良かったのかもしれない。
「……そうね、どちらにせよ私のすることはあまりないし……」
それに、差し当たってウィルヘルムや執事からの信頼を得るためには身の回りの、足元から整えることが早道かもしれない。
ヘルミーナはざっと室内を確認したうえで、ソファの上で、ゾフィーが持ってきた屋敷内の調度品のリストやカタログ、クローゼットに入っているドレスや装飾品のチェックなどにいそしんだ。
この部屋は先代の夫人が使ってからは時折掃除するだけだったという。
調度品もそのままだったが、ほとんどこのまま使うことにした。デザインは優美さや豪奢を好む王都に比べれば武骨だが、余計な装飾がないシンプルさも経年変化で艶がある深い色も気に入った。大きな化粧台やら姿見は小さなものに変えて、代わりに大きな机と本棚を入れることにした。
寝具は用意されていたものでは王都暮らしだった身には少々寒く感じていたので、追加で出してもらい、布類もあるものの中から好きなものから選ばせてもらう。ベッドのカバーリングやカーテンも、厚みがあって少しくすんだ色と、好みのものにした。
王都に出る前にした寝具に好きな色のカバーをかけたい、という願いはもう叶ってしまうわけだ。
ゾフィーは手際が良く、適切なアドバイスをくれるので気が楽だった。
ヘルミーナはこういったことに不慣れな自覚がある。別に嫌いなわけではなく、昔領地にいた頃には母親おさがりのドールハウスでよく遊ばせてもらっていたのだが。
「本当は部屋を作り変えてしまうようで申し訳ないのだけど……旦那様もラーレさんたちも、思い出がおありでしょうから」
「女主人である奥様の私室なのですから気になさらないでください」
「……女主人と言っても、その……寝室は別だし、何もないことをラーレさんもゾフィーも知っているし」
これがもし共有の寝室であれば、たとえウィルヘルムが寛容であっても勝手に布類を変えるわけにはいかなかっただろう。
「政略結婚などよくあることですし、寝室が別のご夫婦も珍しいことではありません。
それにもし離婚される時が来たときに、白い結婚であると証明できればヘルミーナ様の評判が損なわれることはないというお気遣いからです」
ゾフィーの言葉には嘘はなさそうだった。契約結婚というのは二人で決めたことだが、実際付き合わされる身近な使用人はそういったことも含めて聞かされていたのだろう。
「それに……館の中でもこうした私生活の部屋は昔から全く変わっていないとラーレさんも嘆いておられたので、奥様がいらしてくれて、やっと館が息を吹き返した気がいたします」
昔から変わっていない、というのはいつからだろうか。というより、前の領主ご夫妻は今どこにいるのか、隠居しているのだろうか。
ヘルミーナが疑問をぶつける前に、ゾフィーがクローゼットを開けてしまったので聞きそびれてしまう。
「次はドレスですね。奥様がいらしてクラッセン様もラーレさんも大喜びですから、今なら色々とねだっても大丈夫ですよ」
「ええと、では、衣装の採寸の時に……ドレスだけでなく、登山着や登山道具などもお願いしていい? また山に登りたいの」
素敵な宝石や貴金属をねだればいいのかもしれないが、今のところ社交の予定が立っていないし、仮初の妻に金をかけるわけにはいかないだろう。
「承知いたしました。ドレスの採寸日ですが……」
そうして現時点でできることを終えてしまうと、暇がやってきた。
結局のところウィルヘルムが以前言ったことは正しかったのだ。継承問題以外に今まで特に大きな問題がなく、領主と使用人たちが分担して屋敷や領地を回していた。ヘルミーナはお飾りでも十分で領地経営に関して特別やるべきことはない。口を突っ込む余地がないともいえる。
見たいものは部屋の外、あらゆる質問に返してくれた人は山の上だ。
(のんびりしていると、このまま領地は安泰なのかと錯覚すらしてしまいそう。それはゲームと同じように没落すると決まったわけではないけれど)
昨日の疲労が残る体をソファに沈めながら、視線を待機している侍女に向ける。
「……ゾフィー、部屋からなるべく出なければいいのよね」
「ええ」
「では図書室……から、本を持ってきてもらうのはいいのよね? 駄目? それが難しいなら雑談に付き合ってくれるかしら。農作物の作付について……」
「……承知しました、お付き合いいたします。私などでお役に立てば」
ため息でもつきたそうな顔をさせてしまった。
「明日は図書室に行かれますか。難しいご質問にはお答えも難しそうで……あら、お顔が明るくなられましたね」
そんなに暗い顔立ったろうかとヘルミーナが自身の頬に手をやった時、ドアがノックされた。
「……旦那様からのお手紙と贈り物をお持ちしました」
クラッセンの顔がちらりと覗き、彼がゾフィーに手紙を渡す。
ソファから腰を浮かせていたヘルミーナは扉が閉まると同時に手紙を受け取り、宛名にヘルミーナ・フェアベルク伯爵夫人とある封筒をペーパーナイフで開いた。
白く飾り気のない紙に書かれたウィルヘルムからの返事は短かった。体調を気遣う言葉が綴られており、その後に簡潔に今後の予定が記されていた。
「春の
説明を求めて顔を手紙から上げればゾフィーが軽く頷き、
「花のお祭りは、我が国の春の訪れを祝う祭りのひとつです」
他国と比べてもシュトラーセ王国は全体的に標高が高くやや寒冷で、春の訪れは貴重だという価値観がある。
王都や領地でのそれなら見たことがあった。広場に花飾りや各地の名物などを売る露店が並び、お酒や料理を出す屋台や、各地から集った吟遊詩人や芸人を目当てに人も集まる。
「フェルベルクでは特に花々をリースやスワッグにして玄関などに飾ります。特産品が市場に並び、皆で民族衣装を着てパレードをしたり……」
このような感じの服です、とゾフィーは手で自分の体の周りを布のシルエットのように示して見せた。
女性はふわっとしたブラウスの上から、胸の開いたワンピースと腰布を重ね、羊か山羊革の軽い靴を履くらしい。
「女性は体のどこかに花を飾るのですが、その花を親しい人と送り合うことも多いですね」
「それは楽しそうね」
同時に、ウィルヘルムにとっては地元民に顔を見せる貴重な機会で仕事なのだろう。
「ただ、旦那様は大量の瘴気に晒されることになるわよね……何とかお力になれたらいいのだけど。
そうね、教会に手紙を書くわ。それから中庭を好きにしていいと仰っていたから、苗をお願いすることはできる?」
「承知いたしました」
ヘルミーナは教会宛の封筒をゾフィーに渡して届けてもらい、一人になった部屋で贈り物の封を開いた。
ウィルヘルムからの手紙の最後にはこう書かれていた。
『いただいたカモミールや薬草のおかげで、喉が少し楽になりました。こちらからも花をお贈りします。高地にだけ咲く花で、もう少しするとそこかしこで満開の姿が見られます』
手紙と一緒に運ばれてきたもう一つの包みには、こよりでブーケのようにくくられた可愛らしい白い花が横たわっていた。
ひょろっとした真っすぐの茎を飾るように控えめな葉っぱが付き、先端にふんわりと丸く密集した小さな花弁が咲き始めていた。飾り物のように可愛らしい。茎のせいで一本だと頼りない印象だが、集まるとなかなか華やかだ。
花瓶に活けて書き物机に飾れば、ほんの少し、わずかに感じられる香りはすがすがしくて少しだけ甘い。
ウィルヘルムも同じ香りを嗅いでいるのか。それとも昨日の今日では鼻が詰まったり鼻腔が荒れたりして、感じられる余裕もないのかもしれない。
お返しでも花を贈られたなんていつぶりだろう、とヘルミーナは思った。
そして日の差す窓辺で花を眺めればこの部屋に流れる空気が穏やかすぎて、このまま慣れてしまれば、もし実家に連れ戻された時に耐えられなくなるかもしれないと、それだけが少し恐ろしかった。
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