第16話 高山病

(――倒れる)


 ぐるりと回った世界のまま、ヘルミーナはぼんやりとそんなことを考えた。

 咄嗟に手を伸ばしてどこかに捕まろうかと、手を突こうかとするがどちらが上下かも分からないままきたる衝撃を覚悟する。

 が、その体が地面に衝突する前に、何か暖かいものに背中を支えられた。 


「大丈夫ですか」


 その声は思ったより近く、ヘルミーナのすぐ頭の上から聞こえてきた。

 両肩と背中を支えられながら、ふらつく足の裏が地面を探して彷徨う。


「大丈夫……です、ちょっと疲れたみたいですね」

「大丈夫ですかと聞いては駄目でしたね。眩暈はありますか? 呼吸は苦しくないでしょうか。頭は痛くないですか」

「はい、眩暈です。息は……少し苦しいかもしれませんが、頭痛はありません」


 ヘルミーナは暖かい吐息を頭の上に感じつつ、自分が知らず弱々しい声を出していることに気付く。


「とりあえずどこかにかけましょう。……テオフィル」

「はい」


 ヘルミーナの背中側でやり取りがあり、心得たようにテオフィルが走って村人に声をかけている様子が、まだ揺れる視界の端で見えた。


「こちらに座って、水をどうぞ。ゆっくりでいいですよ」


 温かい腕で支えられたまま切株まで連れてこられたヘルミーナはそっと壊れ物を扱うように座らせられる。ふと体が軽くなったかと思えば、腕からザックが引き抜かれていた。

 腕の主――ウィルヘルムがザックの側面ポケットから革製の水袋を出して、幼児にするように口を開けてくれた。勧められるまま水を口に含む。


「高山病になりかかっていますね。ご存じですか?」

「こうざん……びょう……くうきの……」


 ぼんやり思い出す。

 高い山は平地より酸素が薄いから、慣れない人間が急に上ると酸素が足りなくなるのだと。

 軽度なら休むか山を下りれば済むが、ひどくなれば死に至ることもある、という知識はあった。


「そうです。山の標高が高くなるほど空気が薄くなり、体に十分取り込めなくなる症状です」


 ウィルヘルムは理解しやすいように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「王都からブラウの標高差でも数百から1000メートルくらいあります。馴染まないうちに山に登ったからでしょう。

 ここからは更に標高が高くなりますし、少し休んだら山を降りてください。テオフィルに送らせます」

「……そんな……でも」

「でも、ではありません。失礼します」


ウィルヘルムは珍しく強い口調で言って、彼女の体を支えながら器用に自身の手袋を取った。

 ヘルミーナの長袖を肘まで捲ると、赤くなって皮膚のところどころむけた手で彼女の手首に触れる。

 その手つきは優しかったが、驚いてヘルミーナはびくりと震える。


「済みません」

「いえ……違います。旦那様の想像していらっしゃるような理由では……」


 ウィルヘルムが申し訳なさそうに謝る声がアッシュブラウンの髪をくすぐって耳に落ち、そんな場合ではないのに耳が熱くなる。

 こんなに近くで男性に、素手で触られることに慣れていなかった。

 小さく頷く気配がしたが、やはり続く声は浮かない。


「ご令嬢を登山させることにもっと慎重になるべきでした。……きっとまたテオフィルやクラッセンに怒られますね」


 後悔の滲む声に、ヘルミーナの耳からすっと熱が引く。


「そんな。私が無理を言って連れて来ていただいたのです。昔は森にはよく行っていたので、過信してしまったかもしれません」

「いえ、わたしも自分で考えるより、浮かれていたのかもしれません。……脈は大丈夫なようです」


 ウィルヘルムは、手を放すときもう一度、済みませんと呟く。

 ヘルミーナは「浮かれていた」というのはどういう意味なのか問いかけようとして、あまりに自分の欲望に忠実すぎるだろうと質問を変えた。


「何故謝られたのですか」

「……あなたに許可なく触れたことと、このような酷い手で……」

「助けてくださっているだけではないですか。旦那様のせいではありません……あ……ただあの、手が少し熱いようですが」


 水を飲んで休み、少し呼吸が楽になった気がすると同時に、触れられた肩や手首が、触れたウィルヘルムの手が少し熱っぽかったことを思い出してその手を取った。


「あの、こんな手などを」

「旦那様と同じで、確かめているだけですから……」


 ヘルミーナより一回り大きな手は、そう思って触れれば確かに微熱がある。


「……今年は伴侶を探そうとして平地にいる期間が長かったので……瘴気を長い間吸い込んだせいで微熱が出やすいのです。大丈夫です、慣れているので限界は分かります」


 ヘルミーナを安心させようとする言葉に、彼女は手を離し、くるりと体の向きを変えると深く頭を下げた。


「……申し訳ありません。私のせいで山に帰る時期も遅らせてしまい、瘴気の中をゆっくり歩かせてしまいました。フェルベルク様のお優しさに甘えていました」


 いったん離れよう、とヘルミーナは決意した。これ以上我儘に付き合わせるわけにはいかない。


「甘えるなど。領主夫人としての役割を果たそうとされていただけではないですか」

「今日はお屋敷やお仕事の様子を拝見したかったのですが……それはまたの機会にいたします」

「またの機会」


 驚いたような声にヘルミーナは顔を上げる。

 高山病を経験して諦めるだろうと思ったのだろうか、普段は感情をあまり見せない目が驚きに見開かれている。


「私、自分が未熟であることは重々承知していま……すと言いたいところですが、俯瞰して見れるほどではないと思います。

 でも登山の練習をすればきっと、登れるようになると思います」

「……無理をするなと言っても無理をしそうですね、あなたは」


 降参したというようにウィルヘルムは長い息を吐くと、


「分かりました、尋ねたいことがあれば手紙を書いてください。詳細はクラッセンに」


 ヘルミーナが頷けば、間近で真剣な視線が返ってくる。

 目の奥に暗い森が見える。

 ああブラウの森の色だ、と思う。ともすれば飲み込まれてしまいそうな。


「……あなたの存在はわたしに都合が良すぎて、時折怖くなります。正直戸惑っているのです。二心がないと信じて良いのですか」


 ……それなのに声はひどく頼りなく、何かを恐れているようですらあった。


 どう答えるべきか彼女は迷う。

 二心の意味にもし忠誠とそれ以外という意味が含まれるのであれば、ヘルミーナは確かに二心を持っていると認めざるを得ない。

 同情とか、個人的な好意とか愛着とか――敬愛とか。


 王都で見た貴族の青年の多くに、彼のようなことがこなせるとは思えない。書類を書いてからここまで、ほとんど初対面の人間に良くしてくれたことも、ハンデがありながら領主としての仕事をこなしていることも、山登りをする体力と知識があることも、関わった期間は短い間ながら尊敬している。


 それを直接示しては傷つけてしまうかもしれない、と思ってもいる。けれど、そんなものは全くないというのも嘘を吐くことになる。

 だから精いっぱいの誠意を、今自身を傷つけて欲しくないという気持ちを伝えようとした。


「実家に追われる娘など都合良くありません。そう思われるのは、旦那様がご自分を低くお見積りすぎなのです。

 私が数日間、好奇心のままに尋ねたあれこれに全部、ほぼ正確に答えてくださる――それだけの忠誠を、努力を領地と領民に捧げている方が、どうして、こんな」


 ヘルミーナは、ここ数日の冒険で痛んだ、けれど家事をしない自身の指でウィルヘルムの手の甲にそっと触れた。

 アレルギー症状の湿疹で赤くなり、乾燥した皮膚。細かい切り傷、ペンだこがあり、そして何か、固いものを握ってきた手。


「この手は、ペンや剣を握り、登山をし、何か他の物を守る為に病で傷つきながら領民を支え、私を支えてくださった」


 言いながら、言葉が止まらない。


「ブラウに来て日が浅い私が申し上げても説得力がないかもしれませんが。でも、結婚して間違っていなかったと思います。私はこの手が好きです」


(……まずい)


 誤解を与えかねない表現。そこまで言うつもりはなかったのに、とヘルミーナは少し後悔した。

 高山病の影響なのか、思考がまとまらない。なんだか少し酔った時みたいだ。


「……きっと旦那様に相応しい方が現れるまで、この領地と旦那様をお支えします」


 ヘルミーナが手を離してやっとのことで付け加れば、ウィルヘルムはありがとうございますと唇から息をこぼすように呟く。

 瞳は普段通りに、周囲の景色を映していたように見えて、ほっとする。


「――ウィルヘルム様、奥様を送る手はずが整いました」


 その時テオフィルが増えた荷物を手に戻ってきたので、彼に再度手を取られて素直に立ち上がる。

 そう、動揺も悟られないようにしなければ。


「……付いていけず、申し訳ありませんが。お気を付けて、ヘルミーナ様」

「旦那様もどうかお元気で」




 ヘルミーナはその後すぐ、テオフィルと、彼が探してくれた狩人だという夫婦と共に山を降りた。

 ヘルミーナは、ウィルヘルムがテオフィルが戻るまで村に宿泊すると知って、一度は彼の同行を固辞しようとした。

 が、こういった場合のために泊る伯爵家の小屋があるというし、無理をしたのだから今回は従うようにと強めに言われてしまったので仕方がない。


「奥様、お加減はいかがですか。……小屋で休めたらと思われるかもしれませんが、早い下山が高山病には良いようです」

「お気遣いありがとうございます」

「……使用人にお礼を言わなくて結構ですよ」


 テオフィルは苦笑と言っていい表情を浮かべた。


「それから、村人はよくウィルヘルム様の様子をみてくれますから謝らなくても結構です。

 ウィルヘルム様はちょっと頼りなく見えるかもしれませんが、何度も登山してますし王都の口先だけの貴族連中よりここではずっと頼りになりますよ」


 ヘルミーナに他意はなくとも、王都の貴族連中というのに彼が悪印象を持っているのは確かなようだ。


「王都では、嫌な目に遭いましたか?」

「入り口で脱ぐ外套の色ですら、黒が濃い薄いで騒ぐ暇人がいますからね」


 布で顔を覆うとなれば確かに相当目立つだろう。もしかしたら素顔を見たくないと言った人も中にはいたのではと考えると、ヘルミーナの胸がつきりと痛む。

 彼女はテオフィルの皮肉っぽい表情に話題を変えた。


「山の上ではお二人で暮らしていらっしゃるのですか?」

「私はどこでもお供しますが、上に男性の使用人が常駐していて、管理と雑用、警備もしてくれています。どうしても困ったことがあればこの村から人に来てもらいますのでそれで普段は事足ります」


 下り坂は足に負担がかかるので気を付けてください、と、テオフィルはヘルミーナの横を並んでゆっくり歩く。狩人でありブラウノスリを腕に止めている村人の夫の方が先行し、時折虫を追い払いながら降りる。

 行きよりもこまめな休憩を挟みつつ半分以上過ぎた時、テオフィルはふと、青く形の良い目を細めて、ちらりと女主人に視線を送った。


「主人がいないところでお尋ねしたいと思っていたのですが。奥様はウィルヘルム様のお役に立ちたいと、本心から思われていますか」

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