第15話 山村と鷹

 立ち枯れのピケアが増えていく。

 常緑樹の深い緑は密集すれば黒々と茂り、葉の密度が落ちた立ち枯れの木は生気をなくして黒ずんでいる。

 生と死の二種の黒と、その合間のグラデーション。


 遠くに見えていたブラウの黒い山は瘴気によって忌まれていたが、しかしそれでもこの灰色によって黒の印象はまだ薄められていたらしい。

 黒と灰の濃淡は前世の水墨画を思い出すが、時折魔物の甲虫の固い外骨格が樹皮の下にうごめいた気がして、皮膚が疼く。

 上がっている息のせいで時々挟まれる休憩はヘルミーナを気遣ってのものだったろうが、だから慣れない登山のせいだけではない。

 長居をしたくない場所だと、思ってしまう。


(そう思ってしまうのは、私がよそ者だから。きっと、この山はブラウの人々にとっては大事な山だったはずで、今も村があって生活が営まれている)


 緩やかな坂道の途中、木々がいったん途切れた場所に差し掛かる。

 ほっとした時に折しも強い風が吹いて、ヘルミーナは片手で帽子を押さえてもう片手で目を庇った。

 山から下界へ風が吹き降ろし、視界がぶわっと灰に染まる。

 灰色にけぶるブラウの様子は、事情を知らずに見れば山火事が起きたと慌てたに違いない。

 泉の館クヴェレの、ブラウ湖の青を写し取ったような美しい屋根瓦が薄い灰色に染まっていく。

 美味しい人参を作ってくれた畑も、白いシーツも、小さく見える訓練する騎士たちの鎖帷子チェインメイルも、動き回っている下働きのエプロンも。

 それから自分の全身にも吹き付ける灰のような粉――瘴気。

 強い風が抜けたのを確認してから、手を離したヘルミーナは弾む息を整えながら問う。


「ひどい煙ですね」


 昨夜までより急に勢いを増した煙の、その中に立てば目鼻から口から、耳から、あらゆる穴から侵食されそうな気がしてしまう。

 前世の記憶が、今は感じないはずの痒みを思い出させる。


「しばらくこれが続くのですか?」

「疲れましたか」


 背後を振り向けばウィルヘルムがヘルミーナを待っている。

 登山では最も足の遅い者に合わせるのが鉄則だと聞いたことがあるが、彼はそうしてくれていた。

 そして登山を始めてからずっと鼻を布で拭いている。


 自分がいなければもっと早くお花畑の家に帰れたのだろう……と思う。

 しかしほんの少しだけ、不安げに細められた緑色の目は多分、瘴気が原因ではない気がした。

 くぐもった声に気遣うような響きが含まれていたから。


「大丈夫です。先ほど休んだばかりですから。これというのは、山道ではなくて……煙のような瘴気のことです。話に聞いてはいましたが、目にするのは初めてですので」

「そうですね。ピークは春ですが、冬が来るまではずっと漂っています」


 ヘルミーナは坂道の上を数歩登ってウィルヘルムの横に並ぶ。館に帰るか確認されたが、断る。実際にまだ体力も十分あったし、夫の住む館を見たかった。


「妻となったからには見ておく義務があると思います」

「……義務、ですか」


 ウィルヘルムはヘルミーナの真剣な瞳から目を逸らし、ただの小屋ですよと続けた。


「それでも、そちらで執務をされているのですから、本館と言って良いくらいです。せめて一度くらいはどのくらい離れているか自分でも知っておかなければ」

「距離なら麓の館から、あの山頂付近――」


 ウィルヘルムの革手袋の指先が麓に建つ泉の館から、稜線を辿って山の頂を指す。

 そこには黒い森は見えない。森林限界の上、高山植物が茂るお花畑と呼ばれる場所。

 “お花畑伯爵”と平地で揶揄されるウィルヘルムが一年の四分の三を過ごす館が、そこにあるはずだった。


「あなたの暮らす屋敷からは大よそ1000メートルといったところですね。……標高で、ですが」


 そこで言葉を切った後、突然激しい咳があたりに響いた。ウィルヘルムの背中が跳ねる。


「大丈夫ですか、フェルベルク様……あ、いえ、旦那様」


 出掛ける前のラーレのアドバイスを意識して声をかけてみるが、背を撫でるほどには親しくない。触れていいものかためらう。

 普段これほどの咳が出るのかも知らずに背後のテオフィルに目を向けると、大丈夫だというように彼は頷いた。

 その通りに何度か咳き込んでからウィルヘルムは息を整えて、安心させるように顔を上げた。


「ごほっ……ええ、気にしないでください、いつものことですから。それに妻が来てくれたので、平地にとどまることなくこうして山頂に戻ることができますし……これで一安心です」


 咳が落ち着き、少し声音に安堵が見えたことにヘルミーナは良かったと頷いたが、一安心という意見には内心全く賛同できなかった。

 領地の未来に不安があったし、領地の運営に参加するという意味では全く先に進んでいなかったからだ。


 歩き出したウィルヘルムの背をヘルミーナは追う。

 そう、きっとしばらくは、背を追うことしかできないのだろう――そう思っていたのに。




 山の中腹のなだらかな傾斜を黙々と歩けば、ふと木々がさっと幕を引くようにして、開けた草地が現れた。

 ラーナ村。

 木組みと漆喰の家の間に小さな畑と、畜舎らしい建物がいくつか点在している。

 奥にはこんもりとした低木が花を咲かせており、先端部が突き出した丸い葉は修道院や泉の館クヴェレで見た意匠のひとつによく似ていた。

 視線に気付いたウィルヘルムが、あれはコリスの木だと言う。聖ゲルトラウデがラーナに植えたという伝説もあり、食用や薬用、様々な用途で使われているのだそうだ。


 草地を縫うように清い流れが見えたので尋ねると、山頂を水源としてブラウ湖に注ぐ川のひとつだとウィルヘルムは教えてくれた。

 この水は飲用のほか、製材の運搬や農業、羊や牛などの畜産業にも使われているが、どれも産業として大規模ではないという。自給自足のほか取引先で訪れるのはブラウくらいで逆はあまりない、特に瘴気が増えてからは。


 そんな村にひとつほかと違う特徴があるとするなら、魔物の虫を払う方法を持っていることだった。


「今日は視察しませんが、紹介だけしておきますね。鷹匠が魔物の虫を駆除しているのです」


 物置にしては通気性が良いなと思っていたいくつかの小屋の側で、ウィルヘルムの足が止まる。格子を隔てて猛禽類らしき鳥たちが、止まり木で眠ったり水遊びをしている様子が見えた。

 その中には雛を世話している鷹の姿もあった。雛はふわふわの綿毛か羊毛を子供の手で丸めたような大きさだ。

 親鳥も一般的な鷹よりもずっと小柄で、もふっとしたシルエットが可愛らしい。茶と白の落ち着いた色合いの羽毛の中に、翼を広げると中に一筋、青い色がすっと入っている。

 ひと刷毛誰かがいたずらしたかのような鮮やかな色にヘルミーナの目が引かれると、


「ブラウノスリという鷹の一種です。ブラウ周辺にしか生息しておらず、小型なので森で小回りが利き、あの魔物の虫を取るのに適しています」

「どうやって取るのですか」


 貴族の令嬢には刺激が強い話の続きをしていいものか、ウィルヘルムは確認すべきだったのかもしれないが、彼はそうしなかった。数日間で大分彼女に慣れたのだろう。


「樹皮の合間にくちばしを突っ込んだりします。

 賢い鷹なので、人間が用意した網に追い込んでくれたり……これからわたしのノスリを引き取って山頂まで行きます」


 ヘルミーナが顔を格子に近づけすぎたせいだろうか。

 ブラウノスリの母鳥は背中に子供たちを庇うように両翼を少し広げ、威嚇するようにピィーと少し高い声で鳴いた。


「邪魔をしてしまいました」


 慌てて少し下がった時、ヘルミーナの体が傾ぐ。思ったように足が動かず、ぐるりと視界が回った。

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