第20話 はじまりの一歩
日々は忙しく過ぎる。
朝食を終えると、執事や家政婦と今日の予定を確認し、打ち合わせ。
次にウィルヘルムからヘルミーナに届いた手紙があれば確認し、必要があれば話し合う。
ハーブの世話と前後して騎士たちの訓練を見学したり、午後は屋敷の中の仕事を終える。
女主人がやるべき仕事を執事や家政婦から少しずつ教えてもらい、社交の相手のリストを頭に入れ――王都の主要な貴族は頭に入っていたが、地方のものも――必要な家具の手配を終えて、装飾品や食器、出す料理の扱いについてキッチンで尋ねる。
その合間を縫って花粉対策グッズの試作をする。
登山のための体力作りは、だからと言って伯爵夫人という立場で中庭をマラソンするわけにもいかなかったので、あえて移動を遠回りしたり意識して階段の上り下りや早歩きを取り入れた。
こんな風に、城の中にいるだけでもやるべきことはそこそこ多かった。
そう、
『修道院長に会うまでに、誰かに行方を悟られませんでしたか』
彼女は書き物机で昨日届いたウィルヘルムからの手紙を改めて眺めて、アッシュブラウンの後れ毛を耳にかけながら息をつく。契約結婚を申し出る時にほとんど全部語ってしまったが、気が付いていないこと、話していないことがあっただろうか。
「可能性としては……駅の宿、馬車の御者や同乗者に聞き込みされたとか。あとは……服かしら」
雨に濡れて脱ぎ棄ててしまった外套とモーヴのドレス。あれは実家のものだ。あの時は生死がかかっていたから仕方がないが、見付かった可能性はある。
修道院長に拾われたのは偶然としても、王国北東部に行こうとしていたことはバレているかもしれない。
手紙にその旨を書いて封をしようとして、少し追記をして、薄い布を重ねて作ったマスクを1枚入れる。ゴム紐の代りに耳にかける部分は、
顔を布で覆うという概念はあっても、医者でもないしかも貴族が付けるのは珍しい。でも山を降りる時だけなら比較的他人の目も気にならないだろう……たぶん。
「後は私が信用を得られているかどうか、かしら」
ヘルミーナは小さく嘆息する。
その件についてはまだ本当のところは分からない。フェルベルク領を支えたい気持ちは伝わっただろうが、医療の素人が「瘴気に効果があります」と言って試してくれるかは別の話だ。
……でも、優しい人だから試してみてはくれるかもしれない。
最近は毎日のようにちょっとした手紙をくれて、高山の植物を添えてくれた。見たことのない花々は書き物机に増えていって、今ではドライフラワーや栞にして取っておいてある。
ウィルヘルムは植物に詳しくて、ちょっとした花にまつわる言い伝えや花言葉を添えてくれることもあった。
「お疲れですか」
悩んだ末に封をした手紙を木のトレイに置くと、ゾフィーの声がした。
ヘルミーナは貴婦人らしくなく、くるりと軽やかに体の向きを変えて、相変わらず穏やかな表情の彼女を見つめる。
「疲れてはないわ。我儘なのは分かっているけど、たまには外に行きたいと思って。修道院にお礼も言いに行きたいし、瘴気症やハーブや蜂蜜の利用法について聞いて……」
「……お仕事ばかりですね」
そう言われて、ヘルミーナは困って眉を下げた。
今のところの優先事項が瘴気解決なのだから仕方がない。
「伺っていませんでしたが、奥様のご趣味はございますか? 楽器や観劇、刺繍ですとか」
「ハーブや読書? ありきたりかしら。あとはチェスなどの
どれも病気でベッドから離れられない母との想い出だ。
特にチェスは自分よりずっと強いはずだったけれど、幼い頃はわざと負けてくれたことを思い出し、ヘルミーナの表情が緩む。
彼女がトレイの上の手紙を取って渡そうとすると、ゾフィーは意味ありげに微笑んだ。
「クラッセン様が奥様をお呼びでしたよ。お手すきの時に執事の執務室にいらして欲しいとのことです」
「それなら、この手紙は私が直接渡すわ。戻るまで休んでいてね」
ヘルミーナは手紙を持つ手を引っ込めると、早速とばかり部屋を出た。
扉の外にはアロイスが控えており、数メートルの距離を保って着いてきてくれるので安心だ――これももう、城内なら護衛などいらないと思ってしまうほど、部屋の配置も騎士たちがたいてい配置されている場所も覚えてしまったのだが。
執事用の執務室は、ツヴァイク家の書斎ほどの広さがあった。本や書類などが詰まった棚に囲まれて、古びた机の上で書類の山をより分けつつ格闘していたクラッセンは、女主人の訪れに顔を上げ、次に腰を上げる。
「お時間を頂戴しありがとうございます、奥様」
「こちらこそ」
執事のクラッセンは穏やかな物腰と控えめな仕草の中に、刻まれた皺は長年の苦労を物語っている男性だ。髪の色合いは山に帰った息子のテオフィルと同じだが、金に白いものが混じって白金のようにも見える。
代々フェルベルク家に仕えているということからも分かるように、間違いなくこの館で最も長く館で過ごしてきた人だ。そして今も、山で一年の大半を過ごす領主の指示を受けつつ代理のようなことをしている。
女主人となれば敬語を使うべきではないのかもしれないが、他人が見ていなければ最も敬意を払うべき人だった。
「旦那様への手紙をお願いします」
「お預かりします。……どうぞおかけください」
執務室であるのに来客用の椅子が用意されているのは、主人や他の人とここで打ち合わせをすることもあるのだろうか。
ヘルミーナが腰を下ろすと、クラッセンはご報告がいくつかありますと言った。
「まず旦那様が花の祭りの前日にこちらに戻られます。祭り当日はブラウのパレードに参加され、翌日は山に戻られます。そのパレードにご参加いただければと思います。
……本来でしたらご結婚のこともあり、ご一緒に領地の各街の祭りに顔を出していただきたいところですが……」
「何か問題が……お体の具合が? それとも……私が契約結婚だからですか」
扉は閉まっていたが、声を低める。すぐ外にアロイスが立っている。
クラッセンは首を振ると眉をひそめ、
「……結婚の報告については所定の手続きを受けた上で陛下がご覧になり、しかるべきお返事をいただきます。そろそろこちらに届いていておかしくないのですが、まだなのです。王都には再度確認しております」
「承知しました」
「また懸案のツヴァイク男爵の動向ですが、奥様をかなり必死に探しているようです。南方を中心に探しているようですが、アンペルまでは使用人が来たそうで」
ぞわり、と。ヘルミーナの肌が粟立った。
ここで十分守られていることは頭では分かっているが、染みついた相手との上下関係というものは簡単に忘れられない。
逆らうことは勿論、声や表情に不満を少しも出すこともできなかったあの家は、今となってみれば許容範囲を大きく超えていた。
「ただ探し回っている人数も多くなく、ブラウなら万が一のことがあってもすぐ奥様をお守りできるとのことで、旦那様から外出の許可がいただけました。
必ず侍女と護衛を連れてとのことですが、宜しいですか」
「……はい。ありがとうございます」
「それからご希望のものが届きました。現在騎士団の詰め所に置いてありますのでご確認ください。
そして……最後になりますが、以前のご質問にお答えしましょう」
「はい」
クラッセンの口の動きが、急におもりを付けたように鈍くなり、ヘルミーナは口の端をきゅっと引き締めて頷く。
以前尋ねたことがあったのだ。ウィルヘルムの両親に、前領主夫妻にご挨拶をしなくて良いのかと。早くに伯爵位を譲られたのかと思ったから。
その時は人前だったせいか言葉を濁されてしまったが、事情があるのだとは理解できた。
「前伯爵ご夫妻は14年ほど前、ブラウ付近に連なる山のひとつ、リュッケン山を馬車で走るさなかに事故に遭い、息を引き取られました。
後の調査で判明しましたが続く大雨で土が緩んでおりまして、落石を避けたはずみで馬車が転倒し、斜面を滑り落ちたようです。
御者と奥様はおそらくそのまま衝撃で……。旦那様はしばらく生きておいでのようでした。ただ、馬で並走して護衛していた騎士の一報により我々が知り、捜索隊が発見した時には、奥様を抱かれたまま……」
「……」
ヘルミーナは灰青の目を軽く
夫人が死去していることは庭師から偶然聞いており、前伯爵もそうであろうことは執事の態度や屋敷の雰囲気で察していはいたものの、ウィルヘルムがまだ子供のころに一度に両親を失ったとは思ってはいなかった。
体の前で組んだ手が微かに震えてしまう。そんなものは部外者の感傷に過ぎないだろうに。
ただ、この館の皆がどうしてウィルヘルムに良い主従関係というだけでない、実家とはまるで違う、親しげな態度を取るのかが理解できてしまった。
おそらく憐れんで、それから皆で協力してこの領地を守ってきたのだろう。家族のように。
「そのことが原因で旦那様は、山に手を付けずにおられたのですか」
「…………」
クラッセンは難しい顔をして黙り込んでしまう。
ヘルミーナは急がず続きを待った。細く開いた窓から風が吹き込んで髪を揺らす。
肌寒さを感じ始めた頃、ようやく口を開いた彼はまた長い時間をかけて言葉を紡いだ。
「……領主として生きることを……ご自身に課しておられることは確かです。
領主として立つとお決めになった日から、睡眠時間もご趣味に当てられる時間も削りに削っておられますから。
瘴気症が酷くなってからはどうしても山の上で過ごさねばならず、そのことに罪悪感を抱いておられるようでもあります。ただ、心配だったのは何より……」
その青い目にふと、子を思う父親のような色が過ぎる。
「奥様の仰るように、瘴気が増えても、山と木々には積極的に手を付けておられなかったことです。
瘴気については未知数で、確かに手が回っておりませんでした。ただ自分からも山をどうにかしたい、変えたいということは殆ど口にされなかった」
私は無遠慮に踏み込んでしまっただろうか、とヘルミーナは自問自答する。
瘴気を何とかするとウィルヘルムには話し、木を伐りたいとも護衛の騎士には話した。
無神経だったろうか。過去など知らなかったとしても。
「……それでも、私は、瘴気の発生理由如何にもよりますが、あの木々を伐採することがおそらく複数の問題を解決する合理的な方法だと思います」
――嫌な女だな、と彼女は自分で思う。責任も取れないくせに。
――無遠慮すぎる、と心のどこかでゲオルクが言った。
――知らないくせに口を出すな、と父親の声がした。
それからいつかの前世だか誰だかが言う。
――相手の気持ちは、あなたの想像に過ぎない。だから知りたいなら聞いてみればいい。
「部外者だからこそできることもあるかと思います。
私から資料を集めて検討しまして、どのような方法が最良か旦那様にご相談いたします。勿論、旦那様ご自身にとっても良いかたちになるように」
ヘルミーナはその灰色がかった青い目を見開いて、クラッセンを見つめる。知らないうちに手の震えは収まっていた。
ゆっくり頷く執事の皺は、背後の窓から差し込む光の加減で、先ほどより深く見える。
「私たちが旦那様を子ども扱いして、話すことを遠慮しすぎていただけなのかもしれません。
奥様がいらしてから、旦那様も少しずつ前向きになられているようです。
正直なところ、数日前までは奥様がピケアの標本が欲しいと仰って、それを旦那様が許可されるなど想像もしておりませんでした」
ウィルヘルムの瞳に時折見える深い森の奥の色を、少し怖いと思うことがある。
孤独と、それから他の何かと。
今でも、きっと、これから何度でもそう思うだろう。
ただそれは今のヘルミーナにとって、得体が知れないからではなくて、彼がその先へ一人で行ってしまうことが怖いから。
――彼が守ろうとしている大事なものを手放すほどに何かに絶望してしまうことを、私が、恐れているから。
それでもヘルミーナは信じている。
契約結婚を申し出た時にあの時、意を汲んで手を取ってくれた人が、あの誓いを意味あるものにする勇気がある人だ、ということを。
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