第21話 夫との再会
「お帰りなさいませ……」
ヘルミーナは廊下を急ぐ。
春祭り前日の夕方、旦那様が
彼を背中にして玄関ホールまで辿り着いたとき、「アロイス!」とテオフィルの咎める声が前方から聞こえてきて、ヘルミーナは一瞬足を止める。
声のせいではない。登山姿のウィルヘルムとテオフィルの服が赤黒いもので染まっていたのが見えたからだ。
「アロイス! 奥様をお連れしろ」
「奥様!」
突如空気が冷えたように感じた。知らずに足が石の床を駆ける。
テオフィルと、背後から追いかけてくるアロイスの言葉が発された時には、ヘルミーナは二人の元に辿り着いていた。
「お二人とも、お怪我は!?」
鉄の臭いがつんと鼻をつき、寄るな、という空気を感じて、数歩手前で足を止める。
ズボンにこびり付いた赤。全身を見回せば登山服の上衣は脱げており、ズボンも靴も擦り切れている。被っているはずのウィルヘルムの帽子も手袋もなく、それから、顔を覆う布の上から付けた、贈った白色のマスクが場違いに明るかった。
「わたしもテオフィルも、怪我一つしていません」
彼女自身も意外なほどに冷静さを保てず、耳元まで響く心臓の音を破るように、マスクの下でも少しくぐもった声がヘルミーナに返事をする。
久々に聞いた声は相も変わらず落ち着き払っていたが、気遣うように優しかった。
ヘルミーナの震える唇が小さな声を発した。
「う、上着は……」
「少し汚れましたので先ほど脱ぎました」
「ではこの……血は?」
答えたのはテオフィルだ。
「お見苦しくて申し訳ありません。途中でコボルドに遭いましたが、対処いたしました。ご安心ください」
「対処……」
ウィルヘルムとテオフィルの腰からは使い込まれた長剣と
ウィルヘルムは、ヘルミーナを安心させるように目を合わせてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ええ、多少の危険は慣れていますから、ご心配なく。それに……このいただいたマスクのおかげで、降りてくる間楽でした。瘴気を大分吸い込まないで済みましたので。困った状況でくしゃみをするわけにはいきませんから」
言葉を選んでくれているのは十分理解しているが、ヘルミーナは意味するものにぞっとして自身の両腕を掴む。
前世の自分の死因も、直接は事故だがきっかけはくしゃみだ、と思い出していたから。
「……本当に大丈夫ですよ、ありがとうございます。……テオフィル、わたしへの小言は後にして湯を使いましょう」
テオフィルが尚もアロイスに何か言いたげな視線を向けているので、ウィルヘルムは先を促す。
「……畏まりました」
ヘルミーナはそこで、自分がいてはここでこれ以上の汚れ物を脱げないだろうなと気付いてくるりと後ろを向く。
「あ、あの。それではまた。大変失礼いたしました」
「……あの、ヘルミーナ様」
背後からウィルヘルムに遠慮がちな声をかけられ、はい、と遠慮がちに振り向く。
「言いそびれまして失礼しました。ただいま戻りました」
ウィルヘルムの表情は心なしか柔らかい。
ヘルミーナの、忙しく音を立てていた心臓がゆっくりと納まっていくのを感じた。
「……お帰りなさいませ、お待ちしておりました」
自然と上がった口角に、ウィルヘルムはマスクの下で微笑んだ、ように見えた。
良かったと安心すると同時に、帰ってきたら真っ先に伝えようと思っていたことを思い出す。
「お話ししたいことがございますので、後程お部屋までお伺いしても宜しいでしょうか」
「……え? ……はい」
「ありがとうございます」
ヘルミーナは軽く礼を取って、邪魔にならないように急いで部屋に戻った。無事に戻ったという安堵が少しずつ胸の中に広がっていく。
(また無事にお会いできた)
それが当然だと思っていたなんて、なんて思い上がりだったのだろう。
ウィルヘルムが湯浴みを終えた頃合い、ヘルミーナは夫の私室――領主の私室の前に立っていた。
隣の執務室は案内してもらったことがあるが、ここに入るのは初めてだ。
「どうぞ」
「……失礼いたします」
広葉樹材の深い色合いで統一された部屋はヘルミーナの寝室のそれと同じくすっきりしたラインの古い家具が並んでいた。
どれも使い込まれていたが、布だけが新しくなっていた。真新しい麻や綿でできたグレーのカーテン、シルクのカバーリング。
「クラッセンから話を聞きまして、せっかくなのでかけ直しました」
ヘルミーナが部屋に踏み込めずにいると、原因の一つである湯浴みを終えたばかりの――真新しい黒い布を巻いたウィルヘルムの視線が、あちこちを指し示す。
部屋の入り口のポールハンガーにかけた、服に付いた花粉を部屋の入り口で落とすためのブラシ。
彼の前のテーブルには、桶と加湿用にお湯を張った――湿度を上げて花粉が舞い上がらないようにしたボウルと籠。
「お話とはこのことでしょうか? 手配していただいたのですね。ありがとうございます」
「必要でしたらお使いいただけたら、と。
それから、籠の中身は化粧水と保湿クリームを修道院から分けていただいたものです。炎症を抑える薬草と、少しだけミントが。お体に合わなかったら中止してください。それから……」
湯上りの男性と視線を合わせるのが気恥ずかしく、俯きがちだったヘルミーナは、話すべきことを一通り説明してしまってから、もうひとつの本題に入ろうとした。
花粉症対策としてはしておきたいけれど、プライベートに、気にしていることに踏み込みすぎてしまわないかと迷っていたことだ。
本当は他の花粉症対策をしてから徐々に話を切り出そうと思っていたが、今日の帰宅時の姿で決心がついた。
「その、お顔の布なのですが……蒸れてしまうと痒みが出るかと思いますし、それに……」
「いいですよ、何でも仰ってください」
「……出過ぎた真似でしたら申し訳ありません。
多分巻かれたままだと、ご不便も多いかと思って。おそらく首や視界が動かしにくくなったり、口が大きく開けずに助けを求めにくかったり」
落ち着いていたはずの心臓が、先ほど感じたばかりの感情――恐怖を思い出して騒ぎ始める。
「……取って欲しい、と?」
ウィルヘルムが俯く。声に若干の緊張を感じ取れるが、どうしても伝えておきたかった。
「……抵抗がおありなのでは、と拝察しますが、せめて山道を行く時だけでも取っていただけたり、できないでしょうか。
今日はもしかしたら私へのお気遣いで使っていただいたのかなと思いまして……マスクは着脱が簡単で顔を覆えますし……怪我無くお帰りいただきたいのです」
「……」
「それから、明日のお祭りですが、被り物をゾフィーと作ってみたのです。領民が伝統衣装を着るというので、仮装はどうかと思い。
あの……正直なところ、その布はお顔を守られたりするのには良いと思うのですが、鼻の下が気になりませんでしょうか」
花粉症はひどいと、ティッシュという薄紙を箱ごと鞄に入れて持ち歩く人もいる。要するに、鼻水が止まらない状態だから。
「それで、上から被れば人の目も避けられて、良いのではないかと。
お祭りについてクラッセンさんに伺ったのですが、春を呼んでくる鷹が野に花の種をまく伝承があると知り、それで。私の分も作りました。
……それだけ、です。失礼いたします」
言いたいことを一息に言ってしまったヘルミーナは、深く礼をして撤退しようとする。
扉の取っ手は手の届く位置にあったから、すぐに出られるはずだった。言葉が短くなければ。
「あの」
背中にかかった声に、手をかけたまま動きを止めれば、声が追ってきた。
「……ありがとうございます、本当に、色々……」
「いえ、大したことでは――あ、もし夜中に鼻が詰まってしまったら、湯気か蒸したタオルで鼻を温めると良いですよ」
ヘルミーナは緊張のあまりそんなことを言ってしまう。元々色気のある話なんて何もしたことがなく、鼻水だの鼻づまりだのの話だったが。
「……明日。楽しみにしていますね」
それなのに遠慮がちに零れたような声が優しくて、熱くなる頬をごまかしながら部屋を出るのが精いっぱいだった。
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