第23話 ブラウ湖と青

 ブラウ湖を渡る、少し湿気を含んだ柔らかい風が頬を撫でる。王都を出てひと月ほど経つうちに春らしい風が届くようになってきた。

 草地に踏み込むヘルミーナの靴は履き口が浅くて足首が露で濡れるものの、春の萌え出たばかりの明るい色の草や葉のしなやかさが心地良い。

 ウィルヘルムの咳と鼻をすする回数が減ったのは、湖の上に勿論ピケアは生えておらず、湖面と湿気が瘴気を含んだ花粉を掴まえていてくれるからだろう。


 脱いだ仮装の鷹の作り物を、二人はゾフィーに預けると代わりに帽子を深く被る。


「綺麗な湖ですね。何層にも青を塗り重ねたみたいで、それでいてすごく透き通っていて。ウィルヘルム様やテオフィル、ゾフィーも、この街の皆がこの湖を見て育ったのですね」


 ヘルミーナは湖の際ぎりぎりまで歩くと、ドレスの裾を折りたたむようにして座り、手を水に浸す。

 波紋が静かに広がり、ひんやりとした冷たさを感じる。夏はさぞ心地いいだろう。手を引けば、雫が水晶のようだ。

 遠くで見たブラウ湖も綺麗だったが、深い水底まではっきり見えそうな透明度は彼女の目を奪った。

 陽に反射する湖面の他にきらきらと輝くものは、気持ちよさそうに泳ぐ魚の鱗。ずっと見ていたくなってしまう。


「……私も、この街が好きです」


 ウィルヘルムのことを考えれば長くここにいるべきではないとは分かるけれど、今日見て回ったブラウはとても居心地が良かった。

 今後離婚してもこの街のどこか、ブラウを出たとしてもフェルベルク領のどこか――アーテム辺りで過ごそうというくらいには。


「そして手を振るブラウの皆さんの笑顔を見て、きっと皆さんはもっと街と旦那様のことが好きなのだなと思いました。

 だから、必ず無事に山から帰ってきてくださいね。……帰還された時、まさか怪我をなさったのかと少し怖かったです」


 少しではなく本当は、もっとだ。死と隣り合わせの状況があるのだと今更実感してしまった。


「あれくらいは、時折あることですので――」


 何気なく返したウィルヘルムは、ヘルミーナの心配そうな表情に流石に言葉選びがまずかったか、と思ったように付け加える。


「これからノスリを飛ばして降りるようにします」

「旦那様の鷹ですね」

「魔物を見つければ迂回できますし、伝書鷹としても優秀ですし、ロープウェーより早いですよ。……今後のことを考えると、あなたの分も一羽貰った方が良いかもしれないですね」

「……宜しいのでしょうか?」

「ええ、扱い方はエメリヒたち山の出身の騎士たちに教えてもらいましょう」

「是非、お願いします」


 視線を湖面からウィルヘルムに移し、ヘルミーナが勢い込んで言えば、戸惑ったように目を瞬く。


「どうされましたか?」

「旦那様に何かあった時に、連絡が取れると安心だなと思いまして」

「用事、ですか。……用事がなくても、送ってくれて構いませんよ。やはり人づてでは言いにくいこともあるでしょう。一人でここに来られたのですから」


 いえ、とヘルミーナは首を振って再び湖面に視線を落とす。透き通る水の表面に揺れる自身の顔は淑女というには感情が勝ち過ぎていた。王都にいた頃はなるべく無表情でいようと心掛けていたから自身の変化に戸惑いはあるが、不思議と嫌ではない。

 ゆっくり立ち上がる。


泉の館クヴェレでも本当に皆さんに良くしていただいて。私などが申し上げて良いのか、何も解っていないと思われそうですが、きっと旦那様が頑張ってくださっているから、良い領地なんだと思います。瘴気なんて本当に、ささいなことだって勘違いしてしまいそうになるくらい……皆さんほら、笑顔で」


 笑い声が耳に絶えず届いている。周囲に目を向ければ側で涼む男性、お弁当を広げる老夫婦、湖に足を浸す若い女性、跳ね上げる子供、水切りで競う友人たち。


「わたしも子供のころはああやって遊んでいましたよ。今ほど具合が悪くなることも少なかったので。……ただ、そうですね。今の子供たちがわたしのようにならないために……伐採は必要ですね」

「プレッシャーをかけたいのではないのです。……あまり自分のことを後回しにしないでくださればと。旦那様が笑っていたら皆も、もっと笑ってくれるのではないか、というくらいにお考えになって――」


 そう言って、隣に立つウィルヘルムの顔を見れば、戸惑ったように目線を彷徨わせていた。


「……ええ、はい。お言葉ですが、それはお互いさまではないでしょうか」


 そして意外にも、どこか意地を張るような反論が返ってきた。


「そうですか?」

「そうです。あなたが来てからご自身の健康も顧みず……」

「は、はい」

「……領地の情報をまとめ上げてしまうものですから、いろいろなことが変わりました」

「何にもできておりませんが」

「少なくともわたしにとっては変わりました。マスクをいただいたり、瘴気のことも対処をせねばと思いましたし……ええと、あなたが、妻が来てくれて領民も喜んでくれました」


 ウィルヘルムの耳の端がいつの間にかほんのり赤く染まっている。


「ただ……あの、朝は失礼しました。あまりにドレスがお似合いでしたので、それに、ブラウの青を選んでいただいて嬉しいと……わたしなどの隣にはもったいないと思い。髪のフレナグの花も大事にしてくださるとは思わず……」

「ではそれも、お互い様ですね。言いそびれてしまいましたが、ウィルヘルム様の衣装もお似合いだと思います」

「……鷹の仮装でしょうか?」

「鷹もですね」


 ヘルミーナも視線を逸らして熱い頬を風に当てて冷ましていると、彼が背後からの従者の遠慮がちな視線に気付く。

 どうやら時間が来てしまったらしい。


「……そろそろ戻りましょうか。お手をどうぞ」

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