第24話 あなたのことを何も知らない

 要人との夜の会食を終えて泉の館クヴェレに戻った時には、今まで調子が良かったはずのウィルヘルムの体温は平熱よりやや高くなっていた。

 

「ありがとうございます。一日中熱を出さずに見て回れたのは、被り物とマスクのおかげでした」


 ヘルミーナはそれでも自分の我儘に付き合わせたからと自室まで同行していた。

 ウィルヘルムはテオフィルが一度着替えなどの用意をしに出て行った後、顔を覆う黒い布を巻き取りながらわずかに熱い息をこぼす。


「毎年このような?」

「程度差はありますが」


 現れる頬の輪郭の滑らかなはずの線はわずかにでこぼこした曲線だ。目もはれぼったく、鼻の頭は勿論、鼻の下は皮膚が特に赤い。


「……醜いと思われますか?」


 そんな自嘲めいたが声がかかさついた口から零れたので、ヘルミーナはきっぱりと否定する。


「以前も拝見しましたが、そんな風には思いません」


 そう言わせてしまっているのが誰のせいなのか、ヘルミーナには解っている。この城や領地でもしそんな声を耳にしたとして、馬鹿にしたり蔑んだ意図で言う人はごくごく少数だろう。

 ただ王都の社交会で、婚約者探しという俎上に載せられたならば。


「王都や貴族の社交、とりわけ結婚においては不利になります。ですがその価値観はその場限りのものです。

 きっとフェルベルク領の皆さんは気になさらないと思いますし、私も気にしません。痒いだろうな、などは思いますし、それらや目を引くこと自体がお嫌だという気持ちも解るつもりですが」

「ええ」


 赤くて、湿疹ができていて、かさついていて、でも美男子と呼ばれなくとも、どちらかと言えば整っている方ではないかなとひいき目なしにヘルミーナは思っている。

 ただ、手入れをすれば“綺麗に”なるとか格好良くなるという言い方はしたくなかった。

 他人からどう見えるか気になって苦しいこと、他人を不快にさせないためにと覆う気持ちも解るけれど、自分の心地よいと感じることを優先して欲しいし――そのことに罪悪感を抱いて欲しくない。


「私のことでしたらお気遣いは無用です。

 取って欲しいと申し上げたのも勿論安全のためもありますが、できるだけ風通しを良くして、保湿と手当てをされた方がきっと良くなると思いますし、心地いいと思います……せめて……お一人、いえ、お部屋や館におられる時は。

 それから、もしよろしければ……私の前では。練習だとお思いになって」

「本当に……お見苦しくありませんか」

「いいえ。本当です。私、花粉症でしたので鏡の中で、自分の顔で何度も見ました」


 ここまで酷くはなかったけれど、とは言わないでおく。

 そんなことよりも、滅多に見れない素顔が見れて嬉しいという気持ちの方が強い。


「取られた方がお顔も見えて、表情が分かりやすくなりますので、そちらの方が嬉しいです」 

「……ヘルミーナ様はお優しいですね」


 安心したようにウィルヘルムが顔をカモミール水に浸した布で拭い、息をこぼすような呟きが漏れる。彼が椅子に腰を下ろして転倒の危険がないことを確かめると、ヘルミーナは部屋を出ようとして――その手を、背後からウィルヘルムが捉える。


「旦那様?」


 振り返ったヘルミーナの頬に赤みが差す。

 椅子にもたれかかったウィルヘルムは、疲労のためかうとうととしているように見えた。我慢強いたちだから言わないだけで、思ったより体に負担がかかっていたのかもしれない。

 彼は半ば閉じた目で彼女を見上げる。


「ああ、済みません。少しうとうとしてしまって」

「もうお休みになられては?」

「そうですね……仕事があるのでそれまで少し休憩を。ヘルミーナ様からも、山についてご相談が……ありましたね。一時間後に図書室では?」

「はい」


 頷いたときにはもうウィルヘルムは無防備にも眼を閉じてうつらうつらと頭が揺れていた。

 そうっと邪魔をしないように手をゆっくりとはがそうと両手で触れたとき、ほんの小さな、うっかりすると聞き逃してしまいそうな声が耳に届いた。


「……行かないで」

「はい、何でしょう」


 どうしたものか、とヘルミーナがぴたりと動きを止めれば、


「お父様。……行かないで、マルガ……」


 ……その声音は知らないウィルヘルムの、まるで子供の頃のもののようだった。

 そして呼びかけた相手は、ヘルミーナではない。


 ヘルミーナの睫毛が震えて、おずおずと自身の手を取る大きな手のひらに手を重ねる。

 何をすべきかは理解した。が、喉が張り付いたようだった。喉がまるで言いたくない、とでもいうように。

 安心させるようにウィルヘルムの手をぎゅっと一度握ってから、そっと引きはがす。


「大丈夫ですよ……大丈夫、ウィルヘルム様」


 ――初めて名前を呼んだというのに、そう言ったのは、自分であって自分でない。


 ヘルミーナは喉に力を入れて、嫌な息が出そうになるのを飲み込むと、静かな寝息を確認してそっと離れる。


 戻りました、と荷物を抱えてきたテオフィルに、眠ってしまったので後はお願いしますと任せて、ヘルミーナは二人から顔を背けるようにして部屋を出た。


「……おかしい」


 自分の方が熱を出してしまったのではないか、と思った。

 通り過ぎた廊下の窓ガラスに顔が赤い自分が写った。顔が熱くて頭に手をやればもらったフレナグの花に触れてしまう。


「契約結婚で、せいぜいが志を同じくするだけなのに。お城の皆と一緒になれて嬉しいはずなのに……」


 今日の外出で少しはウィルヘルムのことを知れた。マスクも、布を外すことも、受け入れてもらっても、彼のことを分かった気になっていただけだ。

 何も知らないのだなと思い知らされる。

 今日ずっと嬉しかった分だけ、なんだか苦しい。


「奥様、どうされましたか?」


 立ちすくんでしまっていたのか、声に振り返れば家政婦のラーレがいた。少しふっくらした包容力がありそうな笑顔が今は甘えてしまいたくなる。


「マルガ様という方はどなたでしょう。ご存知ですか?」

「あら、お聞きになられましたか? 旦那様の昔の婚約者・マルガレーテ様です」


 返答に、ヘルミーナは、何故そんなことを思いつかなかったのだろう、と自嘲した。貴族で伯爵の嫡男だったのだから、当然幼少期に相手は決められていたはずだったのだ。


「……仲は宜しかったのですか」

「いいええ。とはいっても険悪という訳ではなくて、そうですわね、可愛らしい喧嘩ばっかりでしたよ。大人しいウィルヘルム様にお転婆なお嬢様でしたから」


 昔を思い出して控えめに笑うラーレに、ヘルミーナも何とかあいまいに微笑し続きを促す。話しぶりからすると婚約者だったのはだいぶ昔のことのようだ。


「ある日お嬢様が、ウィルヘルム様や使用人が止めるのも聞かずに飛び出して、勢い余って川に落ちてしまって、ちょっと怪我をされたんですよ。

 わんわんお泣きになって、お父様が溺愛されていたものだから激怒されて、それで婚約も破棄になって疎遠に。

 もし奥様がいらっしゃらなかったら、その男爵が爵位を継ぐことになりそうだってお話でした」

「……そうですか」

「どうかされましたか? ……奥様? ご気分でも? ……変なことをお話ししてしまったかしら」


 ラーレに顔をじっと見つめられ、ヘルミーナは口元に手をやる。口角が上がっていないどころか、少し下がっていたようだ――ポーカーフェイスは慣れたものだったのに。


「……少し確認しておきたかっただけなのです。今から着替えますから、ゾフィーを呼んでいただけますか」


 ヘルミーナが自室に戻る足は知らずに早く、やがて小走りになっていた。


「そうね、時間がないのですから。仕事の資料を急いでまとめましょう」


 そう、今までウィルヘルムが話さなかったことなのだから、つまりはヘルミーナには関係ないことだ。

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